夜に書いた手紙や日記は、朝に読み返すとなんだか気恥ずかしい…
そんな経験、誰しも一度はあるのではないでしょうか。
でもそれって、自分の気持ちをまっすぐ言葉にのせられている、ということなのかもしれません。
「UMUコミュニティ 気まぐれ日記 深夜便」は、UMUのコミュニティメンバーが、日々の出来事やその中で感じたこと、考えている・考えたいこと、これまでを振り返ってふと思い出す瞬間、未来に対するわくわくとそわそわ…そんなことを、自由に、素直につぶやくコラムです。
わかりやすくはっきりと言い切ることも、きれいにまとめる必要もない、それぞれが自分だけの大切なノートにひっそりと書き留めるように、“わたしの気持ち”を”わたしの言葉” で届けてもらいます。
「UMUコミュニティ 気まぐれ日記 深夜便」第1弾は、あるイベントを軸にしたコラムをお届け。
かつてUMUでも記事を執筆してくださった、フリーライター・若林理央さんが2024年2月に出版された新刊『母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド』。
その刊行記念イベント「若林理央×吉田潮×サンドラ・へフェリン『私たちは、こうして“チャイルドフリー”になった』」が、東京・下北沢の書店B&Bにて3月8日に開催されました。
若林さんを含む、自分自身の人生を生きる中で「子どもを持たない」という選択をしてきた3名の女性たちが登場。「産まない」人生を生きる中での気持ちの移り変わりや、それぞれの年代での葛藤、これから先の人生について思うことが語られました。
このイベントに参加した、UMUのオンラインコミュニティのメンバーのお一人、ペンネーム・咀嚼紡人清濁併呑(ソシヤクツムギビトセイダクアワセノミ)さんの”つぶやき”。ぜひご覧ください。
産むか、産まないか、決められないわたしの場合
「産むのか・産まないのか」を考え、そして「今は産まない」と宣言したのが、イベント登壇者のお一人、若林さんだ。彼女の産まない理由、そう思うようになった経緯が本の中で述べられている。
また、数人の女性にインタビューしていくなかで、産まないと決めた自分のこと以外の人生についても想いを馳せる。
彼女の「産まない」はあくまでも“今は”だ。
人間の心が揺れることを前提にしている。
これからも揺れながら、きっと「産むか産まないか」考え続けるのだろう。
私は「産みたいのか産みたくないのか」、結局決められないまま、不妊治療も経験し、産んだ。
2回の出産を経験し、うち一人は死産だった。
若林さんは「産んだ後悔より、産まない後悔を選びたい」と話されていた。
私は、産むか産まないかを考えたとき、その問いの答えを保留にした。
妊娠できるかどうかもわからないのに、想像だけで決められなかった。
人生は自分の意思でコントロールできない。
変えられるものは変えようと努力するが、変えられないものは時間をかけて受け入れ、受け入れた自分を肯定していくしかない。
私の人生を受け入れるということ
そう思うようになった理由。
20代の後半に、それまで専門職として勤務していた職場を退職した。
病気やけがを起因として、入院前の生活と退院後の生活が180度変化する患者とその家族に、これからの生活について決断させ、次の生活の場所に出発させる段取りを組むのが仕事だった。
当時勤務していた病院の経営の都合上、入院から平均2週間から4週間の間にすべての段取りを整え、本人と家族に選択肢が他にないことを納得させ、仕事を終える必要があった。
患者自身、身体に起こった変化を受け入れられないショック状態の中で決断させられていた。
そんな彼らに対峙するには、私の経験も、想像力も、努力も、まったく追いつかなかった。
相手の状況に想いを馳せるための時間も、気持ちの揺れも、そこでは許されなかった。
揺れ動く彼らと一緒に私が揺れたら、決められなくなる。
彼らのことが何をしていても頭から離れなくなった。
苦しさをうまく言語化できず、上司とも、同僚ともうまく行かなくなった。
心身が悲鳴を上げた。
食べることと眠ること、判断することができなくなった。
当時、私が生きるためには、その仕事を辞めるしかなかった。
青森からはるばる上京してきた父が、私の代わりに判断した。
今考えるとその通りだった。
納得できるまで、その後10年かかった。
20代後半から30代前半はまったく別の職種でアルバイトから社会復帰を目指した。
精神的なバランスを崩さずに、お金を得て、自分の生活を立て直すのに必死だった。
数年かけて、転職を経て、正社員を目指した。
学生時代からのパートナーと結婚した。
パートナーも同時期に闘病しており同じような状況だったため、子どもは欲しいと思えなかった。
30歳を超えたあたりから同年代の友人たちに出産ラッシュがきた。
妊娠できる期間に限りがあり、不妊治療には時間とお金と覚悟が必要なことを知った。
子供を育てる生活がイメージできないが、産まないとも決められなかった。
不妊治療をすることにした。
不妊治療を始めたら、パートナーとの関係は悪化し、周りの妊娠出産のすべてを妬むようになった。
不妊治療を始めたことを後悔した。
それでも、産まないとは決められなかった。
私は、不妊治療をやめるのではなく、産みたいのか産みたくないのかを問うことを辞めた。
ホルモンサイクルに合わせて機械的に通院し、薬を飲んで施術をうけた。
何も考えないようにした。
妊娠した。
出産予定日をむかえ、陣痛が弱すぎると、促進剤を点滴され、陣痛と、その他色々、痛みに次ぐ痛みを経て、娘と対面した。
涙は出なかった。
自分ではない他人の命を生きたままこの世に生み出せた事実にただ安堵した。
その数年後に思いがけず第二子である次女を妊娠、妊娠期間中に子宮内胎児死亡となり、死産となった。
彼女の死を受け入れられず、毎日自分を責めて、泣いて過ごした。
外で見かける新生児、妊婦を直視できなかった。
なぜ私がこんな思いをせねばならないのか。
苦しかった。
状況を変えたかった。
できることを手当たり次第やってみた。
医師に、カウンセラーに、コミュニティの仲間に、都度都度の心の動きを言葉にして伝え、対話を重ねた。
私以外の人が、つたない言葉で語られる私の体験を想像して、受け止めてくれた。
その眼差しが、かけてくれた言葉が、その体験に対する私の捉え方を変えた。
子供を失った事実は変えられない。
それは私の中に空いた黒い穴のようなもので、埋められない。
同時に、私が歩いていくために必要な踵の骨のような、重要な身体の一部になった。
私は産まないとは決められなかった。
生きて産まれた長女の存在、生きて産まれなかった次女の存在も、ただ受け止めた。
周囲のサポートに感謝しつつ、よくやったねと自分を労いたい。
私の人生、子どもの人生
5歳になった長女が、仲の良いお友達と一緒にいきたいからと水泳を始めた。
そして3か月で辞めた。
理由はそのお友達が辞めたから。
花がらでフリル一杯の可愛らしい水着も、(お風呂上がりに毎日着てうっとりしていたくせに)未練なくあっさり用済みになった。
そのお友達と一緒にやれないのなら、彼女にとっては、やる意味がないそうだ。
私はその理由が理解できなかった。
水泳をやりたいかやりたくないかじゃないのか。
他人がやりたいかどうかに左右されるのか。
納得できない。
そんなとき夫にいわれた。
「あんたの考えはあんたの考え。彼女の考えは彼女のものでしょ?」
おおそうか。私とは違う人間なんだ。
自我を持ち始めた長女が、何を好み、何を嫌がるのか、どういう基準で物事を決めるのか、私は理解しようとするしかない。
彼女の人生は彼女のものだ。
後悔しても、苦しんでも、決められなくても、
「大丈夫。将来全部あなたの血や肉や骨になる。生きるのって面白いよね。」
そう伝えられるように、私は私の人生としっかり向き合いたい。
「産むか、産まないか」の質問は、50歳に近づくとされなくなるらしい。
私という人間がどういう人かではなく、「産むか、産まないか」に関心を持たれることから自由になれる日が待ち遠しい。
書き手:咀嚼紡人清濁併呑(ソシヤクツムギビトセイダクアワセノミ)
成人した後も、大人数のほうにただ流されるまま、なんとなく20年余り過ぎてしまった会社員です。
\若林理央さんの書籍が発売中!/
UMUの記事にもかつて登場してくださった若林理央さんの書籍『母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド』が発売中です。女性たちの”産まない・産めない・産みたくない”を丁寧に聞きとったインタビューと、ご自身の”産まない”を紐解くエッセイ。ぜひ、ご覧ください!
母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド(旬報社)
編集/UMU編集部