「子どもを持たない」という、プランBの人生。キャリアアップと不妊治療に向き合った末に見つけた、私の使命。

仕事に情熱を注ぎ、ビジネスの第一線で活躍してきた小安美和さん。人生に起こるさまざまな転機の中で、仕事と子どもを持つことを天秤にかけていた時期も長かったそう。仕事と妊娠出産との狭間で揺れていた時のこと、不妊治療を経て「子どものいない人生」と向き合った時のこと、起業への想い、現在の原動力について、話を伺った。

小安美和 / Miwa Koyasu 東京外国語大学卒業後、日本経済新聞社入社。2005年株式会社リクルート(現・株式会社リクルートホールディングス)入社。エイビーロードnet編集長、上海駐在などを経て、2013年株式会社リクルートジョブズ執行役員に。2015年より、リクルートホールディングスにて、「子育てしながら働きやすい世の中を共に創るiction!」プロジェクト推進事務局長。2016年3月同社退社、10月WILL GALLERYオープン、2017年3月 株式会社Will Lab設立。

 


結婚、シンガポールへ

  海外で働く夢をもって

ー ご結婚された頃のお話を聞かせてください。

大学を卒業し、新卒で入社した新聞社で5年間働いていたのですが、当時のパートナーの海外転勤をきっかけに結婚・退社し、シンガポールに行くことを決めました。28歳の時です。

仕事も大好きだったので、結婚して仕事を辞めてシンガポールに行く以外にも、例えば結婚はするけれど私は日本に残る、もしくは結婚をしないで日本に残るという選択もありました。でも私は海外で働くことが小さい頃からの夢だったので、「結婚してシンガポールに行って働ければ、夢が叶えられる」と思って。

— 当時、子どもを持つことについてはどのように考えていらっしゃいましたか?

その時は、何歳まで子どもを産めて、妊娠や出産の確率が歳とともにどう推移していくか、というような知識が全くなかったんですよね。「子どもはまだ先でいい(少なくとも私は)」、そう思っていました。

— まずは、ずっと夢だった「海外で働く」を実現したい、ということだったんでしょうか。

そうですね。私は、「駐在員の妻」としてではなく、キャリアアップを目指して、新聞社を辞めてシンガポールに行ったつもりだったので、まずはその思いをかなえたいと思っていました。

けれど実際は当時、駐在員の妻がキャリアを積むというのは考えていた以上に困難だったことも事実です。フルタイムでキャリアアップのために働きたいと言っている私は当時はかなりの変わり者で。仕事を探しているとき、「駐在員の奥さんの、片手間くらいの仕事ならありますよ」と言われたりして、悔しい思いもしました。

それまで、ビジネスパーソンとしてキャリアを積み、成果を出し目標も達成してきたつもりでいました。なので、「やればできる」という思いがあったんですが、結婚をし、いざ国境を越えたら、働く選択肢が自分の意思に反してせばめられて、「なんでこんなに奪い取られてしまうんだろう」と思ってしまいました。

 

  結婚後、シンガポールで見失った自分

そうした仕事を見つけられなかった4ヶ月間は、ほとんど引きこもり状態で自信を喪失していました。仕事がないだけでなく、結婚して名前が変わり、「小安美和」はビザにもパスポートにもどこにもいなくなってしまった。

社会との繋がりを絶たれ、誰も自分を知らない世界で独りぼっちになってしまったように感じて、この世界から消えてしまったほうがいいのかなと思ったこともありました。

ー 駐在員の妻というのは、どこか特殊なステータスであるという話もよく聞きます。

そうですよね。今は違うかもしれませんが、当時、駐在員の妻たちのコミュニティーでは、どこの会社の、誰の奥さま、というアイデンティティがとても大きかったんです。

「◯◯さんの奥さま」という見られ方がどうしても受け入れられなかった私は就職活動を続け、現地の出版社に転職をしました。1年間その職場で働き、2年目に日系の通信社に転職、3年弱、現地採用でニュース編集記者をやりました。

「社会に影響を与えられた」と自分が納得できる仕事ができてから子どもを産みたいと思っていたので、シンガポールにいた5年間は子どものことは全く考えずにいましたね。

「私は若いし元気だし、大丈夫!」とも思い込んでいたんですよね。最終的には、自分で意思決定できる仕事をしたいという思いが拭えず、自らの転職のために単身帰国しました。

 

  「働く」か「子どもを持つ」か、二者択一の選択肢

当時は、「女性は結婚したら子どもは産むものである」そう考えられていた時代でした。実際、私と同じ1995年に総合職で入社した女性の85%が仕事を辞めているという調査もあります。「育児しながら仕事をする」という選択肢がなかったんです。

仕事を続けるか、辞めるか。そして子どもを産むか、産まないで仕事をするか…。
私の中では、「働く」と「子どもを産む」はどちらか選ぶもの、両方は選べないという「思い込み」がありました。

 


「離婚」から「事実婚」へ

  離婚と再婚

シンガポールにいる間、日本で親たちが何を考えていたかに全く気付かず、呑気に帰国したんです(笑)。

33歳で帰国して知ったのは、周囲が子どもを強く望んでいるという事実でした。でも、キャリアを取り戻したいとの思いで帰国、やっと決まった再就職先で、まずは仕事を一生懸命やりたいという思いばかりが先に立ってしまって、結果として離婚に至りました。

そのあと、縁あって今のパートナーと出会い、再婚をしました。最初の結婚では、ビザの関係もあって名前を変えなくてはいけなくなりましたが、名前を変えたことで感じた、社会との繋がりを失くしたようなあの時の苦しみをもう二度と味わいたくない、「私は私として生きていきたい」と思い、事実婚を選びました。

 

  仕事と子どもを天秤にかける

— 再婚されたあと、子どもについての考えは変化したのでしょうか?

この時のことを振り返るとき、私は自分を「しくじり先生」と呼んでいるのですが(笑)、その時もとにかく仕事を優先して子どもについて考えることを先延ばしにしていたし、産める年齢にリミットがあることを本当に知らなかったな、と思います。

自分は若いという思い込みと、私は何でもできるという自分に対する根拠のない自信があり、「30代のうちに産めばいいんだ」と思っていました。

そんな感じだったので再婚後もしばらくは仕事に打ち込み、「35歳を過ぎたら子どもを作ろうかな」くらいに思っていました。でも、そうやって全力投球で仕事をしていると、35歳になったらなったで、全力投球しなければできない仕事が来るんですよ。

35歳くらいまで、という計画がどんどん後ろにずれて、「37,8歳くらいには…」、それで実際その歳になると、「もう40代でもいいかな」と思い始めたり。体は元気でしたしね。

そんな考えでいたので、私は37歳のときにパートナーを日本に残し、単身赴任で上海に行ったんです。40歳を前にいきなりの海外単身赴任。さすがに周囲には、「(子どもは)大丈夫?」といわれました。

その頃は仕事と子どもを産むことを天秤にかけていた時期でした。
子どもはいつか産みたい。でも、私にはまだ、やり切っていない仕事がある。子どもを産んだら数年は仕事に戻れない、となった時、私は仕事を取ったんです。

自分で意思決定できる立場で、海外でもう一度仕事をしてみたかった。今度こそ、駐在員の妻としてではなく、海外で、自分の力でビジネスをしたいという夢を叶えたかった。「これをやらないと死ねない」と思っていました(笑)。

 


キャリアと、不妊治療

 「もう後がない…」不妊治療を開始

上海から39歳で帰国し、すぐに妊活を始めました。ここでいよいよ「さすがに後がない」と思いました。そこで半年は妊活をしたのですが、結局、段々と放棄してしまったんです。

不妊治療で大変なことは、スケジュールや時間の調整ですよね。私自身も、責任ある仕事を任されている中で、「自分が仕切らないといけない会議には自分がいなければいけない」と、思い込んでしまって。どうしても目の前の仕事をやりきりたいという思いが先に立ち、自ら病院に行くことをやめてしまいました。

そうこうしているうちに、気付いたら42歳になっていて。その頃部長になったのですが、本気で「ヤバい」と思い、45歳までに子どもを産むと「目標設定」をしました。でもまだこの頃も、「私が本気になればできないことはない」と信じていたんです。

 

  「周りに迷惑をかけてはいけない」という遠慮

そうして、治療を再開しました。体外受精はもう覚えていないくらい…10回以上はやりましたし、顕微授精までトライしたのですが、採卵しても卵が取れないとか、取れても育たないこともあってそこまでいきつかないということも何度かありました。

その過程でもいろいろなことが起きました。例えば、ホルモン剤を投与するので、子宮筋腫が肥大化してしまい、妊娠8ヶ月くらいのお腹になってしまったり、MRIなどの検査が入り、そこから1ヶ月妊活ができなかったり、と小さなアクシデントも重なり貴重な時間を失いましたね。

仕事の面では1年のうち何回か海外出張に行くこともあり、その際は、行く前に採卵して卵子を凍結して、帰国したら戻すようなことを、誰にも言わずにやっていました。

「人に迷惑をかけてはいけない」という日本人らしい考え方が邪魔をして、妊活をしていることをあまり言えなかったんですね。自分のプライベートなことで周りに迷惑をかけてはいけない、負荷を与えてはいけないと、そう思っていました。

 

  気力だけで乗り越えられない体力の低下

— 想像するだけで、とても大変な生活だったことがうかがえます。

私はもともと目標達成への意欲がとても高いので、同じスタンスで妊活に臨んでしまっていました。そうすると、「妊娠する」という目標を達成できない自分を肯定できなくなっていくんです。どんどん自分を責めるようになり、精神的に不安定になっていきました。

不妊治療の影響で体調も不安定だし、精神的にも不安定。そんななかでも、仕事の責任は果たさなくちゃという思いだけはありました。自分の人生において、「もう無理」と何かを放棄することを、したことがなかったから。

でも「気力があれば何とかできるはずだ」という、自分に対する過度な信頼があっても、現実にはどんどんがんばれなくなっていく。この時期が一番つらかったです。

常に頭がボーっとしている感じなんです。意思決定力が低下し、会社に行くのもしんどくなっていきました。もう電車に乗る元気もなくて、最後の頃は体力の限界で、会社まで毎日タクシーで通っていました。

一方、タイムリミットとして定めた45歳はどんどん迫ってくる。もう後がないと思い、最後の1年は不妊治療に専念しようと、職場に治療中であることを打ち明けたんです。「今週はこの会議を予定しているけれど、不妊治療のため通院する場合は飛ぶ可能性がある」など、メンバーの皆さんにメールで送って知らせていました。

それまでずっと職場では黙って治療を続けていましたが、自分の人生で不妊治療はもう最後だから、という思いがそうさせたんですよね。

 


「妊活の辞め方」を模索して

  初めて「前に進めなかった自分」を認める

この頃ちょうど、母の入院と、義父の介護、それに自分が健診で子宮頸がんの手前のフェーズだとわかり、気持ちがいっぱいいっぱいになっていました。

いろんなことが一気に押し寄せて、自分が今後何を大切に、どう生きていきたいかが分からなくなり、一歩も前に進めない状態となりました。

ある方に相談したら、「それね、たぶん、誰が見ても全部できないと思うよ。どれかをやめなさい」と言われたんです。

悩みましたが、仕事辞めるか、治療をやめるかの2択ではなく、リモートワークなど柔軟な働き方をしながら、治療を続けることはできないかと模索。結局、最後の半年はミッションを減らして仕事を継続することとなりました。

 

  救われた、ある本との出会い

そんな時、NPO法人Fineの松本亜樹子さんの「不妊治療のやめどき」という本に出会いました。インターネット検索で “不妊治療、体験談”と入れても、成功例しか出てこないんですよ。

なので、初めて松本さんの本で、子どもを授からないまま治療を辞めた人の事例が世の中に出たんじゃないですかね。私も妊活の辞め方がわからなくなっていたので、「今の私にどんぴしゃの本だ」と思いました。

本の中には、不妊治療を辞める前と辞めたあとの幸せ度を%で表現するというデータがあったのですが、幸せ度の%が、辞めたあとの方が上だったんです。私はデータで納得する人なので(笑)、このデータを見て、「なるほど!」となりました。

 

  事実婚にこだわる気持ちの葛藤と、心に響いた宣告

実は、一度だけ、こだわっていた自分の名前を捨てて、籍を入れようかなと思ったことがあります。

不妊治療を進めるにあたって、「法律婚をしていること」が必須である病院は多く、事実婚であったことが治療の選択肢を狭めてしまっていたんです。

周りから「こんな病院があるよ」と勧められる病院の全てが、事実婚はNGでした。だからもう婚姻届を出して、日本で一番良いと言われていたクリニックに行こうかとさえ考えました。

でも、著名クリニックの中で唯一事実婚でも治療が受けられるクリニックがあったんです。そこにすがるような気持ちで行きました。

そこで先生に「あなたの年齢で、このクリニックで成功した人は一人もいないです」と言われたんです。「それは、もう難しいということですか」と聞くと「そうです」とおっしゃって……。

それが、一番の宣告でしたね。「もう諦めて下さい」という直接的な言葉ではなかったのですが、先生に静かに言われたこの言葉で、決着を着けようと思いました。

今はやりきったから後悔はないという気持ちなのですが、未だにフッと思うこともあるんですよ。籍を入れて、日本一良いと言われていたクリニックに行っていたら、何かが変わっていたのかなって。

 

  がんばれたのは、「母に孫を見せたかった」から、だった

今振りかえると、最後、私が突っ走れるほど妊活をがんばれたのは、「母に孫を見せたかった」—。そこだったんです。

もし自分自身が心から「子どもが欲しい」と思っていたら、もっと早い段階からがんばれば良かったわけなんです。突き詰めて考えてみると、どちらかというと人のためにがんばっていたんですよね。

私が治療を辞めた途端に、弟に子どもができたので、結局母は孫の顔を見ることができ、正直、ほっとしました。

 


子のいない人生で、生きていく意味を見つける

  想像をしていなかったプランBの世界

あるイベントで、心療内科の先生が言われた言葉に「妊活をしている人にとって、子どもができないということは“死”の宣告と同じなのです」、というものがありました。これは大げさではなく、本当に毎月、「私は死んだ」と思うくらいの衝撃を受け、自分を否定し続けてしまうんですよね。

私もそうだったのですが、子どもがいる未来を想像して、それをイメージしながら治療にチャレンジしているんです。だから子どもがいない未来をいざ宣告されたときに、その未来をプランBとして考えていないわけなんです。未来にぽっかり空白が生じてしまったような感覚に「これか…!」と思いました。

そして「子どもがいないのであれば、私の生きている意味は何だろう……」とずっと考え続けました。

様々な環境で人は生きていて、もっともっと大変な状況の方もいるなかで、何を言っているんだと思われるかもしれませんが、私はそう感じてしまったんです。そのトンネルを抜けるのに1年かかりましたね。

 

  私に与えられた使命

不妊治療を辞めた後、もともとは子どもを産んで、ひと段落した後の目標として持っていた「起業」を前倒しで実現しました。それまでも必死に仕事に打ち込んできましたが、子どもがいない世界で、それまでと同じ仕事をずっと続けるということは、なんだかフィットしないと感じていて。

これからは、自分が立ち上げた会社を通じて、生まれた環境によって機会が与えられなかった子どもたち、またそのお母さんたちを支えていくことに、自分の残りの人生を使っていきたいと思っています。

具体的には途上国の女性支援や、日本の地方で働く意欲があるのに働けていない女性の就労支援に取り組んでいます。途上国の女性支援は、お母さんと、その先の子どもたちへの影響を見据えて活動している起業家の応援をしています。

あとは、世界中の手作り雑貨を集めたこのお店(編集部注:小安さんのお店にて取材・撮影)に、最近は大学生くらいの子たちが来てくれるんですね。

もう、自分の子どもであってもおかしくないくらいの年齢ですよね。その子たちが私を頼ってくれたり、私が教えてあげられることがあったり。そう考えると、自分の子どもじゃなきゃできないことって、ないのかなと思ったりもします。

— そうした若い方たちに、ご自身の妊活経験談をお話されたりもするのでしょうか?

大学生に直接言う機会はあまりないけれど、20代や30代で、もっと仕事をがんばりたい、子どもはもっと先でいいと言っている人たちには、子どもを持つことを先延ばしにして後悔した自分の経験について話すこともあります。わざわざ話す必要もないのかもしれませんが、自分のように知識がなく、選択を誤って苦しむ人を、少しでも減らしたいと思って。

日本の文化は、「他人とシェアする」ことを嫌いますよね。不妊治療も、病気も介護も、黙ってやることが美徳のような考え方がある。でも、それではいけないと思うんです。誰かがサンプルとして声を出していかないと、みんながないものを追い求めてつらくなってしまう。

だから、一見声をあげづらいことでも、人とシェアする、それが当たり前だよ、という風土をつくっていきたい。そんなことを、考えています。

— いま小安さんを支えているのは、どのような想いですか?

「私には使命がある」。その感覚が今、前を見て生きていける大きな原動力の1つですね。

私自身は子どもを持てなかったけれど、1人じゃなくて、何十人、何百人、何万人の子どもたちに影響を与えられるような仕組み作りをしていきたいと思っています。

これからも、子どもたちがより良い暮らしを送るために、世界の「女性×はたらく」を応援し続けていきたいです。

取材・文 / 孫 理奈、写真 / 内田 英恵、編集・構成 / 瀬名波 雅子

 


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