日本初となる「現在・過去・未来の不妊体験者」支援団体のファウンダーとして、十数年にわたり先頭を走ってきた、松本亜樹子さん。トップランナーの重責を長年担ってきた彼女に、今回お聞かせいただいたのは「個としてのご自身の現在・過去・未来」について。松本さんはどんな想いで、治療と向き合ってきたのか。いつも華やかで凛とした彼女の、他では語られてこなかったプライベートの話も含め、その半生のストーリーをひも解きます。
松本 亜樹子 / Akiko Matsumoto NPO法人Fine理事長、一般社団法人 日本支援対話学会理事
長崎市生まれ。不妊の経験を活かして友人と共著で本を出版。それをきっかけにNPO法人Fine(~現在・過去・未来の不妊体験者を支援する会~)を立ち上げる。Fineは長年の功績を称えられ、「平成30年度内閣府女性チャレンジ支援賞」、「平成28年度東京都女性活躍大賞優秀賞」を受賞。活動としては、厚生労働省への各種要望書の提出⇒認可を多数実現しているほか、「不妊ピア・カウンセラー養成講座」や患者体験を踏まえた講演・講義、患者ニーズを広く集める調査を継続的に実施・広報するなど、不妊や妊活の啓発に努めている。
自身はNPO法人設立当初より理事長として従事しながら、人材育成トレーナー/コーチ(国際コーチ連盟認定プロフェッショナルサーティファイドコーチ、米国Gallup社認定ストレングス・コーチ、アンガーマネジメントコンサルタント)としても活動している。
著書に『不妊治療のやめどき』(WAVE出版)、『ひとりじゃないよ!不妊治療』(角川書店)など。
「いつかは妊娠できる」と思っていた不妊治療初期
いつのまにか不妊治療のレールに乗っていた
― まず冒頭に、松本さんご自身が「不妊」というテーマと向き合うことになる、当初の話から伺っていきたいと思います。不妊治療を始める最初のきっかけは何でしたか。
結婚前から生理不順があり、婦人科に時折通っていました。結婚を意識した30歳手前のころ、「子どもをもちたいけど大丈夫かしら」と気になり、ちゃんと婦人科に行ってみようかなと。
そうしたら、いつのまにかなし崩し的に治療が始まりました。基礎体温をつけて、ホルモン値を測定して生理を整えるようにと先生にいわれて。気がついたら不妊治療のレールに乗っていたという感じです。
ただ、すぐ子どもがほしいと思っていたので、治療を始めることにためらいはなかったですね。体力があるうちに子育てをしたいと思っていましたし。
「病院に通えば、すぐに妊娠できる。いつなのかはわからないけれど、さほど時間はかからないはず」と考えていました。
子どもがいる人生が、デフォルトだった
― 当時、旦那さんとは子どもをもつことに関して、どんな会話をされていましたか。
子どもの話はよくしていたんです。そのときすでに、子どもは1年おきに3人欲しいと思っていました。子どもがいる人生がデフォルトだったんですよね。
夫は男兄弟、私は女姉妹で育ってきたので、「男、女どちらもほしいね」って。「男の子ならこんな名前をつけよう」とか、「こんな習い事をするのもいいね」とか。普段から二人でシミュレーションしていました。
― 旦那さんとそんなお話をできる関係性を築けていたというのが、素晴らしいことだなと思います。
私がコーチをしていたこともあり、夫婦でのビジョンの共有を大事にしていたんです。
夫に「子どもはほしい?」と直接聞いたことはありませんが、二人で子どものいる将来の話ばかりしていたので、二人とも、子どもがいる人生が当然のことと考えていたと思います。
当時はいまと違って、不妊専門クリニックなどもあまり多くない時代。引っ越しをきっかけに、タイミング法のときから転院することになり、新しい土地で病院を探すのは大変でした。結局、婦人科がある大学病院に通うことに。
待合室ではお腹が大きくなった妊婦さんと一緒になるのですが、なかには、そうではなさそうな女性もいました。もちろん確かめたわけではありませんが、なんとなく「あの人も不妊治療中なのかな」と、ある種、同志のように感じることもありましたね。
掲示板の衝撃的な書き込みで知った真実
「どうか私のようにならないで」
― 不妊治療を進めるなかで、不安や葛藤を抱くようなことはありましたか。
「いつかは妊娠できるはず」「この『いつか』は必ずくる」と信じつつも、年月がたつともどかしい気持ちが募りました。治療は先が見えない上に、ステージが進むにつれてお金もかかるし……。
いまでこそ不妊に関する情報はあふれていますが、当時は病院ごとの妊娠率などの情報も、いま以上に公開されていない状況でした。私としては自然な妊娠へのこだわりもないし、とにかく不妊治療を続けながら、精一杯情報収集をして、出産というゴールへの近道を探していました。
そんなとき、衝撃的な出来事が起きたんです。
30歳で不妊治療をはじめて、4、5年が経った頃でしょうか。体外受精のステップに入った頃、妊娠したい人向けの掲示板で、ある書き込みを見つけました。
その内容は、「不妊治療の末、子どもを授からずに治療をやめました」というものでした。長年治療を続け、生活費を切り詰めてすべてを治療費につぎこみ、心身ともに疲れ果てて、貯金も底をつきてしまったというのです。
その方は、「治療を最優先させてきたので、家や車を買うどころか、旅行も行ったことはなく、下着一枚買うのも我慢をしたりしていた。新婚当時の安いアパートから引っ越すこともかなわず、飼いたかった犬も飼えません」と自分の状況をつづってくれたのです。
そして書き込みの最後は、こう締めくくられていました。
「これを投稿するのはかなり迷いました。けれど、私のような人もいることを伝えておいた方が良いと思って思い切って書き込みをしました。みなさんは、どうか私のようにはならないでくださいね」と。
基本的にその掲示板は、妊娠を目指して情報交換をしたり、思いを共有したり、励ましあったりする場でした。
もちろんこれまでにも、「流産をしてしまった」などという悲しい書き込みもありましたが、その後子どもを授かったという報告があったので、私も「諦めずに努力を続けさえすれば、みんないつかは必ず妊娠できる」としか思っていなかったんです。
ただ、いま思うと、治療したけれども子どもを授からなかった人は、掲示板に何も書き込まずにフェードアウトしていたんでしょうね。
治療をしても妊娠できないこともある、という現実
― その書き込みを読まれて、松本さんは当時どのような感想をもちましたか。
あの時のことはいまでも鮮明に覚えています。あまりにも身につまされる書き込みで……。
勇気をもってみんなのためにと書き込んでくれた彼女の気持ちを考えるとたまらなくなって、パソコンの画面を見ながら涙がとまりませんでした。
また、「治療をしても妊娠できない人もいる」と、そんなことはこれまで一度も考えたことがなかったので、びっくりしたというか、愕然としました。
みんなが出産できるわけではないんだ。もしかしたら私も、妊娠しない側の一人になってしまうかもしれない……。この現実を突きつけられたような気がして、このときはじめて、人生の迷子になったような不安をおぼえました。
それでも、治療をやめるという選択をすることもできず、そのまま淡々と治療を続けていきました。
実はその後、この書き込みは、「みんなが頑張っているのに、水を差すような発言をした」と、他の利用者から非難の的になってしまうのですが……。
当時の私にとって、この掲示板は唯一リアルな不妊に悩む仲間たちの心のよりどころでしたし、なかなかこうした現実を知らせてくれる人はいなかったので、勇気を出してこの書き込みをしてくれた彼女は、私にとっては恩人のような存在だといまでも思っています。
「子どもがいる人生」の可能性を失うことへの怖さ
― 書き込みを読まれたことをきっかけに、その後、松本さんの心境の変化のようなものはありましたか。
ありましたね。やみくもに突っ走って、ズルズルと治療を続けるのではなく、もしかしたら自分で線引きをしなきゃいけないのかもしれない、と思うようになりました。不妊治療はお金もかかりますし、一生続けられるものではない。だからどこかで区切りをつけなくてはいけない、と。
ただ、不妊治療を「やめる」と決めることは、その先にある「子どもがいる人生」の可能性を、完全に自ら断ってしまうことでもある。いままで子どもがいる人生しか想像してこなかったので、それ以外の人生が想像もつかず、意思決定はなかなかできませんでした。
じゃあ線引きのタイミングってどんなときなんだろう? そう思って、私と似た立場にいた友人たちにきいてみたら、タイミングは人によってさまざまでした。貯金がなくなった、年齢、治療回数、心身の状態が治療に適さなくなった、病院の転院の回数というように。
体力的な面が線引きになることは多かったですね。「卵が採れなくなったから」という事情で、仕方なく治療からフェードアウトするケースもよく聞きました。
いずれも自分でやめる、あるいはやめざるを得なくなるタイミングをそれぞれ見つけていくような感じだったかもしれません。
いまでは40歳で不妊治療をスタートさせようとする人が、ドクターから「若いうちにきてくれてありがとう」と言われる、という話も聞くことがあるくらいですが、以前は40歳を過ぎてから治療を始めることは今ほど一般的ではありませんでした。
もちろん、以前と比べるといまのほうが技術が進み、治療できる期間や治療の選択肢も広い。でも、だからこそ、治療のやめどきを決めるのは難しくなっているのかもしれません。
― それから、どんな心境の変遷をたどったのでしょうか。
不安をいったん打ち消したものの先が見えない。貯金を切り崩していくしかない。そういう心境でした。
先ほども触れたように、私は30代のうちに3人子どもが欲しいと思っていたのですが、思い描いていた家族像と現実がかけ離れていくにつれ、自分のなかでシフトチェンジが必要だと感じるようになって、いったん自分のことを俯瞰してみたんです。
自分が60歳になった頃、どんな夫婦でいたいだろうかって。
すると、たとえば30代で子どもを産んだとしても、60代になった頃には子どもも巣立っていて、夫婦二人の生活になっている可能性が高いよねと。じゃあ、子どもがいようといまいと、60代、70代の夫婦の姿は大きく変わらないんじゃないか。
そんなことも少しずつ、夫と話すようになりました。
自分を俯瞰してみるってなかなか難しいのですが、私がコーチとしての経験を積み、コーチの視点を得ていたことがよかったのかもしれません。
治療をやめると決意。大丈夫だと思っていたのに、涙がとまらない夜が続いた
― 治療をやめると決めるまで、周囲からは想像できないような葛藤や迷いがあったのではないかと思います。実際に決断したときはどうでしたか。
治療の区切りをつけたときは、意外と大丈夫でした。最後の凍結胚を子宮に戻した時「ダメだったら、これで最後にしようね」と、夫とも話していたんです。
病院に結果を聞きにいって、先生から無理だったといわれて。
帰宅後夫にそれを伝えると、そっか…。と受け止めてくれました。私自身も次の日から仕事があったこともあり、悲しみに明け暮れることもなく普段通り過ごせていたんです。
ですが、夜になって、悲しいとかつらいとかではなく、勝手に涙がボロボロ流れてきて。
大丈夫だと思っていたのに、とにかく涙がとまらない。こんな夜がしばらく続きました。
見るに見かねた夫が、「そんなにつらいなら病院に行って、治療をもう一度やってみてもいいんじゃない?」と声をかけてくれて。でも私は「やめるのもつらいけど、また治療するのもつらいの!」とさらに泣いて……。
夫からしたら、そうとう面倒くさかったと思います(笑)。
取材・文 / 松尾 美里、写真 / 根津 千尋
子どもがいる未来がデフォルト。いつかは妊娠できる、そう信じて疑わなかった松本さんに、ある掲示板の書き込みから訪れた心境の変化。このあとに続く<後編>では、涙にくれる日々から解放してくれた“休憩中”という捉え方や、そこからの気持ちの変遷。そして、治療経験を通して感じる“パートナーシップの理想像”や、つくりたい社会のことについて、お聞きしていきます。
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