『世界初、3人のDNAを持つ赤ちゃんが誕生』—生殖医療の進歩が突きつける「命の誕生に、どこまで技術の介入が許されるのか」の問い。

このコーナーでは、コラム形式で「不妊・産む・産まない」にまつわる国内外のニュースやリサーチを紹介していきます。書き手は、UMU編集部メンバー。専門家ではない個人の立場から、思ったことや感じたこと、読者の皆様と考えたいことなどを綴っています。


めざましい医療技術の進歩によって、不妊治療の現場においても、昔では考えられなかったようなことがどんどん可能になっています。それに伴い、「技術を使って、できることは行う」と「技術を使えばできるけれど、(倫理的・法律的・宗教的理由等により)行わない」の線引きはより一層難しいものになってきたと感じます。

そんなことを改めて考えさせられるニュースです。

『世界初、3人のDNAを持つ赤ちゃんが誕生』
<World’s first baby born with new “3 parent” technique>

(出典:New Scientist/2016年9月27日)

 

ー以下、日本語概要
▼ 3人のDNAを含む受精卵をつくる新技術を用いて赤ちゃんを誕生させる試みに、米科学者チームが世界で初めて成功していた。男児の赤ちゃんは2016年4月、メキシコでヨルダン人夫婦の下に誕生し、健康状態は現在も良好だという。

▼ 母親には「リー症候群」と呼ばれる遺伝性の神経系障害がある。母親の障害が子どもに引き継がれ、これまでに2人の子どもが出産後(6歳、8ヶ月)に死亡し、さらに4回の流産も経験していた。
夫婦は、自分たちの遺伝子を受け継ぎつつも健康な赤ちゃんを産むため、米ニューヨークにある医師の元を訪れたが、米国では3人の遺伝子を持つ受精卵の不妊治療目的での作製が認められていないため、ニューヨークの医療チームは規制がないメキシコで治療を行ったとされる。
▼ リー症候群の原因となる遺伝子は、母性遺伝するミトコンドリアDNAに含まれているため、医師は母親の卵子から核を抽出し、卵子提供者の卵子に移植。母親の核DNAと提供者のミトコンドリアDNAを併せ持つ卵子を作製し、父親の精子で受精させた。
▼ 研究に携わっていない他の研究者は、技術の信用性や安全性についてまだ不安視しているが、2016年4月に産まれた男児には、今のところ疾患などの確認はされていない。

 


急スピードで発達する医療技術

子どもを持ちたいと長年望んだ夫婦。遺伝子疾患によってほぼ不可能とされていた「健康な子どもを産むこと」が、技術によって実現されたことは大変喜ばしいことです。

一方で、こうした生殖医療の進歩について難しいと思うのは、法整備や倫理面のコンセンサスよりもずっと速いスピードで、技術が発展し続けていることです。

例えばアメリカでは人工子宮の研究が進み、20年以内には人工子宮による妊娠・出産が可能になると言われています。また、iPS細胞技術の発展により、同性間で血のつながった子どもを授かることも、技術的には近い将来可能になると見られています。

 

進む医療技術と揺れる生命倫理

「生命の誕生に、どこまで技術が介入してよいのか」ー。
この問いは、考えれば考えるほど深く、重いものです。
社会として守るべき価値観・倫理観、個人の幸福、産まれてくる子どもの人生。
どれも大切なものだし、一概に「こうあるべき」と決めつけることはできません。

生殖医療の進歩に救われる人が、世界中にたくさんいる。
一方で「技術的に不可能」であれば他の選択肢を探れることも「条件を変えればできる」となると、どこで自分たちの欲求に線を引くかが、個人としてはどんどん難しくなっていきます。

例えば日本では、第三者による卵子提供は条件が厳しく、代理出産も原則として行われていませんが、アメリカでは州によっては当然の選択肢として、不妊治療中の方たちに提示されています。
そうなると、今までもそうだったように、女性側の卵子や子宮による出産が難しい夫婦が血縁関係のある子どもを望む場合、アメリカ含め他国でその可能性を探るようになります。高額な料金を支払って。

強すぎる規制の元では、このニュースのケースのように疾患を持っている人たちや、やむを得ない理由で実子を持てない人たちに、実子を持つ可能性が閉ざされてしまうことが指摘されています。

 

逃れられない問いを前に

これは人間の命の話。
技術的に可能なことはどんどん取り入れていけばいいのかというと、もちろんそういうわけにはいきません。

加速度的に進んでいく生殖医療は、絶えず私たちに難問を突きつけてきます。
「生命とは何か」「生命をどこまで操作してよいのか」という問いを。

医療技術は、生命の誕生にどこまで介入できるのか。どこまで、介入してよいのか。

この逃れられない問いについて、個人として、これからもずっと考えていかなければならないと思っています。
社会としても、避けては通れない問いです。
守るべき一線をどこに引くか、それは当事者だけでなく社会全体
にどんな影響をもたらすのか、これからも広く議論が必要だと考えています。

(文・瀬名波雅子)