待ち望んだ長男を亡くした悲しみ、40歳目前に訪れたラストチャンスへの希望と、恐れ…。2度の子宮外妊娠で自然妊娠を望めず、不妊治療を選ばざるを得なかった、安立淳子さん。体外受精で長女を出産後、ご主人の海外転勤に伴い渡米。その後長男を妊娠するも、妊娠40週4日目で、死産となる。混乱と葛藤の狭間で3度目の治療に挑むも結果が出ず、断念。しかし突然のご主人への帰国命令を機に、導かれるように治療を再開、次男を出産する。全てを経た今だから、語れる想いを伺った。
安立 淳子 / Atsuko Adachi 1975年生まれ。上智大学経済学部経営学科卒業。株式会社伊勢丹にて、販売を経て本社広告を担当。2003年の結婚を機に、プラダジャパン株式会社に入社。miumiuのPR/イベントを担当。その後学校法人大妻学院を経て、2007年日本郵政公社(当時)の広報部門に最後の国家公務員として入社、郵政民営化に向け、販促及び物販の立ち上げに携わりながら2010年、長女を出産。同年、夫の転勤に伴い12年に渡るキャリアに終止符を打ち、サンフランシスコへ。2012年、アメリカにて息子の誕生死を迎える。2014年帰国し、2015年に男児を出産、現在は夫、年長の娘と1歳の息子の4人で東京に暮らす。
子宮外妊娠、不妊治療、出産、そして死産
2度の子宮外妊娠、不妊治療へ
27歳で結婚したのですが、周囲の同世代の友人の中では割と早い結婚だったのと、仕事も楽しかったので子どもはまだいいかな、と思っていました。
30歳を迎えるあたりで子どもについて夫と話し合い、何か問題があったらいけないからと、一通りチェックしに病院へ行きました。そこでは何も見つからなかったんですが、夫婦で相談の上、一度人工受精をすることにしました。
ただ人工受精では子どもは授からず、でも検査では特に問題がないと言われていたし、自然に子どもを授かることもできるかもしれないと思っていた矢先に、妊娠。しかしそれは、子宮外妊娠でした。31歳の時です。
この時は妊娠しているとは思わず、3週間不正出血が続いたので病院に行ったら、「子宮外妊娠です、今から手術します」と。あまりに急な展開だったので、正直辛いとか悲しいとかいうよりも、思いがけない妊娠にただ驚くばかり。でもこのことをきっかけに、より真剣に子どもが欲しいと思うようになりました。
子宮外妊娠したとはいえ妊娠できることが分かったので、また自然に妊娠できるだろうと思っていたら、次の年に妊娠が発覚しました。ところが妊娠5週でも胎嚢が確認できず、結果はまた、子宮外妊娠。
私の場合、前回含め卵管を2つ切ることになり自然妊娠が難しくなるとのことで、大きな病院を紹介します、と当時通っていた病院で言われ、転院。33歳の誕生日に、2回目の手術をしました。
その手術をした病院の先生から、「今後安立さんは、自然妊娠はできないですよ」と言われました。
2度の子宮外妊娠によって、不妊治療を選ばざるを得なくなったので、その先生と、最初に手術してもらった先生それぞれに、「体外受精しか道がないんですけれど、どの病院がオススメですか?」と相談したんです。
最初に手術してくれた先生は、「すごく優しくて、患者さんの気持ちに寄り添ってくれる先生がいるクリニックを紹介します」と言い、2回目に手術してくれた先生は、「安立さん、妊娠って0か1なんですよ。どんなに優しくても、どんなにその人の気持ちに寄り添ってくれても、妊娠しなければ何の意味もないんじゃないですか。僕が紹介する先生は少し変わっている人だけれど、結果を出すことにフォーカスしているから」、と。
それで考え、私の選択は結果だな、と後者を選んだんです。仕事しながらの不妊治療だったのでストレスは色々ありましたけれど、幸い職場の人の理解もあって、34歳で長女を出産しました。
妊娠40週4日で長男を死産
長女を産んだ後、夫の海外転勤が決まり渡米しました。そして長女が1歳半になった頃、私は36歳になっていたので2人目を考え、もう一度不妊治療を受けるために一時帰国。日本のクリニックに通い始めました。
以前の治療で、胚盤胞と言ってもうすぐ着床する段階の受精卵が、3つできていました。その3つのうち、2つ目で長女を授かったのですが、長女を授かる前に戻した1つ目は妊娠不成立だったので、1つだけ残っていたんです。その1つを戻したところ着床し、男の子を妊娠しました。
ところが経過も悪くなかったはずなのに、妊娠40週4日で、原因不明の子宮内胎児死亡という形で、死産を経験しました。
― そのときはアメリカの産院に通われていたのですか?
はい。長男を妊娠してからはアメリカに戻り、現地の病院に通っていました。
長女が生まれたときに羊水を飲んでしまっていて、挿管したあと産声を上げたという経緯があったので、長男を妊娠中もそれが心配で、37週くらいから、「前回そういうことがあったので、エコーでチェックして欲しい」と、お願いしていたんです。でも、「赤ちゃんはヘルシーだから大丈夫。アメリカは治療費も高いし、必要ない検査はしない方がいいから」と。
慣れない土地での出産で、内心は、ずっと不安があったと思います。例えばアメリカは、そうやって羊水を飲んで生まれてきた時に挿管とかしてくれるのかな、、とか。起こりうる何かを予測していたのかは自分でもわからないけれど、でも、心配でした。
予定日に子宮口が3cmくらい開いていたので、陣痛促進剤を24時間点滴して様子を見ましたが、それ以上子宮口が開かず、子どもが産まれてくる気配もないので、病院から一度自宅に帰ることを提案されました。
「安立さんが望むのなら帝王切開という選択肢もありますけど、赤ちゃんが健康なので、まだ待ってもいいと思いますよ」と説明があり、自宅に戻ることにしました。でも、今ももしかしたら、あそこで帝王切開を選ばなかった自分の選択は、間違っていたのかなって…。
その後日本に帰国し、次男を授かり出産したんですが、その主治医に当時のことを話したところ、「この病院では陣痛促進剤を打った患者さんは、基本的には自宅に帰しません」、と。
この返事を聞いたとき、日本で産んだら違ったのかなっていうのはちょっと思いましたけど、ただ、次男を授かったときには、アメリカの先生を責めるみたいな段階は、過ぎていた感じで。だから、アメリカの先生にも感謝しかなくて。一生懸命頑張ってくれていたことは、一緒に長男を見ていてわかっていたつもりです。
なので、次男の主治医の言葉を聞いたときは、どちらかというと自分の罪を少し許してもらえたというか、自分の責任だと思い込んでいた部分が、少し軽くなった気がしました。
なんというか、仕方がないことだったんだなって。誰も悪くなくて、その場にいた全員が正しいと思ってしたことが、悲しい結果になっちゃったんだ、と考えられるようになりました。
長女の笑顔を守ろうと、必死だった
娘はかわいそうじゃない。意地になって出かけた毎日
長男を亡くした頃はちょうど第二子出産ラッシュで、周りは子どもで溢れていました。友人は皆私のことを心配し気遣ってくれ、最初はありがたかったんですけれど、だんだんそれが自分の中で嫌になってきちゃって。
「あっちゃんが嫌な気持ちになるのも、赤ちゃんを見て辛くなるのも当然」って、私が腹を立てることすら皆が許してくれようとしてくれることが、嫌でした。なんだかそれはフェアじゃない、と感じてしまって。もともと私は負けず嫌いの性格なのもあって、すべての同情を私がもらっているように感じて、悔しくなってしまったんです。
だから泣いているとか、家から一歩も出たくないとか、誰かに触れ合えなくなっている自分を人に知られるのが嫌で、毎日意地になって長女を連れて出かけていました。
その時一番避けたかったのは、「長女がかわいそう」、と思われることでした。「この娘は幸せなんだから、この娘の笑顔を守らなきゃ。だからかわいそうって思わないで」。当時は、そういう気持ちで毎日家を出ていました。
本当はそんな風にしている自分が嫌なのに、毎日意地になって出かけて、意地になって笑って。家に帰ったら、ぐったりして泣いていました。でも、長女が風向きを変えてくれた気がします。
長女は感受性が強い子のようで、それまでは何ともなかったのに、急に長男と同じくらいの時期に産まれた子どものところに出かけると、遊ばなくなってしまったんです。
それで、これはちょっとまずいと思ったんです。当時、2歳になって、こんなにかわいくて、イヤイヤ期に入りワガママ言い放題の時期のはずなのに、知らず知らずのうちに、私が我慢させちゃっているかもしれないって。
初めはそれが、娘の性格形成に影響を与えたかもしれないと心配していたんですが、今はその経験が、娘のやさしさだったり、言いたいことを言えないときもあるけれど、人に意地悪をしないところとかにつながっているのだとしたら、娘にとっては貴重な経験だったというか。
もちろん、あって良かったという経験ではないですけど、一連の経験がこの子の成長につながったのだとしたら、それは長男が私たちにくれた贈り物のひとつだったのかなと、思っています。
定型文を作り会話。辛い気持ちは文章に吐き出した
不妊治療をしていた頃は、なんで私には子どもができないの? どうして1%とか2%くらいの確率と言われている子宮外妊娠を、2回も繰り返すの? って、自分に対しても周囲に対しても、ものすごく怒っていたんです。
だから長男を亡くした後も、「私このままだったら、同じ状況で無事に産んだ人を嫌いになってしまうかもしれない」と、自分の気持ちに制御をかけようとした時期もあったんですけど、不思議とそうはなりませんでした。それは、私にとっては、娘の存在が大きかったと思います。娘がいたから自宅に引き込もらなくて済んだし、必要以上に自分の中の嫌な気持ちと向き合わなくて済んだ、と感じています。
もちろん、長男を失って心が結構ギリギリになっていたので、周りから受け取る言葉一つひとつにいちいち反応しちゃう自分もいました。受け取る力みたいなものが強くなっていたというか。親切心で言ってくれてるってわかっていても、心が反応しちゃう。
でも、全てに反応していたら取り返しがつかなくなるし、いつか友達がいなくなっちゃうと思ったから、そういう負の気持ちを全く言わないようにして、その分、文章で書き捨てていたんです。「今日は何があって、何を言われてすごく腹が立った」と書き、消す。こういう作業を、ひたすら繰り返していました。
アメリカで私が所属していたコミュニティは、長女を生んだ直後に渡米したこともあり、ママしかいないところだったので、新生児たちが山盛りいる中、公園に行ったりとか、私にとっては逃げ場がないような日々でした。
― そのような状況でも、日本へ帰国するということは考えませんでしたか?
日本に帰って来いって言われたこともありましたが、なんか帰れなくて。アメリカはすごい辛いんだけど、周りにいる人たちが話してくれた言葉っていうのは、やっぱり優しかった。どんなに自分の状況が悪くて、悲しくなるときとか腹が立つときがあっても、自分の気持ちさえ人に言わなければ、ここにいた方が楽だって思って。
当時は、ママ友とこういう会話をしたら自分はこう返そうっていう定型文を作り、練習していたんです。そうしておかないと、どこかで感情的になってしまいそうで。泣いたらおしまいだ、という気持ちもありました。
― そこまでして自分の感情を押し殺していたのは、どうしてですか?
そうですね…。やっぱり長女のことを思うと、悔しくて。世界で一番幸せな女の子にしたいと思って産んだのに、かわいそうだなんて絶対思われたくない。今思えば、本当に意地になっていましたね。
「40歳まで」の約束で再開した不妊治療
もう一人産まなきゃ。夫の反対を押し切って不妊治療を再開
長男が亡くなって2ヶ月ほど経ってから、夫に、メールで気持ちをぶつけたことがあります。
彼はすごく優しくて、海外出張もいくつか断ってなるべく私のそばにいてくれようとしたんですが、私のように一人でいる時に声を上げて泣くことはせず、ただひたすら、私の話を聞いているだけでした。それが優しさだとは分かりつつも、どうして私と同じように悲しまないのかと不満が募り、メールを送ったんです。
すると、彼からとても長い返信が来て、彼は彼なりに消化の仕方を考えていたことが分かりました。
その返信には、
”病院の先生から長男がはめていたベルトなどを収めたkeepsake(形見)のボックスをもらった。その時に初めて、悲しくて涙が出た。それから2ヶ月くらい経つけど、本当にあったことなのか、正直ちょっとよくわからないくらい。僕の気持ちはフワフワしている。これがいつか、淳子みたいに深い悲しみとなって僕のところに訪れるのか、一生こういうふわっとした気持ちのままいるのか、僕には分からない。一生かけて、僕が考えていかなきゃいけないことだと思う。淳子は淳子のままで、笑ってても泣いてても良い。”
みたいなことが書いてあって…。
それで、ああ、やっぱりこの人が夫で良かった、と思いました。
それから私は夫に、もう一度不妊治療を始めたい、と伝えたんです。その時は、長男を亡くしたのは自分のせいだと思っていたので、早く“長男”を産まないとって思っていたんですね。年齢も38歳でしたし。
そうしたら、夫に初めて本気で怒られました。「一度、子宮内胎児死亡の経験があって、また次に同じことがあったら淳子はどうするんだ。淳子の命だってどうなるか分からないんだ。どうして、長女がいるのにリスクのある選択をするんだ。淳子は自分では落ち着いていると言うけれど、僕には到底落ち着いているようには見えない」と、大反対でした。
私はスピリチュアルなものとかは全然信じていないんですけれど、その時は、自分の中の無視できない感覚として、とにかくもう一人産まなきゃ、っていう強迫観念みたいなものに駆られていたんです。特に友達が赤ちゃんを抱っこしているのを見ると、余計に。
なんとか夫を説得して日本に行き、4ヶ月不妊治療に挑みましたが、結果はダメでした。今振り返れば夫が言うとおり、その時の私は落ち着いていなくて、焦っていただけなんだろうなって思います。
長女には弟や妹がいないのに周りの子どもたちにはいて、その上私は同情をかけられている。だから、もう一人子どもができれば、私は同情されない。長女にも兄弟ができる。きっと何もかもがうまくいく。私と長女がこの環境でフェアに渡り合うには、これしかない。そう思っていたんです。
全部区切りを付けたときに訪れた、最後のチャンス
アメリカで不妊治療を受けるつもりはなかったので、当面は再帰国する予定もなかったし、もう現実的にないなって、ここで一回区切りをつけることにしました。
それまではしつこく、長女が赤ちゃんの頃に使っていたものを残しておいたんですけれど、全部友達の赤ちゃんにあげて、家から一切赤ちゃんのものを無くして区切りをつけて生活していたら、まだしばらくアメリカにいるはずだったのに、突然夫に帰国命令が出たんです。米国内で引っ越して2日後、クルマを買って1週間後、というタイミングで(笑)。
その時私は39歳、40歳まであと1年の誕生日を迎えたばかりでした。心の中で諦めたはずなのに、「あ、もう一度不妊治療できるかも」っていう思考回路になってしまったんですね。こんなタイミングで帰国が決まるなんて、もう一度私に頑張れって言っているようにしか聞こえないって、自分にとって都合の良い方に解釈したんです。そして夫を、「40歳まででいい。40歳まで治療させてくれたら、二度と言わないから」と説き伏せ、帰国後に治療を再開しました。
そこから次男を妊娠し、40歳になる1ヶ月前に出産しました。
思えば、長男を亡くして焦っていた頃は、正直、「もう一人“長男”を産まなきゃ」という気持ちがどこかにあったんですけど、その後は一回自分の中で区切りをつけたからか、やっぱり次男は次男で、長男は長男だという思いに変わっていった気がしています。
*(編集部注)安立さんのケースにおいて、戸籍法上、長男・次男という表記は正確ではありませんが、ご本人ともご相談のうえ、本記事内では長男・次男として表現させていただいております。
取材・文 / UMU編集部、写真 / 望月小夜加
2度の子宮外妊娠、不妊治療、そして長男の死産。その葛藤や苦悩、痛み。長女と家族の存在に支えられながら、心境を書き綴ることで乗り越えた日々。その経験を経て、次男を授かるに至った安立淳子さん。
続く<後編>ではいよいよ、そんな安立さんの「今だから語れる想い」の核心について、伺います。
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