男性は「透明人間」?ジェンダー研究者・齋藤圭介さんと考える、生殖における男性の当事者性。男女が経験や思いを共に語れる社会をつくるには。<中編>

「生殖における男性の当事者性」をテーマに、多岐にわたる研究を行う岡山大学大学院准教授の齋藤圭介さん。

前編>では生殖というテーマにおいて、その存在をあまり示してこなかった男性についての考察と、ご自身の研究の原点について話していただきました。

前中後編3本立てでお送りする、今回の<中編>では、生殖にまつわる議論において男性が不在となってきた歴史的背景や社会の変化、それを乗り越えて男女ともに語り合える社会をどうつくるかについて伺います。

齋藤 圭介/Keisuke Saito
社会学者。1981年、神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。東京大学大学院医学系研究科(医療倫理学分野)特任研究員等を経て、現在、岡山大学大学院学術研究院社会文化科学学域(文)准教授。専門はジェンダー研究、社会学。


  男性は透明人間に「されてきた」?「なってきた」?

―育児のなかで主体的な行動を制限されたり、取り上げられてしまったりする経験をもつ男性は確かにいるのではと思います。男性が身体的に妊娠・出産を経験できないということのほかに、男性が生殖において当事者性をもつことを難しくしている要因には何があるとお考えですか?

男性が生殖において当事者性をもつことの難しさには、歴史や社会的な構造が大きく関わっていると考えています。

男女の生殖機能の違い、つまり、自分のお腹の中で子を育むことも、出産をすることも、出産後に自分の乳房で授乳をすることも、全て身体的に女性である人しかできないということを根拠に、生殖にまつわる経験は女性に特有のものだと考えられてきました。

だからこそ、生殖の過程における決定や選択の権利は身体上の変化や負担を受け入れる当事者である女性がもつべきだとして、RHR(リプロダクティブ・ヘルスアンドライツ)という言葉で、女性の生殖にまつわる自己決定を尊重する考え方が広く共有されています。

RHRが強調される背景には、これまで日本では、生殖にまつわる自己決定が女性に認められていなかったという事実があるのです。たとえば、中絶に関する歴史を紐解いてみましょう。

1869年に明治政府によって堕胎禁止令が出されたところから議論は始まります。その後、1880年に旧刑法で堕胎罪が規定されてから、中絶は刑法上の犯罪行為となりました。1907年に新刑法に改定されたときも、堕胎罪はそのまま残りました。中絶が条件付きで認められるようになったのは、戦後1948年制定の優生保護法ができてからです。年間10万件以上の中絶手術が行われているため誤解している方も多いので強調したいのですが、2024年現在も、中絶はいまだに刑法上の犯罪です。

したがって、ロジックとしては、現在でも原則犯罪だが、母体保護法(旧・優生保護法)に定める要件を満たす場合のみ認める(違法性を阻却する)というかたちです。

戦争中は「産めよ殖やせよ」と人口を増やす政策で出産が奨励され、中絶を厳しく取り締まることで、妊娠したら子どもを産むしかない方向に政府が誘導して出生数の増加を目指しました。

しかし、戦後は状況が一変します。乏しい避妊の知識や、かなりの数にのぼった戦地からの帰還兵・引揚者により人口が急激に増えたことで、また強姦による混血児への対応などにも迫られ、国は180度方針を転換させて中絶を認め、人口の急激な増加を抑え込み、管理をする方向に舵を切ったのです。

こうしたことを振り返ると、妊娠・出産の当事者である女性ではない誰かが、中絶を介して、女性の身体とセクシュアリティを管理しようと画策してきた歴史があったのだといえます。国や政府が専制的な権力を駆使し、ある意味「家父長的に」生殖における女性の自己決定権をコントロールしてきたといえるのです。

だからこそ、現代において、国や社会(法制度)を含む他者はもちろん、パートナーである男性でさえも、生殖における女性の自己決定に干渉することは、女性の権利を軽視した「家父長的な介入である」という批判を受けることになります。

生殖に男性が口を出すことは家父長的介入であり、悪しき事だと考えられてきたといえます。ありていにいえば、男性は生殖に口を出すな、女の問題に口を挟むな、というわけです。生殖は女性特有の経験と考えられてきたので、男性の生殖経験なんて語義矛盾であり、男性の生殖経験なんてものは存在すらしないと考えられてきたといえるわけです。

一方、「家父長的な介入」という批判を受けて、男性が関与の度合いを下げたり、そもそも関与しなくなると、「男性は生殖に無関心もしくは無責任である」と、また別の方向からの批判を男性は受けることになります。

このように、生殖の議論における男性の存在は、女性の自己決定に不当に介入する家父長制の悪しき権化や象徴としてとらえられるか、そうでなければ、意思を持たない・持つべきではない透明人間として扱われてきたということができます。透明人間として扱われるということは、生殖に関わる男性の存在が不可視化・周縁化されるということです。

男性が当事者意識をもったらもったで「余計な口出しをするな!」などと批判され、もたなかったらもたなかったで「無責任だ!」と批判される。男性は、ではどうすりゃいいんだい、という気持ちになってしまうのも致し方ない部分もあるような気がします。

こうした八方ふさがりの状況においては、男性が当事者意識をもつことは非常に難しくなってしまうのも理解できるところです。

ー齋藤さんご自身は、パートナーと妊娠・出産・育児を経験する中で、男性の当事者性を奪うものに関して、感じていることはありますか。

妻が妊娠中、私は通院の同行などを欠かすことなく一通り経験したのですが、基本的にあらゆる制度やサービスの対象者は母親が前提であると感じましたね。もちろん、医療的な場面においては妊婦が主役であるのは当たり前なのですが、そうではない場面、たとえば市役所での出産後の手続きの説明の場や保育園の入園説明会などでも、母親を前提とした制度設計になっているなと強く感じていました。

私が経験した印象的なエピソードとしては2つあります。

1つは、当時0歳だった子どもを私が一人で病院に連れていった際、子どもの症状を伝えると、カルテに「父親の発言」というメモとともに症状が記録されたことがありました。おそらく付き添いが母親だった場合には、わざわざ「母親の発言」とは書かれないのではないでしょうか。

付き添いが父親の場合にそうしたメモが書かれるのは、医師が父親のことを、子どもの普段の様子を知らない親である、ととらえているのだろうと感じました。その後、この子の付き添いには毎回父親が来ているぞ、とわかってもらってからは、そうしたメモはなくなりました。

もう1つは、休日の出先で子どもが私に懐いていると、「普段仕事で会えないから休日はパパに甘えているんだねえ」と話しかけられることがあります。子どもへの私の対応の一挙手一投足が、母親には到底及ばない、子育てに慣れていない父親の所作として解釈されてしまい、そのまま話が続くことが何度かありました。いやいやいや、普段からうちは父親が子育て担当なんだけど…と思いながらも笑ってやり過ごすしかありませんが…。

おそらくこうした経験は私一人だけではなくて、育児に主体的に取り組んでいる男性たちは多かれ少なかれ経験していることではないでしょうか。男性たちはこんなふうに、「あなたは親として二番手だよ」というような扱いを、無意識のうちに受けているんじゃないかと感じることも多いです。

育児について母親が一番手、父親は二番手という考え方は、育児をする父親への冷遇だという話にとどまりません。女性の高学歴化や共働き世帯の増加を踏まえれば、周知の事実として、カップル間で夫よりも妻のほうが高級取りで、激務の仕事をしていることも当然あるでしょう。カップル間で育児に関われるほうが関わればよいのであって、母親一番父親二番という考え方は、育児に全面的に関われないそうした女性にたいしても、ダメな母親という烙印を押しがちですので、誰にとっても幸せな考え方ではないと思います。

ー社会全体が男性を「二番手の親」扱いをすることで、当事者性を奪っていることがあるのですね。本人だけでなく、親子と接する周囲の人々の意識の変容も必要だと感じます。

その通りですね。しかし、周囲の人々だけでなく、もちろん男性本人の意識も大切です。

先ほど、「男性が透明人間にされてきた」ことについて話しましたが、一方では、男性自身が「透明人間に積極的になってきた」ということも事実としてあるんです。これはつまり、生殖のことは「1から100まで全て女性の問題にしてしまいたい男性もいる」ということです。

透明人間として言葉を封じられてしまい不満を感じる男性もいれば、透明人間だから考えなくていいんだ、ラッキー!ととらえる男性もいるわけで、その両方を見ていく必要がありますね。男性も多様であり、一枚岩ではない、といえばその通りなのですが、いざ経験的な問題を考えようとするとなかなかに難しい問題が出てきます。

たとえば、共同親権や中絶における配偶者同意をめぐる問題は、こうした難しさを多分にはらんでいます。

配偶者同意について少し述べておきます。日本では、中絶は原則禁止されていますが、母体保護法に定められた事由に該当し、かつ配偶者の同意があれば中絶手術ができることになっています。つまりそれは、配偶者同意がなければ中絶ができない、と言い換えることもできます。

配偶者同意については、妊娠の当事者である女性の自己決定権を阻害することを理由に、配偶者同意要件の撤廃を求める動きは非常に根強くあります。

法制度上、中絶の際の配偶者同意が必要なのは婚姻関係にあるカップルの場合のみで、婚姻状態でなければ配偶者同意は不要、もちろん強姦などの場合も不要です。そもそも配偶者同意自体がいらないのでは、と主張をする人々もいますし、医師のなかには、同意書のサインを書いたのは誰なのかという点までは厳密には確認をせず、あくまで形式的なものだから不要だという人もいます。

しかし一方で、やはり配偶者同意は必要だという主張もあります。その理由は主に2つです。

1つは、たとえば女性が中絶したことをもって、パートナーの男性が訴訟をおこした場合、配偶者の同意を得たという証拠を女性側および医療者(中絶を実施する母体保護指定医)側が持っていないと、女性が勝手にパートナーとのあいだにできた2人の子どもを堕胎したことになり、医療者は訴訟において圧倒的に不利な立場に置かれてしまいます。そのため、医療者にとっては、自己防衛の手段、つまり訴訟対策として必要だという声があります。

もう1つは、配偶者同意を撤廃してしまうと、男性がその妊娠・中絶の当事者であるという意識づけをする契機がなくなるということです。配偶者同意を、中絶をする前に改めて「あなたの子どもを中絶しますよ」と男性に対して確認することを求める機会だととらえると、配偶者同意をなくすということは、その確認の機会を奪うことになります。

つまり、男性の無責任さを助長してしまい、先ほどお話ししした「1から100まで全てを女性の問題にする」ことにつながるとも考えられるのです。

最終的には、女性の身体の問題ですから、当たり前ですが女性の決定がすべてだともちろん私も考えています。一方で、妊娠や中絶において、男性が蚊帳の外にいることが理想的な状況なのかどうかについては正直分かりません。

少なくともいえることは、生殖の負担を個人化せずに、社会に開いていくためには、男性たちをなんらかのかたちで生殖の議論に巻き込んでいくことが必要なのではないか、ということです。その巻き込み方、巻き込む程度について、それぞれの人の価値観に応じて議論が分岐していくのだろうと思います。

当事者の男性と女性が、生殖の喜びや負担を共有して分かち合っていこうというのであれば、そのための何らかの仕組みが必要です。いまはその仕組みがほとんどない状態であるといえます。

  男女がともに話し合い、分かち合うために具体的にできることは?

―生殖にまつわることを男女で分かち合うための仕組みというと、たとえばどのようなことが考えられるのでしょうか?

仕組みをつくるというと、男性が育児休業を取りやすくする制度づくりというようなことがイメージしやすいかもしれませんが、そうした制度だけではなく、妊娠の時点から、当事者が「この妊娠は女性だけのものではなく、私たち2人のことなんだ」としっかりと意識できるような機会を、社会の側がつくる必要があります。

私はこれまで新型出生前診断(NIPT)を用いたカップルの夫側へのインタビュー調査を共同研究者らと進めてきました。そこで、NIPTの受検について検討をした夫に話を聞いてみると、NIPTを受検するか否かの検討は、男性が当事者性をもち、考える機会を提供することにつながっていることがわかりました。

というのも、NIPTの受検の検討や診断結果を踏まえた選択にあたっては、カップルの片方だけの意思ではなく、両者がどう意思決定をするのか、という点がとても大切だからです。

受検をして結果が陽性だった時、つまり、胎児に障害があるかもしれないと分かった時に、カップルの一方は産むことを望み、一方は否定的だった場合を想定してみてください。おそらく、どちらかの希望だけを強引に通すようなことになっては、その先の2人の関係はうまくいかなくなってしまうでしょう。

そうなると、やはり2人としての意思決定が大事になります。出産後に子の養育にあたるのは両親ですから、妊娠・出産する女性だけでなく、男性も当たり前に自分のこととして考えなければなりません。

私は現在、生殖補助医療技術が男性の生殖観に与える影響について研究を進めています。研究の途上ではありますが、現在までのところ、総じて、生殖補助医療技術は男性の当事者意識を高める働きをすることが分かってきました。くわえて、晩婚化や妊活(男性不妊含む)の影響も間違いなくあり、生殖について、夫婦で話し合わなくてはならない機会が増加しています。私は、男性が生殖に向き合いはじめたこうした傾向を肯定的にみています。

このように、カップルがともに妊娠に対して考え、話し合う機会が増えることは、生殖にまつわることを男女で分かち合うための第一歩といえるのではないでしょうか。

―最近では、不妊治療中のカップルに向けたコミュニケーションアプリのようなものの開発も増えています。女性が病院で受けた検査結果が即時パートナーにも届き、前回との比較などが数値で可視化され、カップル間の議論の材料にできる…といったようなものです。こうしたツールも、男女がともに分かち合うための仕組みと言えるでしょうか。

そうですね。

近年の生殖補助医療技術(体外受精、顕微授精、胚移植などに関する医療技術)の発達は、男性が当事者として生殖に関して議論するという雰囲気の醸成に、大きな影響を与えてきたと感じています。不妊治療中のカップルに向けたコミュニケーションアプリもまさに、そうした雰囲気の醸成を促しているといえます。

今までは女性の身体の中で完結していたことが、身体の外で、つまり、検査結果の数値によって可視化されるようになることで、「この結果どう思う?」などとカップルで話し合うことができますね。

つまり、検査結果の数値は、生殖プロセスのごくごく一部とはいえ、男性がアクセスできない女性の身体のなかにだけ生じる神秘化されたものと考えられてきた生殖を、数値のかたちでみえる化したものだといえます。その結果として、男性と女性が対等に生殖に関われる機会をきわめて限定的ではありますが提供しているのだと思います。

妊娠時の胎児の状態について可視化するのはNIPTだけではありませんが、NIPTの受検を検討するだけでも、必然的に2人の間で会話が増え、妊娠の早期段階から男性が当事者性を意識するきっかけになるでしょう。「そもそも受検をするのか?」「障害がわかったらどうするか?」と、考えることになりますから。

また、そういう数値を見て、何をどう判断をするのかというところでは個人の人間性が出てくるものなので、カップルがお互いをより深く知るいい機会にもなると思います。

男性と女性がともに生殖にまつわる話ができ、一緒に考えるための仕組みをつくっていくために、まずはどのようなことからスタートするのが良いのでしょうか?

私自身は、特に若い人たちに向けて、自分の育児に関してオープンにしていくことに取り組んでいます。

私は大学の准教授という立場で実質的に1年近くの育休を取得しました。勤務する大学では、男性の准教授で長期の育休を取ったのはまだまだ珍しいケースだったようです。ちょうど、国策としても男性の育休取得を後押ししていたので、勤務先の大学でも、職場をあげて応援してくれている感じでした。

育休を長期で取るということはつまり、講義や学務はもちろんのこと、学生・院生の卒論・修論・博論指導ができないことを意味します。学生からしたら、「先生が急にいなくなっちゃった…無責任な…」ということもいえなくはありません。

子どもの頃から(!)、育休はぜったいに取るともともと決めていたこともありますが、他にも理由はあります。学生に対して「君たちもいつか育休を取りたくなったら、会社に何を言われても取っていいんだよ」と私自身が身をもって示したかったということも、育休をとった理由の一つでした。

学生たちにとって上の世代である私がこうしたアクションをとることで、将来学生たちが、「そういえば先生は、自分の卒論指導を途中までして、そこから育休取ってたな。じゃあ自分も仕事のタイミングとか過剰に気にせずに取ってもいいんじゃないか?」と思ってくれたらいいなと思っています。

最近だと、父親同士のコミュニティが出来上がっていたり、父親の経験や思いが発信されたりすることもどんどん増えてきていますね。世の中の男性たちがそれぞれの場所で取り組んでいるはずなので、その数が増えて外に伝わっていけば、社会もちょっとずつかもしれないけれどもいい方向に進むんじゃないかなと期待をしています。

取材・文/青木佑、編集/瀬名波 雅子


身体的に妊娠・出産をすることはできない男性が、生殖というテーマにおいてどのように当事者となりうるのか、男女がともに生殖について話し合い、分かち合うために必要なこととは何か、お話を伺いました。

社会的な歴史や構造によって男性の当事者性が奪われてきた面があることを前提とすると、今後、より社会全体で、男性の声を聞き、男女がともに考えていく必要があると感じます。

後編では、パートナーが妊娠中の男性固有の経験や役割について語らうことの必要性や、齋藤さんが感じている新たな「男性らしさ」、社会変化の兆しについて伺います。


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