「治療のやめ時」の、タイムリミットが迫る。この6年、松本藤子さん・岡本尚之さん夫婦の人生は不妊治療とともにあった。長い治療生活を過ごし、最後の希望も尽きかけているふたりの間には、それでもなお、一筋の光が確かに灯っている。この<後編>では、過ぎた6年の月日を回想しながら、ふたりの「いま」の想いと、「これから」のことについて、お話を伺う。
松本 藤子 / Fujiko Matsumoto(妻) 1970年生まれ。武蔵野音楽大学音楽学部有鍵楽器ピアノ専攻卒業後、ミュージックカレッジメーザー・ハウスコンピューターミュージック&キーボード科、メーザーボーカルハウスでクラシック音楽以外を学ぶ。バンド活動の他、音楽制作や幼児音楽教育などに携わる。現在はボイストレーナーとして活動している。
岡本 尚之 / Naoyuki Okamoto(夫) 1969年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、ミュージックカレッジメーザー・ハウスエレクトリックベース科に入る。バンド活動後、夫婦で音楽ユニット「じゃじゃと十八(じゅっぱち)」として活動。
夫のために、という想い
夫側の気持ち
― 夫婦ふたりで治療に取り組んできたことがよく分かりますし、特に岡本さんのために、という気持ちが強い印象を受けます。
藤子 それは、私は強いですね。
岡本 うん、そうですね。だけど本当に男性は関われる部分が少ないんですよ。もっと色々と関われたら感じ取れることもあるんだろうけど、知らないところで知らないことが行われている感じがして、ピンと来ないんです。
結果だけを見せられて、あー、そうか、ってなると、それ以上語りようがない。病院でも、診察室に一緒に入ってエコーが見られるとか、もうちょっとなんとかならないかなって。
あとは、自分と違う身体のことだから、本当にどうしようもない。その都度、身体の状態がどうなのかは気になるんだけど。
藤子 初めて移植した頃なんて、「どう? 身体何か変わってる?」って毎日聞くの!変わんないよ、何にもー!みたいな(笑)。
岡本 ちょっとした変化とか、どうなのかなって。卵胞が育っているのはどんな感じなのかな、とか、今でも思うかな。
卵子が順調にできていくのならまた違うんだろうけど、いまは卵子ができない状況なので、その現実を受け入れていくしかないなあという感覚です。その中で、できることをやるしかないのかなと。
私はなんで頑張れるんだろう
― でも、いくら旦那さんの想いが分かっているからといえ、よくここまで長年続けてこられたなと、率直な感想として思うのですが。心が折れそうになることはありませんでしたか。
藤子 ありますね。
岡本 でも僕的には、後悔したくないというのが一番にあって。やれるところまでやらずに途中でやめたら、後で、あの時もうちょっとやっておけばと思うかもしれない。
藤子 私は、なんで頑張れるんだろう。なんで頑張っているのかなあ……。自分としては、純粋に、妊娠・出産がしてみたかったんですよ。お腹の中で細胞分裂が繰り返されて、それがヒトになってきて、産道から出てくるってすごいこと。それを体験してみたい、っていう。
それが願っても体験できないで、自分の人生が終わるんだと思った時、私はきっと落胆というより、うーん……って、複雑な気持ちになるんだろうなって。
ただ、夫のことを考えた時、一人っ子だったので本当はきょうだいが欲しかったんだよね。もう義父は亡くなって義母ひとりだし、やっぱり子ども、欲しいよね……。
岡本 まあ、僕の場合、血縁をつなぐという意味ではなく、自分の子どもが欲しい、彼女との子どもが欲しい、そんな感覚かな。
藤子 ある日、私ももっと若い頃に、どうしても子どもを授かる可能性が低いことが判っていたら、姉から卵子提供を受けてもいいかと思ったかもしれないって、“もしも”の話で言ったら、彼、「それはあり得ない」って、一刀両断で(笑)。
「藤子の卵子と僕の精子じゃなきゃ意味ないじゃん!」って。
岡本 僕は昔から子どもが好きだし、一人っ子だったから家族は多い方がいいって思いがあった。だから、やっぱり子どもが欲しいという気持ちは未だにすごく強い。それが叶わないというのは、なかなかしんどいところはありますね。
あとは治療の中で僕が一番つらかったのが、「なんでダメなのか分からない」ということ。原因が分からない中で色々と考えてしまうのは、すごくつらい。だから染色体の検査結果が出たのは、実はひとつの救いではありました。これが原因の一つでダメだったんだというのが分かって、個人的には、少し楽になったというか。
やっぱり「血を分けた我が子」を持ってみたい
― 岡本さんは、色んな選択肢の中から選びながら生きてきた人だとおっしゃっていましたが、子どもを持つことを優先するなら、他にも取りうる選択肢があるように思うのですが、そうならないのはなぜでしょう。
藤子 いい質問ですね、って思った(笑)。
岡本 なんだろう……。たとえば仮に、違う卵子を持ってきたとして、やはり僕にとっては、そこには絶対的に「違う」という事実があるので。いわゆる“自分の子ども”というのとは違う感覚に、あくまで僕の場合は、なるんじゃないかと思うんです。それはそれでまた、考えてしまうので。
里親や養子縁組という話もありますが、自分の遺伝子が入っていない子に対してどういう対応ができるのかなというのが、僕の場合はよく分からないというのが、正直なところなんです。
たぶん、それなりに育てられるとは思うんだけど、何かしらの感情が付け加わって生きていくかもしれないので、そこら辺がいまいち、ピンと来ないというか……。よいとも悪いとも思わないけど、ちょっと自分の中ではそこは想像できないんです。
僕としては選択肢が残っている中での、やっぱり第一優先は、ふたりの卵子と精子でやっていくことなので、そこをまずは……と思ってます。代理出産も、それは彼女の「経験してみたい」という想いからは外れるので、違うかなと。
夫の気持ちにまったく気づかなかった自分
藤子 私たちは23歳と24歳で同棲を始めて、12年間籍を入れずに過ごしてきたんです。お互い音楽活動をしてきた中で、昔は女性は結婚したら音楽を辞めるみたいな、尖った風潮の時代もあった。
でも私は音楽を突きつめてやっていきたかったし、やっぱり成功したかった。才能にあふれていて早くに大成するタイプではなかったから、ここまで来るのにすごく時間がかかってしまったけど。そんなこともあって、これまで「子どもを持つ」ということに、意識が向かなかったんですね。
岡本 籍を入れなくても別に何も変わらないじゃん、とも言ってたよね。確かにそうだなって僕も思ってたんで、変わることがあるまではそのままで、と思っていたんだけど、そろそろ籍を入れた方がいいかなっていうのは、僕から言ったんだよね。
藤子 最初、なんで?って聞いちゃったもんね(笑)。
岡本 そろそろちゃんとしておいた方がいいのかなっていうのは、思ってて。
藤子 それにまったく気づいてなかった、というくらい、30代前半までは、自分のことで精いっぱいだったんですよ。自分以外のことに意識を向けたり、気にかけてあげたりということができるような人間では、サラサラございませんでしたので……。
だから彼が、まさか、私がいいよって言うまでじっと待ってるなんて思ってなかったから、子どもが欲しかったと聞いた時に、なんでもっとはやし立てて、おしりを叩いてくれなかったの!? こんな歳になっちゃったじゃん!って、言ったよね(笑)。
そしたら、「藤子のことだし、藤子が産もうと思わないと……」って。ヤバい、あたし、全然人のこと考えて生きてなかった……って、相当落ち込みましたね。
岡本 でも、言っても変わんないでしょ。
藤子 言っても変わらないのは知ってるけど(笑)、言ってくれなかったことを責めてるんじゃなくて、そこに気づかなかった自分がね……。40歳も手前になってやっと気づいたという自己嫌悪の気持ちが、結構ありました。
本当に自分のことしか考えずに、一番愛する、隣にいる人がどういう気持ちでいたのか、つゆほども考えずに、生きてきてしまったんだなって。
お金のこともあって、いま彼は家庭教師の仕事もしてるんですが、多くの家庭を見ているので、親子関係で何が大事なのかということを、色々と感じるみたいなんです。そういうのを聞くと、この人が父親になったら、どんな風になるんだろうって、それを見てみたい気がしてくるんです。
ただそれを、させてあげられないかもしれないということが、気がかりで。
不妊治療の終焉を迎える時に、私はきっと、一度爆発すると思います。私にとって、そして私たち夫婦にとっては、号泣して謝らないと、次のふたりの人生に進めない気がしてるので。
欲しい人みんなに赤ちゃんが来ればいい
誰かと比べるのをやめて、みんなが幸せになることを考えた
藤子 私が治療している間に友人たちが妊娠、出産していくのを見て、最初の頃は気持ちが波立つこともありました。世の中って不公平だなって思ったりもしたけど、しょうがないですよね。みんな欲しいから治療しているわけじゃない?
決定的に私の心の持ちようが変わったのは、染色体異常が分かってからかな。私は実年齢も高いし、AMHも低くて卵子が採れにくい、卵管はひとつない、それに染色体異常が加わって、自分的には最強なのよ(笑)。もう誰とも比較できないと思ってから、他人と比べるのをやめることに決めたんですよね。
妊娠8ヶ月の友人の結婚式に出席した時、私が大変な思いをして治療しているのを知っている別の友人が、「つらくない?」って声をかけてくれたんだけど、私、全然つらくなかった。
その頃にはね、欲しいと思う人、みんなのところに赤ちゃんがくればいいのに、って思うようになってた。自然であれ、治療であれ、欲しいと思うものが手に入ることほど幸せなことはないよね。それは別に、子どもじゃなくても。
たとえば、全然違う例えだけど、かつ丼が食べたいのに500円しかなくて食べられないって、そんなに悲しいことはない。かつ丼が食べたい!って思ったら、食べられるのがいいよね(笑)。
それが赤ちゃんだったら、すごい大きな話しじゃない。みんなに来ればいいって思っていたから、他人が妊娠しても、もうドロドロした黒い感情はなくて。一人でも二人でも、産んでくれる人がいたらいいという思いはあります。
未来のこと
― この先、不妊治療の結果がどうなるか、おふたりがどういう決断をするかはまだ分からないことではありますが、これだけ長く、多く、治療の経験をしてきたおふたりの未来から現在を振り返ってみたら、どんな風に考えるかな、というのを伺いたいのですが。
岡本 正直言うと、僕は目の前のことにしか焦点が合っていなくて、未来にまで目が向いていないんです。
僕、ちょうど妻が化学流産した時に、潰瘍性大腸炎という難病になってしまったんですよ。病気は確かに大変だったんだけど、不妊治療でダメだった時のしんどさから、自分の病気の方に焦点がずらせたので、それは助かったと思います。もし病気がなかったら、不妊治療の方にガーっとさらわれてしまったかもしれない。
藤子 あの時はね、もしかすると不妊治療のストレスが原因の一つだったかもしれないてことに、お互い気づいていなかったんだけどね。
岡本 でも、結果的には食事に気をつけるようになったりして。悪いことも、それをきっかけに必ずプラスになってるから。
治療の流れの中でも、大変だったけど得ているものって絶対にある。いまこうやって頑張ってやっていることは、10年経っても20年経っても、何かしら残ってると思うので、この治療の期間も、意味のある時期なんじゃないかと思います。
藤子 私も未来のことは全然考えていないんだけど。彼の友だちが脳腫瘍で、44歳で亡くなったんですよ。同世代だし、奥さんも子どももいて。
それで、治療が大変な時に思わず、私にとって「命がなくなること」と、「命そのものが生み出せないこと」、どっちがつらいのかなって、一瞬考えちゃったんですよね……。もちろん答えなんか出ないんだけど、この問いが浮かんだ時は、本当に方位磁石が狂う感じで、どこにも焦点が当てられなかった。
でもそのできごとがあってから、私、夫が明日死んでしまったらと思うだけで、涙がブワーっと出てきて。「そっか、この人が生きているから幸せなんだ。この人が明日死んでしまうよりも、つらいことはないような気がする」とも感じて。
私が命を生み出すことに一生懸命になっている時に、消えていった命があったんだ、というのがリンクしちゃって、泣けてきて。それからは、命がある限り、この人とふたりで、どちらかが死ぬまで、楽しく丁寧に生きていきたいと思うようになりました。
ホスピスで末期がんの患者の看取りもやっているシスターに、言われた言葉があります。「あなたの思い通りにはならないかもしれないけれど、でもこれから、あなたのいいように進んでいくと思います」、って。
自分がこうしたいと願うことと、自分にとってよいことというのは、もしかしたら違うのかもしれない。
もちろん思い通りになるに越したことはないのだけど、思い通りにならなくても、よいようにはなるんだというのは、本当にその通りなのかもしれないなって、いまは、思っています。
取材・文 / 矢嶋 桃子、写真 / 望月 小夜加
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