8年間の不妊治療の終結から1ヶ月後、ご自身の治療の道のりを振り返ってくださった晶子(あきこ)さん・知誠(ともなり)さんご夫妻。まだ心が揺れ動いているはずのその時期に、なぜご夫婦でお話したいと思われたのか。
二人三脚で治療を経験してきたお二人に、妻の立場から、夫の立場から、それぞれの不妊治療への向き合い方やパートナーへの寄り添い方、治療を終える決断やその先に向けた思いを伺いました。それぞれの8年間を紐解きながら見えてきたものとはー。
治療を終えたばかりのお二人の言葉には、ありのままの揺れ動く気持ちや率直な本音、そして未来を見つめる力強さがにじんでいました。
椿本(黒田)晶子/Akiko Tsubakimoto
1985年生まれ。茨城県出身、東京都在住。ヨガ講師、イベント&PRプロデューサー。
多くの人がヨガを通して 『心身ともに健康』 を発見できるよう初心者をはじめ、子どもからシニアまで、年齢や性別関係なくヨガとマインドフルネスメディテーションのクラスを展開。現在、保護犬だった柴犬と一緒に生活を楽しんでいる。
黒田知誠/Tomonari Kuroda
1980年生まれ。兵庫県出身、東京都在住。会社員
「自然に授かるもの」と思っていた私たち
仕事も結婚生活も充実していた若い二人
―ご結婚は晶子さんが25歳、知誠さんが30歳の時でした。まだ若いお二人でしたが、当時子どもを持つことについてそれぞれどのようにお考えでしたか。
晶子 私たちは夫婦ともに広報関連の仕事していて、職場で出会い結婚しましたが、その頃は子どもについて二人で具体的な計画を話し合ったことはありませんでした。私は夫より5歳下だったこともあり、30歳までは仕事も遊びも全力で楽しみたい、という気持ちでした。
実際仕事が楽しくてまるで全エネルギーを注ぐように夢中で励みました。いずれ子どもはつくるだろうけれどまだ先でいいし、自然の流れに任せていればやがて妊娠するものだと思い込んでいたんです。
知誠 僕も同じでしたね。二人の間で子どもの話が出ることもありましたが、当時は二人の生活が充実していたのでそこに新たな家族が増える想像は具体的ではありませんでした。だからといって避妊を徹底していたわけでもなく、それでいて妊娠しないことにも特に意識を向けていなかった、というのが正直なところです。私も妻同様、子どもはやがて自然に授かるだろうと思っていました。
―「やがては子どもを授かるだろう」という思いの中には、子どもを望む気持ちもそれぞれお持ちでしたか。
知誠 今思えば当時の自分に「絶対に子どもがほしい」とか「父親になりたい」という強い気持ちがあったのかはわかりません。そのことに対して真剣に自分と向き合ったことがなかったからです。例えるなら、大学進学を自分の志のもとに決めたというよりは、それ以外の選択肢を考えたことがなかったから進学した、という感覚と似ていたかもしれません。社会人になり結婚して父親になる日がくるのが当たり前だと思い、疑問を感じていませんでした。
晶子 私も自分が子どもが欲しいのか欲しくないのかを考えるというよりは、結婚したら子どもが産まれて家族が増えていくものだ、と漠然と思っていました。子どもは祖父や祖母にも可愛がられて。そういうことが人生なんだろうなって。その角度でしか人生の在り方を見ていませんでした。

不妊治療のことを考える前。二人で楽しいことばかりしていた時期
命の危機がもたらした気づきと家族への思い
―結婚生活が6年目にさしかかり仕事もハードな日々を送る中、晶子さんは突如大腸から大量出血があって生死に関わる事態になったそうですね。どういう状況だったのでしょうか。
晶子 明確な原因はわかりませんが、心身ともに大きなストレスがあったのではないか、と医師からは伝えられました。自覚はありませんでしたが、確かに体力的にはかなり負荷がかかっていたのかもしれません。平日のハードワークに加え、週末はヨガインストラクターをしていましたから。でもどれも楽しくて多少疲れていてもなにひとつ削りたくなかったんです。
出血があったのは、社員旅行で屋久島に登り、自宅に帰ってきた日のことでした。夜中にトイレに行った際に少し痛みを感じてしばらくしたら血が出てきて、そのままバタっと倒れました。意識が無くなる前にかろうじて「助けて」と声を発したんです。たまたまその声を聞いた夫が起きてきて、血まみれで倒れている私を発見してくれました。もし発見が朝だったら出血が致死量に至っていた可能性が高かったそうです。夫は命の恩人ですね。
知誠 なにか声が聞こえた気がしてトイレに行くと妻が血まみれで倒れていました。幸い僕は緊急事態に比較的冷静でいられるタイプで、当時同居していた妻の妹を起こして、救急車を呼んでくれと頼みました。
―知誠さんはいくら冷静だったとはいえ、その時の心的ショックと不安は大きかったのではないでしょうか。
知誠 はい。特に救急で搬送されて安否がわからない中で、輸血など治療に関する承諾書にサインを求められたことには動揺しました。細かい書類を読み込んで判断を下せる状態ではないのにサインをしなければいけない。あとで取り返しのつかないことになったらどうしよう、という恐怖とそれをしないと処置が進められない状況に、気持ちが追い詰められました。
その後彼女の容体が落ち着いたことを確認し、家に戻った時にはどっと疲れが溢れ出たのを覚えています。そこから家族や彼女の近しい人たち、職場などへ連絡し状況を伝えました。
中でも彼女の親友に電話した時にはそれまでの不安と悲しみがこみあげてきて、思わず感情を抑えられませんでした。
晶子 私が親友からそれを聞いた時、私たちどちらかに何かあった時は、残された方が一人になるということを実感したんです。そしてそれをきっかけに家族を増やしたい、と考えるようになりました。子どもがいれば、仮にどちらか一人になってしまっても家族がいる、と思いました。子どもがいればその子のために生きようと思うだろうし、生きていく糧ができるはずだ、と。
―晶子さんの中で自然に任せようと思っていた妊娠への考え方に変化が起き、具体的に子どもを授かるよう頑張りたい、と思われたんですね。知誠さんはその晶子さんの変化はご存じでしたか。
知誠 その時ははっきりその思いを伝えられたわけでもなく、知りませんでしたし、僕自身は彼女の病気をきっかけに子どもを持つことに対する意識の変化が起きたわけではありませんでした。
晶子 私は、子どものいる生活を想像するようになって、それまでぼんやりと描いていた家族像の輪郭がはっきりとしていきました。日々の暮らしの中に子どもがいて、家族であちこち出かけ、それまで自由だった二人から子連れという制約の不自由さも楽しんでいる……。そうやって年を重ねていく将来を思い描くようになりました。

大腸から出血で入院していたころ
子どもを望み始めた日からの第一歩
―子どもが欲しいと具体的に思い始めたその時、晶子さんは32歳でしたね。そこからどういうステップを踏みましたか。
晶子 何から始めれば良いかわからなかったのでまずは近所の産婦人科のクリニックに行ってみたんです。恥ずかしながら当時の私は妊娠に関する知識がほぼなくて、妊娠は簡単にできると思っていました。だから、不妊治療を始めようという意識を持ってクリニックに出向いたのではなくて、このクリニックなら無痛で産めるみたいだから、ここで出産するにはどうしたらいいかのか教えてほしいという感じだったんです。
生理痛がひどくて一日中寝ているようなこともあったのに、生理周期についてさえもよくわかっていませんでした。でも、考えてみればそのこと自体が問題ですよね。なぜ、これまでの教育システムの中でこんなにも大切な知識を得る機会がなかったのだろうか、と思いました。結婚から6年ほど経つ中で自然妊娠しないことに対しても疑問を感じたことはなかったんですから。
―ではその産婦人科で不妊治療をスタートしたんですか。
晶子 具体的に不妊治療を始めるというよりは、まずはドクターの指示に従っていくつかの検査を受け、基礎体温をつけるよう指導がありました。ただ、この毎朝の検温と記録が私にはストレスで「なんで私だけ頑張ってあなたは寝てるのよ」と夫に八つ当たりしたこともあります。
知誠 僕もまだ事情がよくわからず、彼女が何をしようとしていて、自分はそのために何ができるのか、ということが掴めずにいたんです。でも毎朝の記録が負担なようだったので、まずはそれを手伝うことから始めてみました。
―晶子さんにとっては、子どもを授かるためのそのステップは一般に、女性だけですることなのか夫婦二人ですることなのかもわからず葛藤があったわけですね。
晶子 そうなんです。でも彼が基礎体温の記入を担当してくれるようになってからは、二人で取り組めるし、そうするものなんだ、という空気が私たちの間に生まれました。 私の苦手な毎日のルーティンを少しでも楽しくできるようにと手作りのお薬チェック帳も作ってくれて。ゲーム感覚で明るく取り組めるよう気遣ってくれた夫には本当に感謝しています。
そして不妊治療について調べる中で、専門のクリニックにかかりたいと考え、家から通いやすい不妊治療を専門にしているクリニックに行きました。

手作りのお薬チェック帳
流産から始まる不妊治療
喜びからの転落―悲しみと夫への感謝
―ではその専門クリニックで不妊治療が始まったのですね。
晶子 それがそのクリニックでの初回受診の時、採血で妊娠反応が出たんです。想定外の展開でしたが嬉しかったです。喜んですぐに彼がマタニティ雑誌を買いました。
知誠 治療開始の矢先に妊娠したことがわかったのでつい僕も妊娠を安易に考えて「ほら、すぐできたね!」と喜びました。
晶子 その後の日々は妊娠した喜びでいっぱいでした。ところがある時少し出血したんです。すぐに検索すると「流産」という言葉が目に飛び込んできました。本当にそんなことが起きるのか、とショックが大きくて……。クリニックで心拍確認ができず、流産と診断された時には絶望しました。
知誠 自分たちにもこんなことがあるのか、と衝撃が大きくて、すぐに受け止めるのは難しかったです。流産の適切な後処理のために、別の病院へ向かったのですが、まさか初めて夫婦で一緒に訪れる産婦人科がそんな形になるとは思ってもみなかったので、二人ともただ呆然としたままタクシーに乗りこみました。
ただ、この流産の経験を自分たちらしく終われたことが救いでした。というのも、流産の手術をせずに、お腹に残った組織が自然に排出されるのを待つことになり、細胞検査用に排出したものを採取して産婦人科に提出するよう言われていました。だから、妻にその兆候が見えた時、私はすごく複雑な気持ちでお箸とビニール袋を手にトイレの外で待機していたんですね。
トイレに入った妻から呼ばれて、いざ便器の中にある赤い塊を取ろうとした時に、トイレの自動洗浄機能がピッ♪と作動してそれが渦を描いて流れていってしまったんです。ゴーっと音を立てながら……。それを見たら、なんというかもう気持ちはスッキリ諦めざるを得ない状況になったというか……。
晶子 そうなんです。このことを私たちらしいね、と笑った彼を見て「あ、この人と結婚してよかったな」と思いました。流産への感じ方は様々だと思いますが、少なくとも私たち夫婦にとっては、 悲しさだけの記憶にしないように笑ってくれた、と。

流産後のクリスマス
体外受精の選択と挑戦
―知誠さんが笑ってくれたことが気持ちを切り替えるきっかけになったんですね。
晶子 もちろん悲しみや喪失感はすぐに消えるわけではなかったのですが、夫の明るさに救われたのは事実です。この流産後、不妊治療の方法を改めて考えました。
以前の検査で私のAMH数値(※)が非常に低かったことから、私に必要なのは体外受精ではないかと思ったんです。そして体外受精の実績豊富なクリニックに通うため、いくつかの説明会に参加した上で、高刺激によって最短で妊娠を目指すことを方針としているクリニックへの転院を決めました。
※ AMH数値:卵子がどの程度残っているかを推測する指標
―体外受精を選択することについてお二人でどういった話し合いをされたのでしょう。
知誠 説明会に参加するまでは正直、人工授精と体外受精の違いについてもよくわかっていませんでした。詳細を知ってはじめて、それぞれの内容の違いに驚くと同時に、自分たちにとっては最初から体外受精をした方が良いのでは、と感じました。お金もかかることだからこそ、確率の高いものを選択したい、と僕は合理的に考えたんです。
転院を決めたクリニックが、いくつかの選択肢に対してそれぞれかかる費用と得られる結果のパーセンテージを細かく示してくれたことも有り難かったです。
妻も短期間で妊娠したいという希望があったので、二人の中ではすぐに体外受精に挑戦することがベストだと考えました。
―男性側が冷静に数字から分析してともに考えてくれるのはとても心強いですね。とはいえ、一度晶子さんたちは自然妊娠をされています。自然妊娠ができるかもしれない、という可能性に期待する気持ちはありませんでしたか。
晶子 私はAMH検査の当時、年齢の平均値を大きく下回る閉経時に近い数値だとドクターから言われたことで、自然妊娠はもう難しい、あの妊娠は奇跡だったんだ、と思い込んでいました。だから早く体外受精をしなきゃ、と焦る気持ちの方が強かったです。
ただ、治療開始とほぼ同時に新型コロナの感染拡大が始まって、緊急事態宣言が発令されて通院も簡単なことではなくなってしまいました……。さらには、高刺激法が私の体と合っていなかったのか、1ヶ月生理が止まらないということが起きて怖くなってしまって、再転院することにしたんです。夫も、不安要素を抱えたままではうまくいかないだろうから、と賛成してくれました。

京都の子宝神社に行くなど、いろいろなことに取り組みました
無力さの苦悩ー夫の立場からみた不妊治療
―お話を伺っていると二人三脚で不妊治療に向き合っていることが伝わってきます。知誠さん自身も不妊治療の事前知識がほぼゼロからのスタートだったわけですが、知誠さんにも少なからず心身への負担があったのではないでしょうか。
知誠 その点は問題ありませんでした。僕たちに関しては、どちらかというと男性の負担の方は非常に少ない領域だと感じました。通院も含めて妻が抱える負担がほとんどでした。不妊治療では、自分は無力だと感じるばかりで、だからこそ、知識をつけたり、女性の体の仕組みや治療について学び理解する、といったことしかできませんでした。
僕もそうだったように、妻への寄り添い方で悩まれてる男性は多いのかもしれないです。毎月、“結果発表”の日があって、その時がしんどかったですね。まるで“落選しました“ という通知のように、生理がきた時が彼女の精神状態は一番不安定になりました。毎月「またこの時が来たか」と私もだんだん憂鬱になっていたかもしれません。彼女がショックを受け続けていることがつらかったです。
女性はただでさえ治療によってホルモンバランスも普段と違う状態の中で、さらにこうして気持ちの浮き沈みが激しくなってしまうというのは本人はもちろん大変だと思いますし、妻のしんどさは夫にとっても辛いことです。それなのに、男性の自分ができることはほとんどない、というのはやりきれない気持ちになります。
―男性はなかなか周りに相談したり発散したりしづらいことも多く、一人で葛藤を抱えているケースも少なくないのかもしれません。同時に男性側だって、奥さんの生理が来れば自分にとっても子どもを授かる機会を失ったことになるわけで、その悲しみもあるはずですよね。
知誠 ありますよね。男性同士でそういった気持ちを実際に話す機会は少ないですが。
それに何気ない会話の中で「お子さんは?」と聞かれることも多いですが、咄嗟にうまく答えられない時期というのはあるんです。
―晶子さんは当時、そんな知誠さんに対して何を感じていましたか。
晶子 夫の葛藤をよそに、私は自分の感情をぶつけていました。「なんで私ばかりが頑張っているの?」とか、「本当は私の問題じゃなくて何か他に問題があるんじゃない?」とか。私のストレスが原因による喧嘩は数回ありましたね。
知誠 確かに不妊治療をしていなければ起きなかったであろう喧嘩はありました。ただ、それを通して価値観のすり合わせというか、どこで妥協するか、という点は二人で調整してきたと思います。
治療期間が長くなるにつれて、先が見えなくなることもありました。そんな時彼女が「少し休みたいな」と言うこともあって、その時はもちろん休憩したければした方がいい、と背中を押しました。

友人の結婚式をふたりでつくった思い出。
取材・文/タカセニナ、編集/青木 佑、写真/本人提供、協力/藤岡 麻美
子どもは自然に授かれると信じていてた知誠さんと晶子さん。しかし晶子さんが命の危機に直面したことをきっかけに、自然に任せるのではなく、子どもを授かるための不妊治療を選択しました。この<前編>では二人三脚で不妊治療に取り組む中で、ご夫婦がそれぞれの立場から抱えていた思いを率直に語ってくださいました。
続く<後編>では8年続いた不妊治療の終結を決めるまでの気持ちの変化と、終結を決断して見えてきたものを、揺れる気持ちとともにお話しいただきました。治療終結直後に語られるお二人の本音とはー。
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