「産みたい人を支える看護師」のキャリアか、「自身の妊娠・出産」か—。 生殖医療の現場を経たいま伝えたい、あのとき“決断できなかった私”へ。<後編>

自身も流産の経験がありながら、不妊に苦しむ患者さんにどう声をかけてよいか分からず、悔しさから不妊症看護を目指すことにした、猪股恵美子さん。<前編>では、恵美子さんが「不妊症看護認定看護師」を取得するまでの歩みを振り返ってもらいました。取得後は、その仕事ぶりにこのまま不妊症看護を極めていくものと、誰もが疑いませんでした。ところが、不妊治療を卒業していく患者さんと接するうち、次第に彼女は、諦めたつもりだった妊娠・出産への思いを断ち切れていない自分に気づきます。この<後編>では、「キャリアか妊娠か」と抱いた葛藤に焦点を当て、その心の内を丁寧に語ってもらいました。そして、長い迷いのトンネルを抜けた恵美子さんの、現在の心境についてもお伺いしています。

<前編>はこちら!

猪股 恵美子 / Emiko Inomata   鴻巣准看護学校専任教員
千葉県生まれ。2000年看護師資格取得後、産婦人科病棟勤務。産婦人科外来で出会った不妊症患者との出会いにより生殖看護に興味を持ち、2008年より生殖医療の世界へ。
更なる専門知識とケアを学ぶために、2011年に聖路加看護大学(現 聖路加国際大学)看護実践開発研究センター不妊症看護認定看護師教育課程に入学。2012年、日本看護協会認定不妊症看護認定看護師資格取得。2013年、日本生殖医学会認定生殖医療コーディネーター資格取得。生殖医療の現場で看護師長と認定看護師、コーディネーター業務を6年半経験。
在籍中に准看護学校での母性看護学外部講師を務めた経験から、看護教育やさらに広い視野での看護活動の必要性を感じ、2019年より鴻巣准看護学校専任教員として着任。「看護の始まりの楽しさ」を伝えるべく奮闘中。
私生活では、流産、離婚、再婚を経て、現在養子縁組に向け準備中。

 


決めかねている自分が、いつもいた

  「患者さんの器になろう」と頑張るも、揺らぎ始める心

― 再転職した新規開業のクリニックでは、患者さんからの24時間の緊急問い合わせ先を、ご自身の携帯にされていたとか。現在の旦那さんと再婚されて数年の頃かと思いますが、どうしてそこまで仕事に打ち込めたのでしょう?

おっしゃるとおり、自己注射の仕方や薬の副作用など、帰宅してからも患者さんが心配なことがあればすぐに問い合わせできるように、24時間対応していました。夜中2時に電話相談に乗ることもありました。

今思えば、患者さんとは、同じ目標を目指す同志感みたいなものがありましたね。認定看護師として、「注射や投薬、説明だけが看護師の仕事ではないだろう」という意地もありました。
自分だから分かる気持ち、選択の辛さ、家族への申し訳なさ。とにかく目の前にいる患者さんの器になろうと頑張ってきました。

院長も、「治療を施すよりも、スタッフと話して元気になってくれることのほうが妊娠への近道になる」という考えで、とても共感できたし、私には自由にやらせてくれました。今でも本当に感謝しています。

だけど、そうやって日々患者さんと接し、仕事に打ち込むなかで、少しずつですが、一度は「諦めよう」と踏ん切りをつけたつもりだった自分自身の妊娠についても、改めて考えるようになって…。

― どのような心境の変化があったのでしょうか?

少し背景からお話しすると、当時の職場では看護師長として大きな責任を与えられ、やりがいをもって働かせてもらっていました。
開業して間もないゼロからのスタートでしたので、ケアのマニュアルの作成や、医療相談と心のケアの体制整備、患者会の立ち上げなど新しいことを考えてはやり直して、また考えてという、忙しくも充実した毎日でした。

でも、クリニックの運営が落ち着いて、安定して看護を回せるようになったときでしょうか。スタッフが妊娠して、久しぶりに妊婦さんを目の当たりにしたとき、自分の心がモヤモヤしていることに気づいたんです。「年齢的には私のほうが先じゃないの」って…。

一方で、担う責任が大きいぶん、自分が抜けたあと誰がこの役割を担うんだろうと思うと、なかなか妊娠に気持ちを傾けることができませんでした。「キャリアを捨てたくない」という気持ちも大きかったですね。

だけど、次第に患者さんと話しているうちに、流産後の患者さんを目の前にすると当時の自分を思い出したり、子どものいない生活を選択していった患者さんに、自分の姿を重ねるようになって。

対応しているときは大丈夫なんですが、帰り道の車で、思わず涙が溢れてきてしまうんです。

 

  「私はどうしたい?」

― キャリアか妊娠かで再び、迷いはじめたのですね。でも職業的にも立場的にも、責任の重さから容易に選択できない状況だったのでは。

そうですね。看護師は特に、その職責の重さから、気づいたら出産適齢期を過ぎてしまい、不妊治療を受ける方が多いように思います。だからこそ、患者さんと話をしていると、患者さんの決める力って、すごいなって改めて思うようになったんです。

患者さんからは、「子どもを欲しい」という気持ちをとても強く感じるのに、自分はどうなんだろうって。仮にがんと診断されたら、はやく治療を受けないとって前向きになるんだろうけど、自分には子どもを授かるための努力がそこまでできない。

「みんなはこんなに目標が定まっていて、不妊治療に向き合うことを決められているのに、自分はまだ決められない。私、何をやっているんだろう」。そんな気持ちが日増しに強くなりました。

もちろん、持病のこともあって、妊娠には消極的にならざるを得ませんでした。このとき、腎臓のステロイド治療が再び始まっていましたから。
でも、今思えば、病気のことは単なる言い訳に過ぎなかったのかもしれません。

― 出産を考えるには、年齢的にもギリギリのタイミングでしたね。

はい。「産みたい。産まない。決められない自分。先に進めない自分。私はどうしたい?」。
自問自答しながら、気づけばその時、40歳になっていました。

でもまだ、自分のなかで子どもを持つ、持たないの結論は出ていないまま。「子どもはいいか」と思いながら、かといって、完全には諦めきれていなかったんですね。

確かに、年齢的に妊娠は最後のチャンスでしたが、ただそれでも、不妊治療を受けようとは思いませんでした。私の気持ちだけではなく、夫は夫で、医療が介入することに抵抗があるようでしたから。

でも、それもちゃんと聞いたわけではないので、旦那も治療を受けるかどうか、そもそも子どもをもつかどうか、決めかねていたのかもしれません。
決めかねている2人がいつもいる、そんな感じでしたね。

 


「このままだと前に進めない」。不妊症看護に決別

  患者さんと距離を置きたい、と思うように

― その後、恵美子さんはどうされたのでしょう?

結局、長年勤めた不妊治療のクリニックを去ることにしました。クリニックで6年半ほど働きましたが、新しく作りたいと思うことが段々なくなってきてしまって。後輩も育ってきていましたし。

正直なところ、患者さんと日々接するうちに葛藤のようなものが生まれ、距離を置きたいという気持ちが芽生えたことも事実です。患者さんが授かったお子さんを連れてきてくれたとき、レントゲン室に隠れて泣いたこともあります。

直接辞めるきっかけになったのは、ずっと接していた患者さんが妊娠されたことです。自分の医療者としての役目が終わったと同時に、置いていかれたような気持ちがこみ上げてしまって。その方から最後にもらった手紙には、私がこれまでアドバイスしてきたことが、一言一句、感謝とともに丁寧に綴られていました。

嬉しかったですね。でも、本音を言えば、やっぱり寂しい気持ちのほうが大きくて。このままここにいたら、自分こそ前に進めない、そんな気持ちが徐々に大きくなっていきました。

それに、生殖医療はもちろん大事な分野ですが、医療の全体で考えたらごく一部。ここの世界しか知らないのはもったいない、とも思うようになって。かつ、プライベートでは母の介護も必要となり、それもきっかけとなり退職を決めました。

― 現在はどんなお仕事を? 

たまたま看護学校時代の同期が、埼玉県の看護学校の教務主任をしていて、講師の声をかけてくれました。 

看護学校に決めたのは、彼女が、「看護の始まりが楽しくないと、看護師って続かないと思う」と言った一言です。
今は、看護学校の専任教員として、基礎看護や母性学などについて准看護師を目指す学生に講義をしていますが、その言葉どおり、看護の楽しさを伝えていきたい。責任重大ですけどね。
 

とはいえ、今年着任したばかりなので、これから2学期、3学期と業務に慣れるとともに、生徒の成長を一緒に楽しんでいるところです。 

― 不妊症看護から離れてみて、改めて、今の距離感から見る不妊症治療は、恵美子さんにはどう見えますか? 

そうですね。不妊症治療についての個人的な問題意識としては、現場を回すだけの医療を終りにして、もっと患者さんを支える力を医療者側が付けていかなくてはと思います。

もちろん、不妊症看護認定看護師をはじめ、勉強しているスタッフの方々は、患者さんに寄り添ったケアの大切さを痛感しています。けれど、実際に現場で働いている人すべてにその心構えが行き届いているとは思えません。

不妊治療に関わる医療者全体が「治療中の患者さんを支えていこう」と強い気持ちをもって働くようになれば、患者さんの居心地はもっと良くなると思っています。

 


人生って、自然と決まっていく

  いずれは養子縁組を

― 恵美子さんご夫婦は養子縁組について前向きに考えていらっしゃるそうですね。いつから考えていたんですか?

実は養子縁組については、私の身体の事情もあって、今の夫と結婚したときからちらほら話には出ていたんです。やはりなんだかんだ夫婦とも子どもが好き、というのが心のどこかにあって。

私には父親が違う姉がいるんですが、そのためか母も血のつながりにはこだわらず養子縁組に寛容でして。旦那のご両親も前向きですし、幸い、養子縁組については身内の理解に恵まれているんです。
でも何より大きいのは、認定看護師の同期が不妊治療などを経験された後、先に養子縁組をしていたことです。彼女からの応援も大きな後押しになっていますね。

先日、養子縁組の説明会に参加してきました。近い将来、養子縁組の研修にも行って、次のステップに進めたらと思っています。
自分が母親になる姿なんてまったく想像つかないんですけど(笑)。でも楽しみです。

 

  また、新しい自分を育てていきたい

― 20代で結婚された当時、家族像がまったく描けなかったという恵美子さん。しかしその後さまざまな心の葛藤を経て、恵美子さん夫婦オリジナルの家族像が、少しずつ輪郭を持ち始めているように感じます。それでは最後に、当時、「決められなかった自分」にかけてあげられる言葉があるとしたら、恵美子さんはなんと伝えますか?

そうですね、「決められなくてもいいよ」、ですかね。

決断するって苦しいですよね。多分、私はそこから逃げたんだと思います。子どもを欲しいと思いながら、今までのキャリアも犠牲にしたくなかった。そして気づいたら、妊娠は難しい年齢になってしまった。

でも、結局、決められなかったというのは、その時はまだ決めるタイミングじゃなかったのかもしれません。あのとき、決められなくてもよかった。人生って、きっと自然に決まっていく。

そう思えるのは、今の自分が、あの頃の自分とだいぶ遠いところにいるからかな。
いろんなきっかけが重なって、不妊症看護に無我夢中で打ち込み、そして、今また、新しい職場で違った目標を見つけることができた。

流れに任せただけかもしれませんが、でもそうやってたどりついた今の自分にある程度納得できているからこそ、そう思えるんだと思います。

逃げたと捉えるか、進んだと捉えるかは自分でも分かりませんが、まずは新しい環境で、また新しい自分を育ててみたいと思います。

取材・文 / 内田 朋子、写真 / 望月 小夜加

 


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