妊娠中に病気がわかった我が子と共に、全力で生きた108日間。「絶対に、また会おう」—。息子と交わした約束と、つき動かされる思い。<前編>

経過順調と思われていた妊娠8ヶ月の時、突然我が子の病気を告げられた浜辺武志さんと睦さん。子の病名は、「先天性横隔膜ヘルニア」。
<前編>では、病気が判明し、突然のことに戸惑いながらも少しずつ前向きになれた気持ちのこと。喜びと不安が入り混じった我が子の誕生、そして余命宣告。「たとえ短い時間でも、家族一緒に普通の生活を送りたい」と自宅での看護を決めるまでの道のりについて伺った。

浜辺 武志 / Takeshi Hamabe(夫)1985年東京都出身。高校時代にアカペラグループを組み、ハモネプ全国大会に出場。大学時代は、1DJ+1singerのグループとして活動開始。これまで2枚のアルバムをリリース。2008年にクレジットカード会社に就職。2010年結婚。2014年より、会社員と並行して「浜辺武志」個人名義での音楽活動開始。チャリティーCD作成に向け、ライブや曲作りを実施。2017年9月、チャリティーCD「彗星物語」を発売予定。

浜辺 睦 / Mutsumi Hamabe(妻)1984年東京都出身。中学時代は演劇部に所属。高校・大学時代ではバンド活動を行い、自主LIVEを多数企画し、CDも制作。2006年より現在までクレジットカード会社にて勤務。会社員生活を続けながらも2010年までバンド活動を継続。学生時代から演劇とバンド中心のインドア派だったものの、最近はもっぱらキャンプが趣味。お買い物は「キャンプに使えるか」が軸になるほどのアウトドア派へ転向。

 


出会い、結婚、妊娠。そしてお腹の子の病気

  社内での出会い。縮まっていった距離

― お二人が出会って結婚された経緯からお伺いできますか。

 私たちは同じ会社に勤めています。社内には同じような趣味を持つ人たちが集まる部活動があるのですが、そこで2歳下の後輩だった主人と会って。第一印象は、「割と好きな顔だなぁ」って。

武志 へえ、そうだったんだ。珍しい(笑)。

 そうそう。すごくよく話すし、場を盛り上げてくれたりもして、いい子だなって。その後、会社の同期とご飯に行くときに彼もいて、帰り道に話してみたら学生時代に二人ともバンドをしていたり、実家が2駅しか離れていなかったりと共通点も多くて親しくなりました。「CDつくったんで、聴いてください」と渡してくれたりもして。

武志 「音楽やっていてよかった!」と思っていました(笑)。

 それからすぐ付き合い始めて、ちょうど1年後にプロポーズを受けて、2010年に結婚しました。

武志 僕は当時24歳。若いですね。

 若いねー(笑)。私は26歳でした。

 

  結婚2年目、待望の妊娠

― 結婚されて、すぐに子どもが欲しいと考え始めたんですか?

 私はすぐにでも子どもが欲しくて。でも彼はそうでもなかったみたいですね。まだ若かったこともあって、もう少し二人で遊んでいたいっていう感じでした。

1年くらい子どもはできなかったのですが、2012年に待望の子どもを授かりました。私はとても嬉しかったです。でも主人はあまり実感が湧かなかったようです(笑)。

経過は順調で、特に何も問題はありませんでした。でも、出産も間近に控えた妊娠8ヶ月の時、お腹の子どもに病気があることがわかったんです。

 

 「思い出づくり」に行った4Dエコー撮影で、病気が発覚

― それは、どのような経緯でわかったんですか?

 通っていた病院とは別の病院に、4Dエコーを撮りに行ったんです。どんな顔か見てみたいな、と思って。本当にただの思い出づくりのはずだったんですが、そこで4Dエコーを撮る前に超音波で赤ちゃんの顔の位置などを確認する際、先生が何度も体の部分を見直していて、何かおかしいな、と思いました。

「何か聞いていますか?」と言われて、「何をですか?」と聞き返すと、「もしかしたら病気かもしれないから、細かく検査をしてもらった方が良いと思います」と言われました。「横隔膜に穴が空いていて、臓器の一部がおかしいような気がします」と。

― その時までは、特に何も言われていなかったんでしょうか?

 はい。私がもともと通っていた病院では何も言われていなかったので、特に問題はないと思っていたんです。いきなりのことに、とても驚きました。

その後通っていた病院に戻り、ちょうど来ていた大学病院の先生に診てもらったら「赤ちゃんは病気であることに間違いなさそうです」と言われて、そのまま大学病院に移りました。そこではMRIなどの詳しい検査も行い、子どもが「先天性横隔膜ヘルニア」であることがわかりました。

 

  「肺の大きさが、通常の3分の1」—。突然直面した、子の病気

武志 ヘルニアと聞いて「腰が痛いのかなー?」なんて、初めはのんきにしていたんです。でも、医師の説明によると、腹部と胸部を分けている横隔膜によって臓器の位置が整っているのが、横隔膜に穴が開いてしまうと、その穴から腹部の臓器が胸部に入り込んで肺が圧迫されてしまうということでした。

 医師からは「肺の大きさが通常の3分の1くらいの大きさです。普通にこのまま出産したら、おそらく呼吸ができなくてすぐに亡くなってしまう。だから全身麻酔で帝王切開を行い、赤ちゃんも眠らせたまま出産しましょう。その後、赤ちゃんの様子を見て二日後くらいに手術をします」と言われました。

インターネットなどで見てみると、先天性横隔膜ヘルニアって、軽症であれば手術で治ることもあるし、予後が悪くない子もいるみたいなんです。ただ、私たちの場合は予後が悪いという説明だったので、この時点で、長くは生きられないのかな、という思いがよぎりました。

 


信じがたい現実。周囲の助けで少しずつ前へ

  深刻な現実を突きつけられ、重くなっていった日常の空気

武志 僕たちは二人とも、今まで大きな病気もなければ親も元気で、病気自体、全く身近なものではありませんでした。そこに突然、自分たちの子どもが病気と言われても、急には受け入れがたい事実で…。

僕はちょうどその頃仕事が忙しくて、毎晩帰りも夜中でしたし、出張も多かったんです。赤ちゃんの病気のことがわかっても、他の人に相談しづらい上に自分も家に帰れないし、という感じで、出産までの2ヶ月は葛藤が大きかったです。すごく重い事実を突きつけられて、日常の空気もどんどん重くなっていきました。

二人でたくさん泣いて、「気晴らしでも」と思い旅行も行ったけれど、もう本当に全然盛り上がらない。いま当時の写真を見ても、暗くてつまらなそうなものばかりで。

どうか医師の説明よりも軽症であってほしいと祈り、何があっても僕たち両親が支えるから、安心して出ておいでとお腹に話しかける毎日でした。

― お二人のご両親にはお話しされましたか?

睦 はい、病気が分かってすぐに伝えました。それで、私の母には一緒に健診に行ってもらったりしました。私が苦しんでいる姿を見て、母もきっと苦しかったと思いますが、「泣いてばかりいたら、赤ちゃんが苦しくなるからもう泣くのをやめなさい。元気に産んであげることだけを考えなさい」といつも以上に気丈に振舞ってくれていました。

主人の両親はシンガポールに住んでいるので、電話で伝えました。すごく驚いていたし、ショックも受けていたと思います。ただ、シンガポールから何度も心配しているという言葉や励ましのメッセージを送ってもらって、素敵な家族に恵まれたと、とても感謝していたのを覚えています。

 

  芽生えてきた父性。少しずつ、前向きな気持ちに

武志 病気がわかったあとに転院した大学病院は、すごく良かったです。僕たちみたいな状況の人も多く見ているので、対応方法もわかっていたようです。病院というとドライなイメージもありますが、ここではすごく親身に接していただきました。

睦 話を聞いてくれたり、前向きなことを言ってくれるので、病院に行くのが好きになりました。具体的に「こうしていきましょう」と提案してもらうなかで、少しずつ私たち二人も気持ちを切り替えることができた気がします。

私はもともと子どもが欲しかったけれど、主人はまだ若かったからか、妊娠がわかってもそこまで父性というものがなかったんですね。でも、赤ちゃんの病気がわかってからはお腹に話しかけてくれるようになったり、歌を歌ってくれたりするようになりました。

 

 「まずは元気を出して、しっかり食べよう」

― 周りの人たちにはどのように伝えていたのでしょうか?

睦 周りの人にはほとんど言っていなかったんですが、会社の直属の上司と先輩には話しました。というのも、会社でいきなり泣き出してしまうかもしれないと思ったので…。

主人が家に帰ってこない忙しい時期だったので、みんなでご飯食べに行こうよと誘ってもらったり、おしゃべりしてから帰ろうと声をかけてもらったりしました。心配かけたくなかったし、詮索されたくないという思いもあったので言える人は限られていたけれど、それでも話して良かったと思います。

お腹の子どもは病気ということもあってなかなか大きくならなかったので、私は「まず自分が元気を出してしっかり食べて、この子を太らせなくちゃ」と思うようにもなりました。

そういうふうに過ごしていく中で、少しずつ前向きになれたんだと思っています。

 


我が子の誕生。喜びと、不安と。

  急に決まった出産日。生まれてきた、「白くてかわいい男の子」

武志 赤ちゃんは、手術ができる大きさになるまでお腹の中で育てる必要がありました。胎内での成長の様子を見ながら帝王切開の日取りを決めていたのですが、その2日前に病院から電話があって、健診したところお腹の子どもの元気がないと。それで急にその日に出産することが決まりました。2013年3月下旬のことです。

帝王切開で生まれた後はすぐ集中治療室に運ばれて、点滴やら人工呼吸器の管やらが一気にバババっとつけられていました。赤ちゃんはずっと寝ていて泣きもしなかったので、正直なところ生まれたという実感があまり湧きませんでしたね。

睦 私は全身麻酔で帝王切開だったので、全然覚えていなくて。

武志 僕は病気の子だから、どんな感じで出てくるのかってすごく怖い想像をしてしまっていたんですが、すごく白くてかわいい子が生まれてきたな、って思いました。

子どもは男の子で、桔平(きっぺい)と名付けました。
無事に生まれたことに安心はしましたが、その当日に医師から、他にも合併症がありそうなので、今後様々な検査が必要になるという説明を受けて。

― それは不安になってしまいますね…。

武志 それまで僕はあまり合併症のことは考えていなくて、横隔膜ヘルニアを乗り越えたらまた元の生活に戻れるんじゃないかと期待していたんです。でも他にもクリアしなければいけない課題が当日のうちにわかって、一歩進んで二歩下がるような、そんな状況でした。妻は、生まれた嬉しさよりも、合併症のことが気になっていたみたいです。

睦 そうですね。でも、予定日よりも早く生まれた割に体重が2,500グラム近くあって、私の「しっかり食べて太らせよう作戦」が成功してよかったな、というのもありました。

武志 そうだね。それで2日後に横隔膜ヘルニアの手術を行い、長時間かかりましたけど、成功しました。

 

  合併症の不安

― 合併症というのは、具体的にはどのようなことを説明されていたんですか?

武志 他の臓器の疾患もあるかもしれないと言われました。まだちゃんと検査をする前だったんですが、そういう可能性があるよと。

いきなり全部言われるともう受け止めきれなかったと思いますが、身構えるというか、心構えもできたので、そういうふうに少しずつ伝えてもらえてよかったです。

睦 私は医師に言われたことのほかに、ネットでもすごく調べてしまっていました。主人には、あまり見ない方がいいと言われて。

武志 僕は、「ネットで調べるとネガティブな情報ばかりが入ってきてしまうから、あまり見ない方がいいよ」と自分にも言い聞かせるように言ってはいましたが、それでも不安な毎日でしたね。

 


余命宣告。「家に連れて帰る」という選択

 「きっと、座るところも、立って歩くところも見られないと思います」

武志 妻は面会時間が許す限り病院に行き、僕も土日はもちろん、桔平が入院していた病院と会社が近かったので、平日もランチの時間に顔を見に行ったりしていました。生まれてから3週間くらい経っても状態があまり良くなっていないなと思っていたら、ある日医師から話がありますと言われて。

睦 「ご主人と一緒に来てください」と言われたので、私はその時点で嫌な予感がしていました。

武志 妻はまたネットで検索しては落ち込んでいたので、僕は「これ以上悪いことは起きないよ」と元気づけていました。でも、結果的にこの日は妻の予感が正しかったんです。

その日、僕たちは二人で桔平の余命宣告を受けました。

手術は成功したけれど、術後の肺機能が正常ではないので、慢性肺疾患のためこのまま亡くなる可能性が高いと。自発呼吸が難しいので、呼吸ができるよう延命措置をするか、ただそれをすると退院が難しくなる。それとも、退院して家族の時間を大切にするか、どちらがいいかと訊かれました。

睦 「きっと、座るところも、立って歩くところも見られないと思います。だからそのつもりで、今できることをしてあげてほしい」。医師からはそのようなことを言われました。

 

  たとえ短い間でも、息子と一緒に「普通の暮らし」を送りたい

武志 僕たちにとって、この日が一番辛かったです。頭が真っ白になって返す言葉もなく、その時はそれで終わりました。面談室を出た後、外の待合室に出て、二人で泣きました。もうずっと、泣きました。

これまで桔平は小さい体でたくさんの手術や検査を乗り越えてきて、僕たちも希望を捨てずにがんばってきたのに、ついに来るところまで来てしまった。そんな感じでした。

今考えても、すごい選択ですよね…。病院で延命して、寝たきりのようになってしまうけれど、長く生きさせるのか。それとも、短いとしても、少しでも家で普通の生活をさせてあげるのか。

悩んで、考え、僕たちは家に連れて帰ることを決めました。

睦 私は、家に帰らないで病院で亡くならせてしまうというのは嫌だったんです。一度家を見せてあげたいなって。長くはないかもしれないけど、桔平と一緒に普通の暮らしをしたいって思いました。

取材・文 / 瀬名波 雅子、写真 / 内田 英恵、協力 / 佐々木 美恵子

 


重篤な「先天性横隔膜ヘルニア」を持って生まれてきた長男。続く<後編>では、退院後自宅にて24時間体制で行った看護や、家で共に過ごした時間のこと、長男を看取ったのちに生まれた次男と、今も心の中で生き続ける長男の存在によってつき動かされる思いについてお話を伺います。

<後編>はこちら!

 


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