「社会的不妊」という言葉を聞いたことがありますか。経済的な理由や、身体上同性のカップルなど、様々な理由で子どもを望むのに、持てない人々を指します。
私、石渡悠起子は、現在36歳でバツイチ独身のサラリーマン/翻訳者ですが、もしかしたら不妊治療の当事者にもなりうるかもしれません。そんな狭間にいる中で、あらためて産む/産まない、血の繋がりと家族について、自分の感じていることをUMUで書く機会をいただきました。誰かの声を代弁することはできないけれど、自分の体験や気持ちを正直にシェアすることで、1人でも誰かを励ませたら嬉しいです。
*【ミレ二アル世代コラム】と題して、等身大の30代が「産む・産まない」について思うこととモヤモヤ、意見、願いなどをコラム形式でお届けするシリーズ、第六弾です。
「産めるかもしれないのに産めない」辛さ
今から3年ほど前のこと。33歳で結婚したてのころ、電車賃もないくらい困窮していたことがある。完全にフリーランスの翻訳者とミュージシャンとして活動を始めて数ヶ月の時期だった。
当時の夫もフリーランスで、お互いに経済的に頼れるのは自分の稼いだ収入だけ。
多忙な時期と仕事が途切れてしまう時期の差が激しく、夫婦どちらも収入が安定しない中、他人から言われて辛かった言葉が「子どもはまだ?」だった。
経済的な不安があるから、と正直に答えても「産めば案外なんとかなるって」とか、悪気はないけれど無責任な言葉をかけられるたび、心の中は嵐だった。
“既婚女性は、夫に経済的に支えてもらっているのが当たり前”
“男の人は父親になったら、責任感がめばえて変わる”
“出産したら、双方の実家が助けてくれるものだ”ー。
かけられた言葉のどこかに、無意識にその人が「当たり前」と思っている価値観が透けて見えたから、というのもあったけれど、自分もチャンスがあれば産めたらと思っているのに、「お金がないから産めない」自分が本当に悔しいし情けなくて、大抵は口をつぐんでいた。
そんなころ、ある政党の議員(きっとこの事もこの議員の名も覚えている人が多いけれど、私はその人に名前を与えたくない)が、LGBTQの人々と、子どもを産むことに関連づけて「生産性」という言葉を語るのを見て、心から怒りを感じて泣いた。
会ったこともない人に怒りを感じて泣くなんて、人生で初めてだったと思う。
だって。
それが医学的な問題でも、肉体上の性別がパートナーと同性であることなどが理由でも、経済的な理由であっても、子どもを望みながら叶えられない人がいるのに、それを阻んでいるのは社会の仕組みなんじゃないか。なのに、ないことにするなんておかしい。そんな風に思ったのだ。
その後。がむしゃらに働いた私は、仕事の波があったとしても、電車はいつでも乗れて、たまーに飛行機にも乗れるくらいの収入も得られるようになった。
そして昨年、久しぶりに20代を過ごしたNYを6年ぶりに訪れ、大きく心境が変わり離婚した。
結婚したことも離婚したことも後悔は微塵もないけれど、子どもを持つことは、また遠ざかってしまった。
そもそも、私は本気で産みたいのだろうか。
もっと焦ってもいいと思うのだけど、正直に言うと、この問いの答えは私の中でまだぼんやりしている。
時間が許すのなら、まだまだいくらでもゆっくり考えたいけれど、生殖機能はのんびり屋の私を待ってくれない。
いつか子どもは育てたいと思う。
友達の子どもと遊んでいると、本当に可愛いな、と思う。
小さな人たちのレンズを通して、もう一度世界の美しさを何度でも味わう体験は、本当にいつだって胸にグッとくる。
それが自分の子どもだったら、きっとなおのことだろうと思う。
愛情深く育ててくれた親や祖父母にもらったものを、私も次の世代につなぎたい、と心から思っている。
その一方で、自分の中で、もう一つずっと考えていることがある。
血の繋がらない家族についてだ。
めぐちゃんのこと
私には、めぐちゃんと言う、自分の親ほども年の離れた年上の大好きな友達がいる。
めぐちゃんは一人っ子で育ったけれど、いつでも人に囲まれていて、旦那さんとの間に4人の子どもに恵まれていた。私はその4人きょうだいの末っ子と同級生だった。
めぐちゃんの家に遊びに行くと、必ず他のきょうだいの友達も遊びに来ていた。
みんなが集まる場所だったのだ。
そして遊びに来ている子どもたちみんな、晩ご飯をしょっちゅう御馳走になった。
めぐちゃんは、自分の親が自分を育てるために、仕事に明け暮れていて鍵っ子だったから、家に人がいるのが好きなんだと言っていた。
そんな、めぐちゃんのパパとママは、少し離れた街に住んでいたけれど、めぐちゃんや孫たちをとても大切にしていて、しょっちゅう行き合っていた。私も何度も彼らに会ったことがある。
そして、私の家も家族構成が似ていたけれど母親が忙しかったので、私はなんとなく勝手に年の近い4人きょうだいよりも、そのお母さんであるめぐちゃんに懐いていた。
やがて、高校を出た私はNYの大学に留学した。歌を勉強するためだった。
まだFacebookもLINEもない時代で、わざわざテレフォンカードを買って国際電話をかけたりすることもなく、でもあらたまってメールするのも何だか照れ臭い関係だったから、段々とめぐちゃん一家とは疎遠になった。
信じて疑わなかったものが突然なくなる、ということ
在米生活も8年経ち、アーティストビザを取り音楽活動をしながら現地で暮らしていた時、3.11が起きた。
神奈川出身の私は、幸い家族は無事だったけれど、今後何かあった時に物理的に家族のそばにいたい、と強く思った。その1年後、私は日本に完全に帰国した。
帰国後すぐのころ、久しぶりにめぐちゃんの家に遊びに行くと、末っ子とめぐちゃんが迎えてくれた。
みんな変わりないか聞くと、めぐちゃんのパパとママが数年前他界したことを教えてくれた。
仏壇で2人にお線香をあげさせてもらった後、いつも明るいめぐちゃんからは、今まで見たことのない表情で言った。なんとも言えない表情だった。
「あのね、パパとママは実の親じゃなかったの」
どう言うことかと聞くと、同じ年に亡くなった2人のお葬式がどちらもすんだ後、めぐちゃんの実家の街から遠縁の方がやってきてこう言ったそうだ。
「あんた、実の子じゃないのに、最後までよく面倒みたね」
驚いて聞き返したところ、なんと、めぐちゃんは赤ん坊の時にパパとママに養子にもらわれていたという。
けれど、どうにか出生届を偽装してくれる人が養子縁組を取り持ったらしく、戸籍には実子と書かれていたため、知らないままだったのだ。
そして、さらにびっくりすることにまだ産みの母も生きていて、めぐちゃんと連絡を取りたがっていたそうだ。
赤ちゃんあっせん事件と、特別養子縁組制度の成立の歴史
後から知ったことだけれど、日本財団の『ハッピーゆりかご』という特別養子縁組の支援団体サイトによると、特別養子縁組という縁戚関係にない子を養子に迎えられる制度が生まれたのは、菊田昇医師の「赤ちゃんあっせん事件」がきっかけだそうだ。
前述サイトによると、菊田医師は、望まない妊娠をした女性たちに、出産の記録を公的書類に残さないと説得し、子どもを望む夫婦に赤ちゃんを託していた。これが明るみに出たことがきっかけとなり、1987年度には、特別養子縁組制度が成立した。
その制度が生まれる何十年も前から、菊田医師のような誰かが日本中にいて、その1人がめぐちゃんを養子にだしたのかもしれない。
そして、子どもが出生について知る権利、真実告知という言葉が普及するずっと前は、子どもを産めない人も養子も、可哀想などの見方をされることも多く、真実告知を受けない養子も多かったようだ。
めぐちゃんの告白を聞いた時、何と声をかけるのが正解か分からなくて、その日は、何か適当にお茶を濁して、気まずく彼らの家を後にしたことを覚えている。
その後、私もすぐに東京に引越し、日本での生活に馴染んだり結婚したり離婚したりと忙しく、めぐちゃん一家の住む地元に帰ってもなかなか会いに立ち寄ることはなかった。
Chosen Family 自分で家族を選ぶということ
今年の正月、新年の挨拶でめぐちゃんの家に立ち寄った。
聞けば、少し前に実母に会ってきたという。
「でもね、やはり私は、育ててくれたあの両親の子なのよ」と、前とは違う、明るいキッパリした顔で話していた。
話してくれる以上のことは聞かなかったけれど、その言葉がきっと全てなんだろう。
少しだけうるんだ瞳のめぐちゃんの話を聞いていて、私の胸にも迫るものがあって、2人してちょっと半べそをかきながら、照れ隠しで笑った。
その後実家に帰り、正月祝いで集まった母と父と姉と兄一家との写真をとった。誰と誰がそっくりだなんて話をしながら、本当に自分が自分の母そっくりになってきたことに感慨深い気持ちになって、まためぐちゃんの話を思い出した。
自分が産みたいのか、産まないのか、産めないのか、やはりまだ分からない。
けれど、血の繋がりの中に説明できないような強い繋がりを感じる気持ちも、
それを欲する気持ちも、
血の繋がりがなくても時間をかけて築いた家族の繋がりも、全部、真実だ。
どんな形になっても、めぐちゃんのご両親がめぐちゃんに与えたような、私の親が私にくれたような、愛情を誰かに渡して死んでいきたい。
自分がいずれ選ぶ家族と。
心から、そう思った。
当事者として、アライとして
この数年の経験を通して、子どもを産む、産まない、産めないことを自分の中で考えるようになる中で、日本語に翻訳したい本にも出会い、さらに国内の状況を調べるようになった。
その活動を通して、社会的不妊という言葉を最近知った。
経済的な理由や、(アイデンティティではなく生物学上)同性のカップルであったり、パートナーがいないなど、広義的に「子どもを望むのに、子どもを持てない人」を指すのが、社会的不妊だそうだ。
その定義によると、私も当事者ということになる。そして、36歳になった今、もし今後パートナーがまたできた時には、不妊治療の当事者にもなりうるアライ(=当事者を理解し支援する人)でもある。
それでも、当事者の数だけ悩みもきっとあると思う。
誰かを代弁できるなんて、思わない。
でも、経験は違えど同じ思いを共有をしている誰かがいるって知ること、あなたの存在をちゃんとわかってるよ、と言ってくれる存在があることは、きっと誰かにちょっぴり勇気を与えることができると思うのだ。
不妊症、養子縁組、LGBTQや経済的困難を含む社会的不妊や、このテーマの話しづらさが、少しでも変わっていくなら、私は勇気をだして自分のハートを開いて、自分の体験や気持ちをシェアしていきたいし、翻訳者としても、そのテーマの書籍や記事を日本語で届けていきたい。
そう、思っている。
※プライバシー保護の理由から、めぐちゃん個人が特定できないように、実名や家族構成などを事実とは変えて書いています。
石渡悠起子:サラリーマン/翻訳者/ミュージシャン
1984年生まれ。神奈川県横須賀市出身。NY市立大学クイーンズカレッジ音楽学部卒業後、4年間にわたるNYでの音楽活動を経て、2012年に日本に帰国。音楽活動を続けながら英会話講師やフリーランス翻訳者などを経て、社会的意義に共感できるプロジェクトの翻訳や、フェミニズムやジェンダーなどについて書いた詩を読み演奏する音楽活動をマイペースに続けていくために2020年春より就職。
現在、米国発のノンフィクションで、体外受精を経て出産した不妊症当事者の著者が、他の不妊症当事者や、養子縁組、里親、LGBTQの親、産まない選択をした人、など様々な人々の体験を描きつつ、不妊についての話しにくさや、子どもを渇望をする気持ちの出どころなどを知るべく、研究や、文学、映画なども紐解いた、幅広い視点でリプロダクティブヘルスについて書いた本、『子どもを迎えるまでの物語』の翻訳出版クラウドファンディングに挑戦中。
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本記事を寄稿してくれた、翻訳家石渡悠起子さんの翻訳出版のためのクラウドファンディング、2020/5/12まで実施中です!たくさんの応援者の思いが詰まったこのプロジェクト、ぜひUMU読者のみなさんのご支援、よろしくお願いします。
「不妊治療、養子、LGBTQ、子をもたない選択
子どもをめぐるすべての選択を肯定する米国のノンフィクション
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