「光のない真っ暗なトンネルの中を進むようだった。」 ー 7年間に及んだ不妊治療。振り返って今思う、その日々が私にもたらしてくれたもの。

「まさか自分が不妊治療をするなんて」

 不妊治療をすることになった女性の多くがそう話します。ヘアメイクアーティストの小山田明子さんもその1人です。 小山田さんは、35歳のときに子宮筋腫が発覚。忙しいながらも健康に気を配り、体調を崩したことがほとんどなかったため、かなり衝撃的だったと言います。そして、不妊治療を7年間続けた末に、2人のお子さんを授かりました。

不妊治療について「先が見えない、暗くて長いトンネルのようだった」と話す、彼女がどんな想いで治療に向き合ってきたのか、そのストーリーをひも解きます。

小山田明子/Akiko Oyamada  多摩美術大学を卒業後すぐにフリーランスのヘアメイクとして独立。その後、カナダ・バンクーバーにあるシアターにてオペラ用のウィッグの製作に携わるなど、ヘアメイクを軸に幅広く活動してきた。現在は、自身が不妊治療を経験したことから、不妊カウンセラー、望診士として、マクロビオティックの手法を取り入れた食事指導なども行っている。 
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35歳で結婚するまで一度も立ち止まらなかった

  働きながら学び、30歳ではカナダまで

― フリーランスのヘアメイクアーティストとしてご活躍ですが、大学卒業後すぐにフリーランスになられたんですよね?

私が就活をする年は、ちょうど「女子大生の就職氷河期」と言われていて、セクハラ面接とかも本当にあるような時代でした。わたしも美術大出身なので、広告代理店とかテレビ会社の美術部とかを一応頑張って受けたりもしたんですけど、とてもじゃないけど受からなくて。

それで、どうしようかなっていうときに、学生のときにヘアメイクのアシスタントのアルバイトをしていて、すごく楽しかったのを思い出したんです。美大に行ったからって無理に就職しなくても、フリーランスで好きなヘアメイクの仕事をすればいいやって、卒業とともに独立しました。

働きながら美容室でバイトもしたし、同時に美容師の免許を取るための通信教育も受けて、「着付けのプロ」になるための学校にも行きました。わたしと同じように駆け出しだったカメラマンのお友達と一緒に作品撮りをして、いろんなところに営業に行ったりとか。今じゃ怖くてそんなことできないけど(笑)、当時は体力があったし、若いって素晴らしい!って思いますね(笑)。

― パワフルですね!かなりお忙しかったんじゃないですか?

そうですね。当時は実家に住んでいましたけど、仕事が早ければ朝早く出て、帰ってくるのも23時とか0時くらい。泊まりの仕事になれば、2週間くらい家を空けることもある。

それだけ仕事であちこち行っていたにも関わらず、スキューバダイビングにハマってしまって、インストラクターの資格も取りました(笑)。30歳になるときはカナダにも行きましたし、20代は本当に駆け抜けたって感じですね。

― カナダへはお仕事の関係で行かれたんですか?

はい。大学のときの先生に「カナダのバンフシアターに有名なウィッグメーカーの女性がいるから、あなたその人の下で働いたらいいわよ」と、勧められて。オペラで使う、モーツァルトみたいな化粧ガツラなんですけど、予算を潤沢に使ってつくれるので、せっかくの機会だから学んでみたいなと思ってカナダに飛びました。

1年目はシアターの試験に落ちてしまったんですが、「30歳までならワーホリビザでもカナダに行ける」と思って、仕事のアテもないのに勢いで行ってしまったんです。

カナダで働きながら、次の試験を待って、2年目に受かったので、そこから3年くらいカナダでカツラをつくっていました。冬はオペラのフェスティバルがないので日本に帰国して、お金を貯めて、またカツラを作りに行くというサイクルでしたね。

― 本当に、アグレッシブですね!

そうそう。若いからというのもあって、本当にアグレッシブでしたね。

 

  自分が健康だと信じて疑わなかった

ー ご病気をされたり、体を壊したりはなかったですか?

私のようにフリーランスでの仕事は特に「具合が悪いから休みます」というのは、ありえないんですよね。誰かが代わりに、というわけにいかないですから。だから、アグレッシブに動きながらも体調管理はものすごく気を付けてきたつもりだったんです。

それに自分の身体に興味があったので、20代のころから目覚まし代わりに毎朝体温を測っては「基礎体温って本当にこんなグラフになるんだ!」という感じで、自分の身体の変化を知ることを実験的に楽しんでいました(笑)。

そんな感じだったので30代になって、まさか自分に子宮筋腫が見つかるなんて、夢にも思いませんでした。

― 筋腫が発覚したのは、ブライダルチェックだったそうですね。

平たく言えば婦人科検診なんですけど、「ブライダルチェック」と言うと、花が咲きますよね(笑)。35歳のときに夫と結婚したんですが、「結婚したし、行っておくか」くらいの軽い気持ちでした。「自分には何もないだろう」と高を括って、近所の町医者に行ったんです。

そうしたら、筋腫が見つかって。そのときは「妊娠に悪さをするような場所にないですから」と言われましたし、「プロラクチン値」が少し高かったのですが、それもホルモン値を下げるための薬を飲めばいいという風には説明されたんですけど、それまで自分は健康だと思って疑っていなかったので、「わたしが筋腫? ガーン!」みたいな(笑)。衝撃的でしたね。

強い生理痛はありましたし、30歳のときに痔の手術もしているので、今思えばその兆候はあったんですけど、元気でしたし、特に疑問を持つことはなかったんですよね。でもやっぱり婦人科系の話は別だった、という感じでした。

― お子さんを産みたいという思いは元々強くあったのでしょうか?

子どもも何となく欲しいとは思っていましたけど、切望するかって言われたらそうでもなかったと思います。当時は30歳を過ぎていましたけど、自分自身が精神的に子どもだったんですよね。

わたしの夫は11歳年上なので、2人で「欲しいよねー!」とワイワイする感じでもなかったですし。でも、「この人がお父さんになったらいいな」っていうのは漠然とありましたし、夫のほうも「合わせるよ」って感じでした。

だからあまり深く考えず「余裕でしょ。避妊しなければできるでしょ。生理だってちゃんと来ているし」って思っていました。

 


不妊治療という“暗く長いトンネル”

  思うように進まなかった妊活。そしてクリニックへ

そこから本格的に妊活を始められたんでしょうか?

結婚式を半年後に控えていたこともあり、それまでは妊娠しないほうがいいかなと思って、特に何もしていませんでした。結婚式が終わって36歳を迎えてから、基礎体温をつけて、排卵日にバッチリあてて試みていくんですけど、毎月生理が来ちゃうんですよね。

 そこで初めて、不妊治療の病院に行ってみようかということになって、自宅からアクセスの良いクリニックに行きました。

どんな心情でしたか?例えば深刻な気持ちで向かわれたんでしょうか?

いやいや、最初は全然! むしろ、自分が36歳で妊娠しようとしている事の重大さを全くわかっていなかったんです。夫は47歳になる年だったので、夫のほうがリミットが近いと思って病院に行ったら「いやいや奥さん、あなたが急がなきゃダメなんだ」って言われて、「えー、そうなの!?」ってなったくらい(笑)。

深刻さが増してきたのはクリニックに行ってからですね。待合室って空気が重いんですよ。問診票を書いているときに「私、何やってるんだろう」って思ったの。「何で私がこんなところにいるんだろう。何で私はこんなところに来なきゃ赤ちゃんができないんだろう」って思ったら、すごく切ない、悲しい気持ちになってきて、涙がじわーっと出てきて、看護師さんに「大丈夫ですか?」と聞かれて、みたいな。 

面白かったのは、いざ不妊治療を始めると例えば「この検査をすれば、私、絶対に赤ちゃんできるはず!」って不思議とワクワクするんですよ! 最初の半年から1年くらいはそういう気持ちを覚えたことのある方が多いらしいんです。

ただ、私の場合は結果がすぐには出なかった。人間って「できないぞ」と言われると、急に切望し始めるんですよね。そして、だんだんと光の入らない真っ暗なトンネルの中を進んでいくような気持ちになっていきました。

 

  筋腫除去、流産をともに経験した医師との出会い

― 最終的に2度転院されていますが、最初に通われたクリニックでは、どのような治療をされたんですか?

まずは半年ほどタイミング法をしてみて、そのあと人工授精を12回試しました。ただ、人工授精は56回以上行っても妊娠率は頭打ちだというので、すぐに体外受精に切り替えてもらいました。

そうして36歳のときに採卵をしたのですが、卵は8つくらい採れたんです。そのうちの2つが胚盤胞にまで成長しました。胚盤胞っていうのは、精子と卵子を合わせてから5日間ほど培養した卵のことなんですが、それを子宮に戻しても着床せず、そのあとも23回採卵して子宮の中に戻すのを繰り返したのですが全然着床しませんでした。

そこで、「これは子宮筋腫が原因かもね」ということで、クリニックから病院を紹介してもらって筋腫を一度取り除くことになったんです。そこで、手術してくれた先生と出会えたおかげで、私は不妊治療を続けられたと思っています。

― どんな方だったんですか?

見た目はヤンキーのお兄ちゃんでしたね(笑)。すっごいチャラチャラしてるの(笑)。手術するときも首にキラーンとネックレスが見えていて「お前がちゃんと切れんのか!」っていうくらいの見た目なんだけど、本当に手先が器用で、手術が早いし、うまい。

それから、物事を楽観視できるような話し方をしてくれる。たとえば、他の患者さんで、私と同じ時期に筋腫を10個以上取った方がいたんですけど、術後の説明で「もうさ、〇〇さん、筋腫がいっぱいあってさ、しかもやらしい位置にあって、すっごーい取りづらかった。でも、全部取ってるから」って。思わず笑ってしまいそうな言い方をしてくれるんですよね。私は相性があったということだと思いますけど、本当にあの先生と出会えていなかったら、不妊治療を続けられていたかわからない。

― やはり不妊治療を続けるうえで、先生との相性のようなものは重要なんでしょうか?

先生との相性はもちろんですが、病院の方針もありますよね。たとえば、私は筋腫を取った後に、妊娠できたんですけど、稽留流産(*注1)してしまったんです。

筋腫の術後にクリニックを転院していたんですが、その転院先のクリニックではそうは手術(*注2)が無麻酔だったんです。それが嫌で、筋腫の手術をしてもらった病院に戻って、同じ先生にお願いすることにしました。

診察もそのクリニックではパッと見て「心拍ないね」と言われて終了。そのときは冷たく感じましたけど、そのクリニックは1日600人くらい患者さんが来るところですし、次のステップを踏ませるために早く決着をつけさせることを重視していたんでしょうね。

それに対し、戻った病院の先生は「もう1週間だけ心拍を見てみよう」と猶予をくれた。

結局、1週間経っても心拍が見えなかったので、手術をすることになったんですが、「手術をするけれども、これは次の生理を起こさせるための手術だよ」と言ってくれて、希望を持てるような言い方と、その心遣いが温かく感じられて。

もちろん、これは人によって受け取り方が違うと思うのですが、自分に合った先生と出会えるかどうかは、不妊治療を続けるうえで大事なことだと私は思います。

(*注1)稽留流産:胎児が死亡していて、子宮内にとどまっているタイプの流産。子宮の中をきれいにする処置(掻爬手術:そうはしゅじゅつ)が必要になる。
(*注2)そうは手術:子宮の中の内容物を手術器具を用いて、きれいに取り去る手術。流産などで胎児や胎盤が子宮内に残っている場合、行なう必要がある。

 

 


やめられない。前向きな思いと悲しい気持ちと

 「妊娠できる身体なんだ」と前向きに思い直せた

― 流産という辛い経験をされて、不妊治療をやめようと思ったことはなかったんでしょうか?

えっとね、やめられないんですよ。私も「これ、いつまで続くのかな」っていう想いと、もしかしたらもう1回妊娠するんじゃないかなっていう想いと、お金どうしようかなっていう想いがあって。働いても働いても、1回の不妊治療で60万円くらい持って行かれちゃうので、いつも迷いはありました。

ただ、私たちは2人で働いていましたから、家計は苦しいながらも何とかやれていましたし、うちの母も「いつか必ず産めなくなっちゃうわけだから、やれるまでやってみたら?」と応援してくれていたので、迷いながらもやめようという気持ちにはならなかったですね。

それに、そうは手術をして2~3日後に、仕事で妊婦さんのヘアメイクを担当したことも大きかったですね。

― 術後すぐに妊婦さんを目の当たりにして、正直なところ、複雑な心境になられたんじゃないですか?

もっとすごくブルーな気持ちになるかと思ったんですよ。でも、意外と前向きな気持ちというか、「いいなぁ、この人妊婦さんなんだ。妊娠してるんだ、いいなぁ。私もこうなれたらいいな」と思えたんですよね。

もちろん流産したのはものすごく悲しいことなんだけど、逆に言えば「妊娠できる身体なんだ」っていうのを教えてもらった。まだチャンスがあるかもしれないと。

― 流産したときの旦那さんの反応はどのようなものだったんでしょうか?

うちの夫って、あまり心の話をする人じゃないんです。ただ、わたしが最初、子宮外妊娠かもしれないって言われていたりとか、流産してそうは手術することになったりとかで、ストレスを抱えていたんでしょうね。私が退院する日に帯状疱疹ができてしまって、夜眠れなくなってしまったんです。

私は精神的にはヘビーでも、手術自体はライトなので次の日から動き回れるんですけど、夫のほうが気の毒でしたね(笑)。でも、その後も不妊治療を続けることに文句を言わないどころか協力的で、夫には本当に支えられました。

 

  友達の誘いを断ってしまった自分

それ以外にも不妊治療をしていて辛いこともたくさんあったかと思うのですが、具体的にはどんなことが辛いと感じていましたか?

日常生活には罪悪感の元になることがたくさんあるわけですよ。たとえば周りのお友達が自分より後に結婚したのに子どもができていくだとか、そんな中、旦那がよその子を「子どもかわいいな」っていう顔で見ているとか、親戚とか親に「赤ちゃんそろそろ?」なんて何気なく言われるだとか。

私は不妊治療のことをブログに書いたり、友達に話したりしていたから、まだ発散できていたほうかなと思うけど、自分で自分を追い詰めすぎて鬱になってしまう人もいると思います。

映画のように思い出されるのは「陰性でした。ご主人とよく話し合ってください」と言われた時の、言わば“戦力外通告”をされたような衝撃です。先生もはっきりと無理だとは言わないんですが、そういう匂いを漂わされたときはかなりキツかった。 

それから、お友達の誘いを断ったり、お友達の妊娠・出産を素直に喜べなかったりするのも辛かったですね。友達3人で集まろうってなったときに、私以外は子どもがいて、何だか行けない自分がいて、「仕事だから」って嘘をついたことが1回だけあって。そのときは自分を正当化するために無理矢理後から仕事を入れました。あれは悲しかったな。

 


40歳で長男、43歳で次男を出産

 「やるだけやった」

その後、ご長男をご妊娠されたんですよね?

長男を妊娠したときは、3つ目のクリニックに転院したタイミングでした。当時はもう40歳でしたし、卵の数を増やすために注射を打って採卵したいって2つ目のクリニックの先生に言ったら「うちはホルモン値が普通の人に注射を打つことはできないから、それやりたいなら他に行ってね」と言われて「わかりましたー」って(笑)。

転院先のクリニックは、先生も優しくて、高齢にもわりと強いらしいという噂を聞いたので、藁にもすがる思いで行ったのを覚えています。

そして、その頃ちょうど望診に出会ったんですよね。望診は、マクロビオティックを軸に食事を整えるものなのですが、そこの所長先生からは「あなた、きちっとやろうと思ったらやり遂げそうだから、きっと妊娠できるよ」って言われました。最初は私も「え、何言ってんの、このじいさん」って思いましたね(笑)。体質などによってどう整えるかは違うんですが、私の場合はストイックに動物性の食品を全部抜いて、甘いものも全部カットする生活をしました。

妊娠する直前は、「食生活もこれだけ変えたし、子育て神社や温泉も行っちゃって、これでダメならどうしろっていうんだよ」と。「やるだけやったな」という想いがあったので、かなり悟ってきていたというか、肩の力が自然と抜けていった。

そういう心構えがよかったのか、食生活を変えたのがよかったのかはわからないんですけど、最終的には妊娠できたんですよね。40歳のときでした。

― 40歳というと、高齢出産にあたりますよね。出産は大変でしたか?

そうですね。妊娠糖尿病になってしまって、毎日インシュリン注射を打っていました。これまた「ザ・高齢出産」という感じですよね。できるまでも大変、できてからも大変、産んでからも大変でしたけど、やっぱりうれしかった。

帝王切開で出産をし終えて、横に生まれたばかりの子どもを連れてこられたときに「本当に人間が入ってた!」って思いました(笑)。生まれた瞬間に「かわいい」なんて思えなかった気がする。でも、まぁ、感動的だったのかな(笑)。

― 旦那さんも喜ばれていましたか?

男の人はね、生まれてからちょっとしてからやっと「お父さん」になる人が多いと思うので、生まれたてのころは「はて?」みたいな感じなんだと思います。だからかよくわたしの逆鱗に触れていました(笑)。

「ねぇ、おしっこしてるよ」とか言うんですよね。「この野郎ー、おしっこしてるよ、じゃなくて自分がおむつを替えろ!」みたいな(笑)。でも、夫も当時51歳で、赤ちゃんも触ったことがない人でしたし、そんな中、パパママ学級に通って沐浴の仕方を一生懸命に学んでくれたりいろいろやってくれていましたね。

今では子どもふたりを溺愛する父親になっています(笑)。

 

  二人目への挑戦を決意

お一人目を出産されたあと、不妊治療を再開して二人目を出産されていますよね。どんな心境で、治療を再開されたんでしょうか?

私は一人っ子で、うちの夫には弟がいるんですが、その弟さんには子どもがいないので、うちの長男は元々親戚が少ないんですよ。いとこがまずいない。高齢で産んだ子だから、親が早くに亡くなってしまうかもしれないし、そうしたら一人ぼっちになるまでが早いですよね。そのとき、「あぁ、もう一人子どもがいたら良いのかもしれない」と思うようになりました。

それから、長男が1歳になって「赤ちゃん」から「幼児」になっていくときに、急に赤ちゃんが可愛く感じたことも大きいですね。もちろんその当時は、大変で発狂しそうなんだけど、「あぁ、赤ちゃんってかわいいな。肉体的にまだ産めるかな」と思うようになって。

それで例の一見チャラチャラしている(笑)、私がいつも手術してもらっていた先生に相談したら、「金額と妊娠できるパーセンテージをどう考えるかだけど、まぁやってみたら?」と背中を押してくれたんです。

年齢も年齢だったので、やめるときのことも視野に入れて「不妊治療をやめるときってどんなときかな?」とも聞いてみたのですが、身体的な答えが返ってくるかなと思ったら、その先生は「うーん、あなたの場合は心が折れたときかな?」と言ってくれて。「あ、私まだ心が折れていないな」と思って、治療を再開することに決めました。 

夫に相談してみたら「じゃあやろうか」と言ってくれたので、43歳でまた採卵を始めて、今度は幸いにも2回でできた。それで44歳になる2日前に次男を出産しました。

 

  不妊治療していなければ今の私はない

ー 長いトンネルを抜けられて今があるかと思うのですが、不妊治療をされていたときを振り返って、今どんなお気持ちですか?

私が不妊治療を経験せずに、簡単に子どもができていたら、今よりも子どもを大切に思えていなかったかもしれないですね。比べられないのでわからないですけど。

あとは、私の人生にオプションをつけるための修行の期間だったと思うようにしています。当時は周りに明るく振る舞いつつも、ダークな部分が8割を占めていました。ただ、その本当の痛みっていうのは経験しなければわからないことなので、人の痛みをわかってあげられる領域が増えたのは、よかったなと。

― 現在は不妊カウンセラー、望診士としても活動されていますが、当時の自分や似た境遇の方がいたら、どんな言葉をかけますか?

誤解を恐れずに言えば「近道を探せ」と言いたい。焦りなさいということではなくて、自分の元となる身体を整えて見つめ直してほしいというか。

よく「お酒やタバコはダメです」と言いますし、もちろん身体に良くはないんですが、その程度って人によって様々ですよね。何に弱くて、どんなものなら大丈夫なのかという自分の体質を見極めつつ、生活習慣や身体を整えることが大切ですよね。結果として残念ながら授からなかったとしても、体を整えることはその後の人生にとっても絶対プラスですし。

一方で、東洋医学だけを妄信するのも違うと思っています。東洋医学で自分の体を整えると同時に西洋医学の力もしっかり借りること。それが結局は近道だと思うんです。

― 今後の展望のようなものはありますか。

性教育のベースを底上げしていきたいです。私もそうでしたが、いつまでが妊娠適齢期で、いつからが難しくなってくるのかについて知らない方が多い現状はやはり芳しくないですよね。

たとえば、私たちの母親世代の人たちで「うちの嫁って女の子しか産めないの」というような心ないことを言うような人っていますけど、赤ちゃんの性別が決まる仕組みを知っていたら、そんな言葉は出てこないですよね(*注3)

プライベートなことでは、年をとってから産んだのは私の責任なので(笑)、もう元気でいるしかないですね。まずは私が元気でいて、そのうえで食生活を整えて家族全員の健康を支えていきたいと思っています。

(*注3)性染色体には、X染色体とY染色体の2種類があり、男性の細胞にはX染色体とY染色体が、女性の細胞にはX染色体のみしかない。すなわち、卵子(X)とY染色体を持った精子が受精すると、受精卵の性染色体はXYとなり男の子が、卵子(X)とX染色体を持った精子が受精するとXXで女の子になる。(出典|「六訂版 家庭医学大全科」株式会社法研発行)

取材・文 / 佐々木 ののか、写真 / 内田 英恵

 


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