九州のクリニックへの飛行機通い、子宮外妊娠、遺伝子検査、着床前診断など、不妊治療に関わる様々な経験を重ねてきた、松本藤子さん・岡本尚之さんご夫妻。6年近くにわたり体外受精を続け、その数、数十回。長く険しい山を登ってきたふたりだからこそ見えてきた景色、現在の境地がある。
松本 藤子 / Fujiko Matsumoto(妻) 1970年生まれ。武蔵野音楽大学音楽学部有鍵楽器ピアノ専攻卒業後、ミュージックカレッジメーザー・ハウスコンピューターミュージック&キーボード科、メーザーボーカルハウスでクラシック音楽以外を学ぶ。バンド活動の他、音楽制作や幼児音楽教育などに携わる。現在はボイストレーナーとして活動している。
岡本 尚之 / Naoyuki Okamoto(夫) 1969年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、ミュージックカレッジメーザー・ハウスエレクトリックベース科に入る。バンド活動後、夫婦で音楽ユニット「じゃじゃと十八(じゅっぱち)」として活動。
果てしない不妊治療ロードのはじまり
高齢でも産める、という認識
藤子 私の母は、9回も流産や死産を繰り返し、35歳手前で姉を、37歳手前で私を出産してるんです。
だからなんとなく昔から、「それぐらいの年齢でも産めるんだ」って、結果の部分だけをポジティブに解釈していて。母からは43歳で出産した人の話も聞いていたから、43歳ぐらいまでは大丈夫なんだと思ってた。今思えばその認識自体が問題だったんだけどね。
それで、今から7年前、39歳の誕生日の前に、私が母の出産年齢を超えてしまったことに、はたと気がついてしまって。夫はすごく子どもが欲しい人だったのに、それまで私たち、子どもを持つことへのアクションを何も起こしてこなかった。「欲しいんだよね? どうしよう、マズくない!?歳取っちゃってる!」って焦りました。
そこから、排卵日を考えて毎月チャレンジしたんですけど、何の変化もない。
そうしたら姉が、病院に行ってみたら?と薦めてくれて。「何か問題あるなら診てもらった方がいいし、なければないでよかったってことだから」って。それで2010年の4月に病院に行きました。
最初は近所の町医者で診てもらいましたが、エコーで見られる範囲では、特に問題が無いと言われました。医者からは「タイミング療法を半年やってダメだったら、次は人工授精。人工授精で授かる人は大体3回で授かるので、3回やってだめなら、体外受精に進んだ方がいい。その時はうちの病院ではできないので、体外受精ができる病院を紹介します」と言われていました。
そこで、まずタイミング療法から試してみたんだけど、全然ダメで。人工授精も3回やりましたが、結果は出ませんでした。
ちょうど、その3回目の人工授精の日が、東日本大震災の日で。東京が色々と大変な時期だったのもあり、夫と話して、次の治療ステップは、夫の地元の九州の病院に行ってみることにしました。
そこから、私たちの高度生殖医療の長い道のりが始まりました。
最初の1年 ~遠方治療
藤子 2011年の4月に、その九州の病院で体外受精を始めたんです。夫を東京に残して私が飛行機で行ったり来たりする、治療のための二拠点生活ですね。
思えば、あの時から今までずっと体外受精生活なので、もう何十回やったか分からない。エクセルでA4の表に入りきらないぐらいは、やっています(笑)。
最初は「頑張るぞ~!」って意気込んでたんだけど、そこから1年が経ち、箸にも棒にも引っかからなくて。その時はじめて、自分で何を頑張ればよいのか分からなくなっちゃって、病院から夫に電話して泣きました。
岡本 その時はびっくりしましたけど、確かに、不確実な治療スケジュールに合わせて毎回の飛行機を予約したり、金銭的にも時間的にもつらい状況ではあったので。
藤子 私が頑張る理由のひとつには、「夫のため」というのがあったから、せっかく九州で頑張ろうと思ったのに、つらいからと言って戻ることはできないと思ってたんです。でもその電話をきっかけに、夫が「いいよ、戻ってきても」と言ってくれたので、東京のクリニックに転院しました。
突きつけられる、厳しい現実
治療2年目 ~化学流産
藤子 体外受精すればすぐ妊娠できるとも思ってなかったけど、続けていればいずれ授かれるんだろうぐらいの感覚でいたんです、最初は。
岡本 1回目ではさすがにできないと思ったけど、何回かやればできる、みたいな話も周りから聞いていたから……。
藤子 東京のクリニックでは一度、受精卵が着床したんです。「私の身体、着床するんだ!」って感動しましたね。その時、私の気のせいなのかもしれないけど、40年間で感じたことのない身体の変化を感じた気がして、「あ、これが着床した感覚なのかも……」って。
でも結局、妊娠継続を示す数値が思うように上昇していなくて、「これだと妊娠継続は難しいですね」と先生にも言われ、出血もあり、俗にいう『化学流産』(*注1)をしました。その時は号泣したよね。
夫はちょうど研修旅行でいなかったので、出血があったことはメッセージで伝えていたんです。そうしたら、帰ってきてドアがダン! って開いた瞬間、彼がワーーー!!って泣いて。
そんなに泣くところは見たことがなかったから、もうびっくりして。逆に、私がしっかりしなきゃって気になって、「泣いてたって仕方がないよ!」って励ましましたよね(笑)。
岡本 今回は着床したし、うまくいくのかなって期待があったので。でも一番にはやっぱり藤子の状態がすごく心配だった。
藤子 もともと彼は、物事はうまくいくって思ってるタイプ。ゼロラインが高いので、ダメだった時の落胆がすごいの。私はそもそもゼロラインより下のところで生きているので(笑)、すべてがうまくいくと思ってないから、比較的、気持ちも切り替えられるんだけど。
でもその時はまだ、なんとなく、「着床した」、「化学流産した」って、ひとつずつ段階をクリアしたような気になっていたんですよね。……その後の苦戦を想像することもなく。
(*注1) 化学流産 : 受精卵が着床して妊娠反応が陽性となるも、その後受精卵の発育が止まり、生理のような出血が起こること。医学的には妊娠(流産)とカウントされない。
低いAMHと遺伝子検査で判明した染色体異常
藤子 化学流産の後、2,3ヶ月治療ができなかったので、そのタイミングでAMH(*注2)を計ったんですが、そこで私のAMHは50歳ぐらいの女性の数値ということが判りました。だから、採卵時、私の卵子は個数があまり採れなかったんだ!と、その理由の一つが推定できた感じです。
治療ができない分、鍼とかできることをやっていたら、たまたま通っている鍼灸院の先生に遺伝子検査をすすめられたんです。私の母の流産のことを話したら、もしかしたら、って。
妊娠したことも流産したこともないのに、遺伝子検査なんてしてもらえるのか分からなかったけど、ひとまず、有名と言われている先生のところを訪ねて行って、母や姉の流産経験など全部話してみました。そしたら先生も「あー」って感じで。念のため夫婦で検査してもらいました。
遺伝子検査って、それが離婚や親族など家同士が揉める原因になることもあるから、夫婦のどちらに異常があるかを伝えるかは希望があっても、複数の医師によるカンファレンスなどを経て、非常に慎重に判断される、と遺伝カウンセラーから伺いました。なので、遺伝カウンセリングを受けているときに、「私たちは冷静に受け止める準備もできているし、私たちの家族も大丈夫!」っていうことを一生懸命アピールしました(笑)。
それが功を奏したんだと思っているんですけど、結果を教えていただくことができました。「ご想像の通り奥さんです」と、私の方に染色体異常があることが判りまして。それが原因で、受精卵が正常胚になりにくい可能性もあることが分かりました。
(*注2) AMH : アンチミューラリアンホルモン(または抗ミュラー管ホルモン)の略。卵巣には生まれつきたくさんの原始卵胞があり、それが初潮の頃から活発化する。AMHは発育過程にある卵胞から分泌されるホルモンで、その値は、卵巣内にどれぐらい卵の数が残っているか、卵巣の予備能を知る指標となると考えられている。
治療3年目 ~子宮外妊娠
藤子 それでも今できることをやろうと、クリニックで体外受精を続けたら、不妊治療3年目で初めてしっかりとした妊娠反応が出たんです。着床して、順調にホルモン値も妊娠を表わす数値に上がっていって、これはイケるかもしれない!って。
今回こそはという思いで、胎嚢が確認できるはずの週に病院に行ったら……なぜか、なんにも見えないの。エコーで丁寧に診察するんだけど、画面に何も映らなくて。
状況は一転、子宮外妊娠の可能性が高いということで紹介状を書いてもらい、別の病院で3人の先生が診察してくれたんだけど、やっぱり子宮外妊娠だと診断されて。そこで、諦めましたね。ギリギリのところまで、希望も抱いていたんですけどね、「子宮外妊娠は間違いでした、ちゃんちゃん」みたいになるのかなって。でも、診断は変わらなかった。
それで、すぐに手術をすることになりました。
両親も姉も来てくれたんだけど、手術が終わって友人が来てくれた時に初めて泣いたかな。その子も流産経験があるから、夜の病院で一人でつらいのとか、掻爬手術(*注3)をする瞬間のことも知っていて。「岡本さんはちゃんと次に希望を持って進んでいける人だから、大丈夫。いまは藤子ちゃんの身体をちゃんと癒さないといけないから、休んで」って言ってくれて、すごく救われました。
術後に実物を見せてもらい、その後の診察で詳しく先生に説明してもらったんですけど、その受精卵、どこにいたかというとね。子宮に移植されたものが、なんと卵管采(*注4)の手前まで戻っていっちゃってたんですよ。きっとあまりに元気な受精卵で、わーい!って言って、喜んで戻っていったのかもしれないね(笑)。
結局、この手術で、右の卵管は切除しました。
(*注3) 掻爬手術 : 子宮頸管から、一般的には金属の手術器具を使って子宮の内容物を外に掻き出す手術。
(*注4) 卵管采 : 卵管の先端の、イソギンチャクのような部分のこと。卵巣から排出された卵子を吸い上げて、卵管に送る役割の器官。
治療4年目 ~関西への転院
藤子 そこのクリニックで胚盤胞(*注5)を3個移植したけれど結果は出なくて、凍結胚もなくなってしまいました。
夫は、これだけ経験を経ていてもなお、改めてショックを受けてましたね。私は自分の身体のことだし、毎回受けとめて納得していけるんだけど、男の人は、欲しい気持ちが強くても、自分が関われることってほとんどないから、かわいそうなんですよね。
このタイミングで、2年前にAMHを測ってもらったクリニックへの転院を考えたんですが、そしたら今度、夫が「着床前診断ができるところに行く?」って言うんです。
受精卵の時点で染色体異常を検査する着床前診断は、通常、流産を繰り返したりする人でないと受けられず、医師が学会に申請を出せないらしいんですけど、実はそれを出さずにやってくれるクリニックが、関西にあると聞きまして。転院を考えた都内のクリニックの費用が高額だったこともあり、そのお金をかけるくらいならというのもあり、最終的には、そちらで治療する選択をしました。
新しいことをする時って、いつも夫からの提案で始まるんです。そういう意味で治療の主導。監督と選手みたいな感じです。彼が方針を示し、私はプレイヤー(笑)。フィールドで精いっぱいやる! っていう構図なんです。
岡本 まあ、頼りがいのある人ですね(笑)。僕は最初にきっかけを作り、藤子が力を発揮するというか、そういうバランスでやってきてますね。
藤子 また遠方治療か~と思ったけど、これでダメだったらもう最後だよねという感じで始めました。それが2年前、2014年の4月です。
(*注5) 胚盤胞 : 受精卵が細胞分裂を続け、おおよそ5日目の着床前の段階まで分裂した胚。
もう取れる手段がほぼない状態に、フリーズ
治療5年目以降 ~着床前診断と、やめ時
藤子 そこから、関西のクリニックで1年かかってようやく胚盤胞が3個できたので、そこで着床前診断をしてもらいました。どれか1つぐらい正常胚かと思ったけど、甘かった。3個とも異常胚。診断によれば、遺伝性のものと、老化と、混ざってましたけど。
その診断結果を聞くのが、遠方だったので電話なんです。それで、結果を聞いて電話を置いた時に、彼が動かなくなっちゃったんですよ。
岡本 ん?
藤子 ん? じゃないじゃん(笑)。私の膝に顔をうずめたまま動かなくなっちゃったじゃん。
岡本 なんだろうな。一応、覚悟はしてたんだけど、でもやっぱり望みを持っていたところもあったから。現実として、3個のうち、1個もダメっていう状況は……なんて言っていいか分かんなくて。
藤子 夫は、人生の中でたくさんの選択肢を持って生きてきた人なんですよ。
要所、要所で、ひとつずつ選び取りながらやって来たのに、最後にもう選択するものが残っていないという状態……これは非常につらい状態なんだろうということは、私にも想像できて。感情がどうのというより、フリーズしちゃった感じでした。
それでその時は私が提案したんだったかな。来年の私の誕生日までは頑張ろう。そしてダメだったら、それでやめようって。あ、そうじゃなくて彼に、「自分のためにあと1年だけ頑張ってくれないか」って言われて、もう1年だけやろうってことになったんだっけな(笑)。
でも結局、2016年に入ってからは、2月に採卵して以来、関西のクリニックには行けてないんです。その後も採卵に向けてチャレンジするけどダメ、という状態が続いてしまっていて。
岡本 卵胞が全然育ってこないので……。
藤子 でも、まったく卵子がないとも思ってないんだよね。夫はどこまでも希望がある人だけど、私は正直、もういいかなって思うことがあるんだけど。彼は、可能性がゼロではないというところで生きてきてるから……。
取材・文 / 矢嶋 桃子、写真 / 望月 小夜加
― 6年近くにもわたる不妊治療を体験してきた藤子さん・岡本さんご夫妻。後編では、その道のりをともに歩んできたおふたりの生き方や想いについて、伺います。
<後編>に続く
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