「産みたい人を支える看護師」のキャリアか、「自身の妊娠・出産」か—。 生殖医療の現場を経たいま伝えたい、あのとき“決断できなかった私”へ。<前編>

流産や離婚など人生の紆余曲折を経ながらも、「不妊症看護認定看護師」として、生殖医療の第一線で看護業務にあたってきた猪股恵美子さん。現在43歳の恵美子さんは、持病のため妊娠へのハンデを抱え、また、不妊患者に向き合う看護師という職業人としての責任感から、産む、産まないの間で揺れる30~40代を過ごしてきました。そんな彼女のストーリーは、これからの人生設計について考える女性たちに、「あなたならどうする?」と、強い問いかけを残します。

猪股 恵美子 / Emiko Inomata   鴻巣准看護学校専任教員
千葉県生まれ。2000年看護師資格取得後、産婦人科病棟勤務。産婦人科外来で出会った不妊症患者との出会いにより生殖看護に興味を持ち、2008年より生殖医療の世界へ。
更なる専門知識とケアを学ぶために、2011年に聖路加看護大学(現 聖路加国際大学)看護実践開発研究センター不妊症看護認定看護師教育課程に入学。2012年、日本看護協会認定不妊症看護認定看護師資格取得。2013年、日本生殖医学会認定生殖医療コーディネーター資格取得。生殖医療の現場で看護師長と認定看護師、コーディネーター業務を6年半経験。
在籍中に准看護学校での母性看護学外部講師を務めた経験から、看護教育やさらに広い視野での看護活動の必要性を感じ、2019年より鴻巣准看護学校専任教員として着任。「看護の始まりの楽しさ」を伝えるべく奮闘中。
私生活では、流産、離婚、再婚を経て、現在養子縁組に向け準備中。

 


妊娠から目をそむけていた頃

  医師から「治療中は妊娠を諦めて」と言われ

― まずは、恵美子さんが27歳で最初の結婚をされたとき、イメージしていた家族像についてお伺いしたいと思います。結婚当初は産科病棟で勤務していたそうですが、日々妊婦さんや赤ちゃんと接するなか、「近いうち自分も」という想いもあったのでは?

そうですね。産婦人科は女性だからこそ活躍できる分野だと私は感じていましたし、自分もやがて妊娠、出産を経験することだしと思って、看護学生のときから産婦人科を選んできました。

でも、実は最初の夫とは、理想の家庭のイメージというものをまったく持てていませんでした。飲み会で知り合い3年付き合って結婚しましたが、勢いで結婚式場の見学に行って、その流れでなんとなく事が進んだ感じで。

結婚当時は地元の産婦人科病棟で働いていて、子どもがいなくて身軽なこともあり、ほとんど夜勤ばかりでした。夫とは物理的な生活時間帯が合わないので、同じ部屋に住みながら、会話もままならず、何日間も顔を合わさない日もざら。

何となく、夫も子どもはあまり望んでいない様子でした。それに子どものころからの持病もあって、治療中は妊娠は難しいと言われていました。

― どんなご病気だったんですか?

小学生のときにアレルギー性紫斑病という、皮膚に紫色の斑点が出る病気を発症していて。1年半のステロイド治療で一時的には治ったのですが、当時の医師に「大人になって紫斑性腎炎を起こす可能性が高い」と言われていました。
その言葉通り、結婚後に腎炎を発症して入院したんです。

結局、そこからまたステロイド治療が始まり、主治医から「ステロイド治療を受けている間は妊娠を控えるように」と忠告されてしまって。
流産や胎児の発育異常につながるんですね。必然的に、夫婦生活はなくなりました。

― 医師からそう言われたとき、どんなお気持ちでしたか?

すごく落ち込みはしたんですが、どこかほっとした自分もいました。

私が入院していたとき、夫は1回しか顔を出してくれませんでした。入院中、腎生検といって直接腎臓に針を刺す検査をしなくてはならなかったのですが、その日すら夫は来てくれなかった。

結婚当初からすれ違いの多い夫婦だったので、この頃からすでに関係が破綻し始めていたんだと思います。
だから、「これでとりあえず、お互いのためにも、いま妊娠について積極的にならずにすむ」と、安堵しましたね。

 

  立て続く不運に「看護師を辞めよう」と

― その後、流産をご経験されていますね。

28歳ぐらいでしょうか、治療が落ち着いて、医師から次の治療の間までなら妊娠しても大丈夫と言われ、思いがけず妊娠しました。
妊娠反応が出たときは、職業柄なのか「あ、出たな」ぐらいで。特別、大きな感動はありませんでした。

結局、2度ほど妊娠しましたが、どちらも初期に流産してしまいました。

普通ならもっと落ち込むのでしょうが、出血したときは、「しょうがないか」ってぐらいで。夫もまったく同じ。
今思えば、その時は私自身も含め、そんなに子どもが欲しくなかったのでしょうね。

そんな矢先、実家が火事に見舞われてしまって。祖父の四十九日でみんなが出払っているときでした。
これを機に実家を建て替えて私達夫婦が同居するという話になったのですが、それをきっかけに旦那が出て行くこととなり、流れのままに離婚に至りました。

― 流産やご実家の火事、そして離婚と、まさに激動の時期でしたね…。辛い出来事が続くなか、自分自身をどう保っていたのでしょう?

正直なところ、30歳になる直前に辛いことが続いて、当時はさすがに私も産科で働くのがしんどくなって、看護師自体をやめてしまおうと思い詰めました。

というのも、その頃、働いていた施設で子育て支援施設を作る計画があって、その企画室長を任されていたんです。しっかりしなくてはいけない時なのに、当の私の医療ミスが続いてしまって。
私生活の影響がここまで出てしまい、これはもう取り返しのつかないことになりかねないと。

それで、院長先生に相談したら、「失敗はいくらでもやり直せるよ。ミスや失敗もあるけれど、それ以上に、自分が一生懸命行ったことに対して、こんなに感謝される仕事って他にないよ」って言ってくださって。

それでひとまず、休職させてもらうことにしたんです。結局、復帰後は、その職場を辞め不妊症治療専門のクリニックに転職することになるんですが…。

 


産科の看護師から、不妊治療の看護師へ

  「女性には、こんなに悲しいことがあるのか」

― なぜ転職しようと?

休職から復帰後、日勤の外来勤務に異動させてもらったのですが、そこの外来にたまたま不妊症の患者さんがいらしたんですね。

41歳の女性で、排卵誘発剤を使っても卵が育たず、うちでできる治療は限界と医師に言われ、泣いていました。その女性を前にして、私はなんて声をかけてあげていいか分からない。「大丈夫」でも、「頑張れ」でもない気がして。

私はずっと産科にいたので、不妊治療の知識もなければ、どんな想いで患者さんが来院されているのかも全く理解していませんでした。
そんななか、突如、「女性にはこんなに悲しいことがあるんだ」という現実を突き付けられて。

自分も流産した経験がありますが、赤ちゃんを強く望み、それでも授からないことがこんなにも辛く、悲しいことなんだということに、このときはじめて気が付いたんです。

― 産科では感じたことのない気持ちだった? 

そうですね。 

産科の病棟で働いているときは、「よかったね」、「おめでとう」という場面がほとんどですよね。それが、階を変えただけでこんなに違う世界がある。それに対して自分が何のケアもできないことが、とにかく悔しかった。

もっと不妊症の看護について勉強したいと強く思い、思い切って不妊治療専門のクリニックに転職することにしたんです。

 

  看護師として何ができるか

― 不妊治療の世界は、恵美子さんにどう映りましたか?

産科を、丸みのある「円」と例えるなら、不妊治療はもっと幾何学的なイメージ。数学的というか。
ホルモン値一つとっても、これがこうだから、結果こうなると、メカニズムが明確で、自分に向いていると感じました。

ただし、これまでの知識がまったく通用しませんでしたから、一からやり直しです。毎日、勤務が終わったあと近くのカフェで勉強していました。
 
反面、辛い思いもありました。なぜなら、不妊治療を受けている方に対して、自分がどれだけがんばったからといって、必ずしも妊娠につながるわけではないからです。患者さんもがんばっているし、こっちもがんばっている。でも、成果は絶対に保証されているわけではない。

お産は、できるだけ陣痛を緩和してあげることができるし、生まれたら、がんばったねと一緒に喜んであげられますよね。
でも、不妊治療を受けている方のカルテをみると、分厚くて、なかには5年も通っている方もいます。

そんな方を前にして、看護師として無力感を感じることも多々ありました。でも、だからこそ、「じゃあ、私に何ができるんだろう?」という想いがだんだん強くなったんです。

 

  「不妊症看護認定看護師」の取得へ

― その想いが高じて、恵美子さんは、特定の分野で水準の高い看護を行う「不妊症看護認定看護師」の資格を取得されています。取得にあたっては、一定の教育課程を履修する必要があり、特に働きながらだと強い意志がなければ挑戦できなかったと思います。

自分に何ができるんだろうと考えたとき、たまたま『これからの認定看護師』という本を見つけ、不妊症看護の項目を読んでみたんです。

そこには、「生殖の世界にいる看護師は、直接的な看護だけで患者さんを支えるのではなく、患者さんがどれだけ自分が納得できる治療を受けられるか、そこも支援すべき」といったことが書かれていました。
この文章がストンと腑に落ちたんですね。「あ、これから私はそこを学べばいいんだ」って。

これからは、患者さんが納得できる治療を受けられるため、しっかり情報提供して、支えていけるように勉強していこうと。それで不妊症看護認定看護師を目指しました。

取得中は火曜、水曜、木曜はクリニックで働いて、金曜と土曜が聖路加看護大学看護実践研修センターでの研修。土曜は戻ってまた夜診に対応して、日曜も出勤というスケジュールです。

大変でしたが、勉強していくうちに実践と結びつくことが多く、挑戦しがいがありました。
取得後は、患者さんとの距離をより縮められると考え、小規模ながら新規開業の不妊症治療専門のクリニックに再転職しました。

 


悩みに悩んだ末に「じゃあ、子どもはいいかな」

  何より、患者さんの気持ちに寄りそうこと

― 不妊治療中の方への看護は、他の分野とは違う特徴がありますか?

不妊症患者さんへのケアは、がんの遺族ケアに似ているところがあると私は感じます。
励まさない。アドバイスしない。ただ患者さんの気持ちに寄り添うことです。

今も覚えていますが、認定看護師の教育課程に入るときに抱負を言わされ、私は「不妊症の世界を明るい何かで満たしたい」って宣言したんです。
今となっては恥ずかしいですが、でも当時はそれぐらい、不妊症治療の世界を変えたいという想いがあった。

でも、勉強を重ね、現場で働くうち、それも違うなと思い始めて。その人の悲しみは、誰が何を言ったところで、悲しみであることに変わりありません。

でも、出産をあきらめた方は、そこでまた人生を再構築しないといけませんよね。もちろん、再構築をするのは自分自身ですが、本人がそういう気持ちにならないとそれは難しい。

だからこそ、そこにいる誰かが患者さんの気持ちに寄り添う必要があるんです。
そういう心構えで患者さんの話に耳を傾けていると、「もう大丈夫です」とご自身で治療に踏ん切りをつけて、卒業されていく方も多くいらっしゃいました。

 

  再び妊娠へのハンデを突き付けられる

― 新しい世界でまた奮闘を始めた当時の恵美子さんですが、私生活では素敵な出会いにも恵まれました。新しく旦那さんになる方に、恵美子さんの持病について話したとき、どんな反応でしたか?

今の夫とは、最初の不妊治療専門のクリニックに転職したのと同時期に、たまたまスポーツクラブで出会いました。インストラクターの先生がキューピットになってくれて、話すうち意気投合するようになって。

でも、いざ二度目の結婚となった際、私の主治医からは「妊娠は賭けだよ」と言われました。

「出産のあとに急激に母体の腎機能が下がって、その後ずっと透析しなくてはいけないかもしれない。それ以前に、腎機能が悪いことでお腹の赤ちゃんが育たないことも考えられる。確かなことは妊娠してみないことには分からないから、賭けだよ」って。

私は、自分の母親が透析を受けていましたから、その様子をみて、そこまでして自分が子どもを求めるのはただのエゴではないかと思いました。

透析患者をもつ家族って、日々の送迎があったりしてとても大変なんです。それを自分の子どもにも負わせていいのか。それに、30代で透析を開始して、80代まで自分の血管が持つかどうかも不安でした。

それで、考えに考えて、「じゃあ、子どもはいいかな」って。主治医の先生もそのほうが賢明だと思うと言っていました。きっぱりダメとは言われなかったけど、ニュアンスとしては諦めなさいと。

それを旦那に伝えたら、「自分は恵美子ちゃんの子どもと結婚するわけじゃないから」って言ってくれて…。有難かったですね。

取材・文 / 内田 朋子、写真 / 望月 小夜加

 


流産・離婚・再婚と、激動の30代を過ごしながら、新たに見つけた「不妊症看護」の道に邁進を始めた恵美子さん。そんな中、一度は諦めたつもりだった妊娠・出産への思いを、本当は断ち切れていない自分に気づきます。このあとに続く<後編>では、“決められない自分”を抱えたまま40代を迎えた彼女に訪れた転機と、その後の人生について。そして43歳となった今、当時の自分に贈りたいメッセージについて、伺っていきたいと思います。

<後編>はこちら!

 


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