「死産」というやり場の無い苦しみに、心境をただ“書き綴る”ことで乗り越えた日々。次男の出産を控え、当時がよみがえる極限の精神状態の中、また“書く”ことを決意したのは、「遺言書」だった…。この<後編>では、一連の経験を経た安立淳子さんが、家族関係や人間関係、人生の優先順位、そして不妊治療について思うこと等、今だから語れる想いの「核心」について、伺った。
安立 淳子 / Atsuko Adachi 1975年生まれ。上智大学経済学部経営学科卒業。株式会社伊勢丹にて、販売を経て本社広告を担当。2003年の結婚を機に、プラダジャパン株式会社に入社。miumiuのPR/イベントを担当。その後学校法人大妻学院を経て、2007年日本郵政公社(当時)の広報部門に最後の国家公務員として入社、郵政民営化に向け、販促及び物販の立ち上げに携わりながら2010年、長女を出産。同年、夫の転勤に伴い12年に渡るキャリアに終止符を打ち、サンフランシスコへ。2012年、アメリカにて息子の誕生死を迎える。2014年帰国し、2015年に男児を出産、現在は夫、年長の娘と1歳の息子の4人で東京に暮らす。
死の恐怖と向き合いながら挑んだ、3度目の出産
次男を出産する前に残した「遺言書」
長男の死後、再度の日本での不妊治療から、自分の中で区切りをつけるプロセスを経て、再帰国して最後と決めた治療を再開していました。そこから、長女の時にもないスピードで次男を妊娠することができました。
次男の妊娠が分かった時、私、女の子だったらいいなって思ったんです。女の子なら成功体験があるから。でも、男の子だったらまた死んじゃうかもしれない。だから男の子だと分かった時、今思えば冷静では無かったのでしょうが、私はこの子を無事産めないかもしれないと、怖くなりました。
それから夫に、「子宮内胎児死亡」は母体にも危険があることだと言われたことを思い出して、今度死産したら私も死ぬかもしれない、という恐怖も出てきました。
長女もいるのに、そこまでの考えに至らないまま、「ああ日本に帰ってきた、また子どもを授かれるかもしれない」っていう気持ちだけでここまで来ちゃったけれど、もしかしたら次は、私自身かもしれない。当たり前のように産まれてくるなんて、そんなこと起こらないんじゃないかっていう考えにとらわれてしまって…。
当時、とても混乱していたんでしょうけど、「普通に妊娠し、出産している人のケースを自分に当てはめちゃいけない。よく考えて。私は子宮外妊娠を2回もして死産もして、妊娠出産に関しては不得意なんだから、これから何があるか本当に分からない…。」
そう思い、遺言書を残すことにしたんです。ちょうど臨月になる頃だから、妊娠35週あたりですね。
― 遺言書…。それは、死も覚悟をしたということだったのでしょうか?
自分でも分かりませんが、だいぶ切羽詰まっていたことは確かで、書いておかねば、取り返しのつかないことになる前に書いておかないとって思っていました。
その時はなぜか、不思議と産まれてくる次男のことは考えられず、もし私が死んだら長女はどうなっちゃうんだろう、これからの先の人生で長女が迷った時、たとえば友達関係で辛い思いをした時に、ママからどんな言葉をかけられたら真っ直ぐ育ってくれるだろうとばかり考え、それを手紙に残しました。
小学生になった長女へ。中学生になった長女へ。高校生になった長女へ。大学生になった長女へ。社会人になった長女へ。結婚した長女へ。赤ちゃんができた長女へっていう感じで結構たくさん。合わせて夫にも両親にも書いたんですけど、もし万一、自分が死んじゃうかもって思った時に真っ先に考えたのは、長女のことでした。
有り難いことにその後、無事に次男を出産することができたのですが。
ワーママに憧れていた。でも今は、ずっと子どもたちのそばにいたい
— 極限とも言える精神状態も含め、本当に色々なご経験をされましたね…。その後、最終的に次男くんを出産されてから、ご自身の中で変化したことはありましたか?
そうですね。次男が産まれ、自分のここまでしてきた選択について、振り返って考えることが増えました。以前は、私は仕事をしながら子どもを育てるんだって思っていました。だから長女が産まれた後、保育園に預けて働きながら子どもを育てるつもりでした。でもちょうどその時に渡米し休職期間が伸びて、長女とずっと一緒にいられる時間ができて、それが私の人生の中で一つ目の嬉しい誤算になったんです。
アメリカには日本と違って親や親戚がほとんどいないので、必然的に子どもとの時間が増えていました。一緒に公園に行って遊んだり、お菓子を作ったり。自分の中で長女とのそこまでの密なコミュニケーションを想像していなかったので、長女と一緒にいられることの幸せに初めて気づいたんです。
また仕事を始めたいという気持ちもありましたけど、その後に長男のことがあって、私の場合は、今は仕事よりも子どもなんだなって。大切な人を大切にしながら生きていたい、と思うようになっていきました。
昔は、自分の社会的立場をしっかり持ちながら子どももいるお母さんって、なんてカッコいいんだろうって憧れていましたし、今でもワーキングマザーはすごく素敵だと思うんです。ただ、私の場合は色々あった中で、結局仕事より子どもたちだったんだろうなって、今は思います。
私は不器用なので両方100%やろうと思うと多分できないんです。それでどっちも楽しめなくなって、イライラするんじゃないかな。だから、あくまで個人的にはですけど、やっぱりどちらか諦めないと色々楽しめないだろうって思うんです。この選択を優先するようになっていったきっかけは、やはり、長男のことが大きいと思っています。
日本に帰ってきて長女も大きくなったので、保育園に預けて再び仕事を始めるという選択肢もありましたが、今自分の欲しているものとは違うのかなと。もちろん子どもたちが大きくなって、どこかでまた自分の生きる道みたいなものを探す時期が来るとは認識しているんですが、今の私は子どもたちのそばにいて、ママって呼ばれた時にすぐそばにいられることが、自分にとっての幸せな日常なのかなって考えています。
皆それぞれ、医学の力を借りて生きているのだから
— 体験は人によってさまざまですが、ここまで安立さんのお話を伺って、やはり授かる、産む、ということは決して当たり前ではなく、奇跡のようなことなんだと感じます。また一連のストーリーは、子宮外妊娠、両卵管切除を経て体外受精への道筋ができたところから、始まっていた感じも受けますね。
そうですね。色々な考え方や体験を持つ人がいらっしゃる中で、今回はお話するかどうか、実は迷いました。今でも体外受精のことを、“神の領域”だと言う人もいますし、偏見を持っている人もいるかもしれない。やっぱりどこか一歩引かれちゃう部分もあるかもしれない、こどもたちになんらか影響してしまうかもしれないとも思ったので。
少し前に体外受精で産まれた女性が、初めて出産したというニュースがありましたよね。それまでは体外受精で産まれた子どもは、私が知る限り、ちゃんとした生殖能力があるかどうかも偏見があったと思います。
私自身、以前は体外受精で……と言うことに対し、否定的な気持ちになったこともありました。でも、今となっては、現代の世の中に生まれてきて、医学の力を借りられたからこそ、この子たちが生まれてきたし、体外受精に関わらず、皆それぞれ、例えば病気になったときとか、医学の力を借りて生きているわけだから、何も隠すことでも恥ずかしがることでもないと思っています。
悲しみと絶望の中で悩み続けた対人関係
全て分かった上で待っていてくれた友達には、感謝しかない
― ストーリーを反芻しながら印象に残るのは、安立さんが、ご家族やお友達を含めた周囲との関係性に、ときに繊細すぎるくらい慎重に、心を砕いて来たということです。とりわけ、大きな悲しみもあり、ご自身も気持ちに収集つかないようなときでも、相手にこの感情をぶつけるわけにいかない、と思っていらっしゃったわけですよね。
今、長男が亡くなった直後のことを振り返ると、友達との関係の中で私はもっと甘えても良かったのかなと思うことが、色々とあります。
当時は、自分の心の内を知られた時に、友達とフェアでいられなくなるんじゃないかっていう怖さがあって、文章にぶつけることで自分の気持ちを封印していました。一度言った言葉は簡単には取り消せないし、与えた印象は取り戻すまでに時間がかかると思うので。
不妊治療をしていた頃、友達から妊娠の報告を受けて、すごく複雑な気持ちになって、「ごめんね、今赤ちゃんと会える心持ちじゃないんだ」と言ってしまったことがあるんです。今でも、それを後悔しています。すごく仲が良かった友達なので、私がその一言を言ったがために若干ギクシャクしてしまって。
今も仲が良いから会うんですけど、やっぱりお互い口には出さないものの、どこかでそのギクシャクした思いみたいなものが残っている気がして。長男が亡くなった後は、それを繰り返しちゃいけないからと、気持ちを封印していました。
でも文章に閉じ込めても、結局失くした友情もあったんですよね。「どうしてあっちゃんは何も言ってくれないの」って怒られてしまって。でも、怒られても私には言えなかった。言っても失くしたかもしれないし、言わなくても失くしたから、そこは難しいなって感じます。
結局私はすごく強がって、自分の気持ちを素直に言えないこともあったんですけれど、受け止めてくれた友達は、それすらも分かって待ってくれていた人が多いように思います。
いろいろなことが落ち着いて、次男も産まれ、改めて友達と会話する中で、やっぱり自分のことのように喜んでくれる友達とか、ギクシャクしながらもつながってくれている友達というのは、多分私のそういう性格も、ちょっと強がりで負けず嫌いで長女気質だから本当は弱っているくせに何も言わないとか、そういうことを全て分かった上で、私のことを待ってくれていたんだなって。
本当に、友達には感謝しかないですね。今なら、当時もっと自分の気持ちを吐き出しても許してもらえたんじゃないかな、という気がします。
悲しみを経験しているから人に寄り添えるわけじゃない、と知った
私は妊娠・出産を通じてたくさんの経験をして、人よりも悲しみを知っているんだって思い込んでいた部分がありました。だから、友達の悲しみや苦しみも理解できるはずだって。
でも、生死に関わる大病を患った友達の話を聞いて、考え方が変わりました。彼女の苦しさや悲しみは私にとっては全く分からないもので、私は彼女の気持ちが楽になるようなことを、一言も言えなかったんです。彼女の前で私は、無力でした。
私は人一倍経験を積んできたと思ったけれど、皆それぞれ、違う苦しみや悲しみを抱えているんですよね。だから悲しみを経験しているとか、していないとかじゃなくて、大切なのは寄り添う力なんだって、痛感して。自分と違う選択や生き方をしている人の気持ちは、嬉しいことであれ悲しいことであれ、やっぱり寄り添う気持ちがないと、分からないのだと思います。
だからこれからは悲しいことも嬉しいことも、その時にその人の気持ちに寄り添える人でありたい、と思っています。できたら自分の子どもたちにも、そうなってほしいと願っています。
*(編集部注)安立さんのケースにおいて、戸籍法上、長男・次男という表記は正確ではありませんが、ご本人ともご相談のうえ、本記事内では長男・次男として表現させていただいております。
取材・文 / UMU編集部、写真 / 望月小夜加
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