「生きている」という事実がなによりの宝物—。妊娠23週6日で生まれた双子が気づかせてくれた、命の有り難さと家族の絆。<前編>

排卵障害を乗り越えて双子を妊娠するも、妊娠22週目で切迫早産と診断され、その後すぐに緊急入院。23週と6日で、630gの男の子と570gの女の子を出産した公文紫都さん。<前編>では、17歳年上の夫との結婚から、ニューヨークでの妊娠・出産のこと、生後13日に訪れた息子の死と、喪失感の中、改めて誓った「娘を守り切りたい」という想いー。その時々で感じてきた気持ちや、事前には想像もしていなかった出産時の経験について語っていただいた。

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公文 紫都 / Sidu Kumon 1986年1月、東京都生まれ。2014年5月よりニューヨーク在住。職業はフリーライター。主に米国のEコマースに関する記事を執筆する。2015年8月、妊娠23週で体重600g前後の超低出生体重児の双子を出産。個人のブログ(Purple and the City)では育児記録、NY生活、ポジティブ&ユニークな子育てに関するインタビュー記事などを紹介している。著書に『20代からの独立論(前編・後編)』(インプレスR&D)。”Funteresting”(Fun+Interesting)な生き方、文章を書き続けることが人生の目標。
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結婚、渡米、ニューヨークでの妊娠

  お花見での出会い。急に決まった渡米と結婚

元々同じ業界にいた夫とは、同じく業界が一緒の親戚と夫の中高時代の友人が企画したお花見で出会いました。私はそこで会う以前からTwitterで夫のことをフォローし、共通の友人も多かったので、すぐに話は盛り上がったものの、その時はそれくらいで。半年後に、お互いの会社が同じ展示会に出展していて再会したんですが、彼は私のことを覚えていませんでした(笑)。その翌日も1日に2回、街中でバッタリ会う偶然が重なり、一緒に飲み会を企画するなど連絡を取り合うようになってお付き合いが始まりました。

— その後ご結婚されて、ニューヨークに行かれたんですよね。

そうですね。一緒に暮らし始めて半年ほど経ったころに彼がニューヨークへ出張に行くことがあって、「私も自分でお金出すから一緒に行きたい」と言ってついて行ったことがあったんです。実はその頃、ずっと体調不良が続き困っていたのですが、ニューヨークに行ったらそれまでにないくらい体調が良くなって。でもその後日本に帰って来てからはまた体調が悪くなってしまいました。

「ニューヨークにいた時はあんなに調子良かったのにね」と二人でも話していた時に、「じゃあ一緒にニューヨークに行こうか?」と夫が言い出して。実はその日、会社でニューヨーク転勤の話がほぼ決まったらしく。それまで一度もそんな話聞いたことなかったですし、「行く?」と聞かれても、結婚もしてないしプロポーズもされていないから、「私一体なんのビザで行くんだろう…? 学生ビザ…?」と心のなかで疑問を感じていました(笑)。

その後酔っ払った勢いで「やっぱりプロポーズはされたいなー」と言ってみたら、「1月20日ね!」と私の誕生日を言われて。誕生日にプロポーズ! と期待していたんです。そんな時、自宅に遊びに来ていた知人から「二人はニューヨークに行くんですよね? 結婚するんですか?」と聞かれ、夫が「はい。1月20日に入籍します」と答えていて。

私はてっきり1月20日にプロポーズだと思いこんでいたので、これにはビックリ。「ん? 何も聞いてないけど?」「言わなかったっけ?」「いや、聞いてないかな」というやりとりをしつつ(笑)、急遽段取りを組んで私の誕生日に入籍を済ませました。本人はクリスマスイブにプロポーズしたと言い張っているんですけど、私の記憶にはまったくありません(笑)。

そんなこんなで入籍を済ませてから4ヶ月ほどして、ニューヨークへ来ました。

—ご夫婦の年齢が17歳離れているということですが、年齢差は気になりましたか?

私の家は両親もちょうど17歳離れているんですね。ずっと両親を見てきたからか、あんまり年齢差は気にならなくて。それに私は父が51歳のときに生まれたので、私が高校生や大学生の頃、父が「今日は若いやつが来るぞー!」と言って自宅に連れてくるのは50代の方とか(笑)、そんな感じだったので、年上の人に対する慣れみたいなものもあったのかもしれないです。

 

  ニューヨークでの不妊治療と双子妊娠

— 実際にニューヨークに行かれて、いかがでしたか?

ホームシックにもならず、すぐに気に入りました。特にニューヨークの人は他人に干渉しすぎない、仲良くなっても適度な距離を保ってくれるところが楽で、自分には合っていると感じました。

レジを打ちながらスタッフの人がサラダを食べていたり、空港で働いている人がクッキーを食べていたりとかも(笑)、なんか気楽でいいなと思いますね。

新しい環境にも慣れて楽しい新婚生活を送っていたのですが、妊娠に関してはスムーズにはいかなかったんです。というのも、私には多嚢胞性卵巣症候群(PCOS:*注1 )という排卵障害があって、排卵させるために誘発剤を使っていたら、今度はその薬で卵巣が腫れてしまって。

夫、私ともにいろいろと検査したのですが、他にはどこにも問題は見つからず、やはり私の排卵障害がクリアになれば……という感じだったのですが、お世話になっていたドクターからは、「私が処方した誘発剤で卵巣が腫れてしまった以上もう産婦人科ではできることはない、不妊治療クリニックに行くように」と言われいくつかクリニックを紹介されました。

夫とも話し合い、まずは不妊治療クリニックに話を聞きに行ってみようと決めたものの、アメリカの不妊治療は高いと聞いていましたし、当時私はまだ20代だったこともあって、いきなり人工授精とか体外受精に踏み切る覚悟はできずにいました。ちょうどクリニックのドクターからタイミング法からのスタートを勧められたこともあって、まずはそこからやってみようと。

排卵誘発をしながらタイミング法を試したところ、奇跡的にすぐ妊娠することができました。しかも男女の双子!

しかし妊娠後もまた卵巣が腫れてしまったり、出血が止まらなかったり、トラブルは続きました。妊娠中、入籍から一年半越しにニューヨークで結婚式を挙げたのですが、出血がひどく、ウェディングドレスの下に大きな生理用ナプキンをつけたほどです。

そんな状況でしたが、お腹の子どもたちはずっと元気。心音もしっかりして、どんどん大きくなってきているし、子どもたちの発育に心配はないと言われていました。

(*注1)多嚢胞性卵巣症候群(たのうほうせいらんそうしょうこうぐん):たくさんの嚢胞(卵子を包む袋)が卵巣に生じて、排卵が起こりにくくなっている状態

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妊娠23週6日での緊急帝王切開

  切迫早産からの緊急入院。急に迫られた重要な決断の数々

しかしその後、妊娠22週目の検診で子宮頸管(*注2)が異常に短くなる、いわゆる切迫早産の状態であることが判明したんです。その時点で子宮口が開いているかどうかの検査をされ、「もし今開いていたら子宮口を縛る手術をしなくてはいけない。その場合、成功率が低いから妊娠の継続は難しいと思います」と医師に言われて…。

結局子宮口は開いておらず、早産を防ぐための薬を使いながら自宅安静することになりましたが、そのとき子宮頸管の長さは1.5cm。日本では病院により指示は異なるようですが、予定日前に3cmよりも短くなると入院を勧められることが多いと知り、22週で1.5cmというのはかなり危険だと不安でいっぱいになりました。

その後、なるべく家事を夫に任せて安静に過ごすよう心がけていましたが、妊娠23週2日に不正出血があり、病院で検査したところ子宮口が4cm開いていることが確認され、そのまま緊急入院することになりました。

それからは、矢継ぎ早に重要な決断が求められました。

いつ生まれてもおかしくない状況だったので、入院後すぐ病室を訪れた産婦人科のドクターから、「23週から24週で生まれると、23週未満で生まれた場合より多少生存確率は上がるものの、重度な障害を持って生まれてくる可能性もあるなど危険な状況に変わりはない。万一、危険な状態で生まれてきた場合、子どもたちの延命措置を取るかの判断は親であるあなたたちに委ねます」と説明がありました。

いきなりの出来事に混乱しつつも、私たち夫婦は「いつ、どんな状況で生まれてきても、命がある限り延命措置を希望する」と決め、ドクターに伝えました。

(*注2)子宮頸管:子宮の一部で、その下方3分の1ほどの円柱状部分。妊娠中はこの子宮頸管が閉じた状態になっていて、子宮から赤ちゃんが落ちないよう蓋のような役目を果たしている。

 

  570gで生まれた娘、630gで生まれた息子

25週までお腹の中にいられれば子どもの生存確率は格段に上がるとドクターに言われ、あと2週間、それまではなんとかして頑張ろうと思っていましたが、入院から4日後、お腹の下側にいた娘がもう出かかっていることが判明し緊急帝王切開により双子の男女を出産しました。

2015年8月。妊娠23週6日のことでした。生まれたときの体重は、娘570g、息子630g。生まれてすぐにNICU(新生児特定集中治療室)に運ばれました。

出産当日、私は帝王切開の痛みがひどく動けなかったので、翌日初めて車椅子でNICUに行き二人を見ることができたのですが、子どもたちは驚くほど小さな体にたくさんの医療機器をつけていて、自力で呼吸もできないほど小さな体で産んでしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

無事に生まれてきたとはいえ、本来、妊娠23週はまだお腹の中にいて、母体から栄養をもらって体を発達させなければいけない時期。体の形成にとても大事な時期にいきなりお腹の外に出て、自分で呼吸し、栄養を吸収し、成長していかなければいけないということが、どれほど大変なことか…。

周りの人は「あなたのせいじゃない」と声をかけてくれましたが、ではどうしてこんなことになってしまったのか? この悔しさをどこにぶつけたら良いのか? 理由がわからないだけに気持ちの持って行き場がなく、保育器の中の子どもたちを前に涙が止まりませんでした。

でも、「生きたい」と生まれてきてくれた子どもたちを前にずっと泣いているのもまた申し訳なく、なんとか気持ちを切り替えて、「生まれてきてくれてありがとう」と声をかけ、自分を奮い立たせました。

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息子の死と、その後の決意

  心の準備もないまま迎えた、その日

私の体は回復が早く、産後4日で退院した後は夫と一緒にNICUへ毎日通う生活が始まりました。 

入院直後からブログで自分の状況を書いていたので、いろんな方から連絡をいただきました。その中でも「知り合いに体重500g台で生まれた子どもがいますが、今は元気にしています」というポジティブな言葉をかけていただくことが多く、それらにすごく救われていて。「そうか、小さく生まれても元気になるんだ!」と信じて疑わなかったんです。

しかし、生後13日で息子は亡くなりました。

状況としては娘の方が深刻だとドクターには言われていたので、深夜に病院から電話があったとき、まず娘に何か起きたと思いました。それが、息子の方だと言われて。昼間には ”Everything is ok!” と言われていた息子が、夜に急変したと告げられました。

でも私は、障害が残る可能性はあっても、亡くなってしまうことは全く想像もしていなかったので、病院に着いて全ての機器が外されて保育器から出された息子を見ても、亡くなったとは思わなくて。そうと知らされても、すぐには信じられずに呆然としていました。

やっと息子の死を理解した時にはもうとてつもない衝撃で、気がつけば一人では立っていられないほど号泣していました。

 

  娘を守るため、そして何があっても後悔しないために、決めたこと

そのとき、私たちは初めて息子の体に触れました。

出産した日から、ずっと触りたい、抱きしめたいと願ってきたのに、皮肉にも息子を抱くことができたのは、亡くなった後。息子の体は、びっくりするほど小さく、柔らかく、赤ちゃんらしい良い匂いがしました。 

息子の死は私たちに、半日後は容体がどうなるかわからないということを痛感させるものでした。それからは、一日1回行っていた病院へ、朝と夜の2回、必ず行くようにしました。娘の様子を確認し、かなり立ち入った質問もするようにして、必ずメモを取って。

あと、iPhoneの着信音も常に一番大きい音量に設定しました。息子が亡くなった日、最初私の方にNICUから連絡が来ていたんですが、その日は私たちを元気づけるためにニューヨークまで来てくれていた母と義母が日本に帰ったこともあり、無事送り出せたという安堵感からか、9時過ぎには寝てしまっていたんです。NICUから3回も電話が来ていたのに、まったく気づかなくて。

その後、夫にかかって来た電話で状況を理解しすぐに病院に向かったんですが、私たちが到着したときにはもう息子は息を引き取っていました。

一人で逝かせてしまったことがすごく悔しくて。せめて、「よく頑張ったね」「私たちの子どもになってくれてありがとう」「また会おうね」と声をかけながら看取ってあげたかったな、と。

冷たくなってしまった息子を抱きながら、これから何があっても娘を守っていくんだ、という気持ちと、万が一何かあっても、絶対に後悔だけはしないようにしたい。そんな気持ちでいました。

 

  息子が亡くなった翌日に、一命をとりとめた娘

NICU入院直後からドクターからは、息子と娘、二人とも肺から空気が漏れている、と言われていました。そしてその状況が、娘の方がより深刻だとも。

私たちは病理解剖をお願いしなかったので正確な死因は分かりませんが、ドクターの説明によると、息子は、肺から漏れた空気が急速にお腹にたまり、それが心臓と肺を圧迫したために亡くなったのではないかと。

娘も同じ状況になる可能性があったので、早急に空気の漏れを止める必要があったのですが、なかなか娘の施術はうまくいかず焦っていました。しかし息子が亡くなった翌日、ドクターから「まるで奇跡のように成功した」と。一つ大きなハードルを越えることができました。

その瞬間、もしかしたら息子が助けてくれたのかなと、双子の絆のようなものを感じましたね。

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写真 / 本人提供、取材・文 / 瀬名波 雅子

 


不妊治療を経て双子を授かるも、切迫早産と診断され、23週6日で出産した公文紫都さん。息子の死、一命をとりとめた娘。その娘を守りきる覚悟…。<後編>では、どんな時もやめなかった「書くこと」、子どもたちへの想い、将来の夢。今だからこそ語れる気持ちを伺います。

<後編>はこちら

 


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