【ミレニアル世代コラム】「産みたい」「産みたくない」「産みたいのに産めない」~生き方の違いを認め合う、ということ。

子どもがいないことを誰かに話すと、「どうして?」とよく聞かれます。
産みたくても産めない人、子どもが欲しくないとは言い切れないけど産む決意ができない人、そして産みたくない人…人それぞれ子どもがいない理由があり、想いがあります。
私は、どうすれば子どもがいない人たちが周囲からの理解を得られるのか、ずっと考えていました。今回、ふたりの友人との会話を通し、子どもがいる女性の妊娠・出産前後の葛藤や苦しみも知ることができました。
30代半ばの筆者・若林が、すべての女性が偏見にさらされることなく生きられる社会になってほしい…そんな願いをこめて記す、ミレニアム世代コラム、第二弾です。


*【ミレ二アル世代コラム】と題して、等身大の30代が「産む・産まない」について思うこととモヤモヤ、意見、願いなどをコラム形式でお届けするシリーズ、第三弾です。


  「産みたい想い」はどこから育まれるのか

前回コラム<自分の意思で選ぶ「産む」「産まない」と「産める」「産めない」の違いとは?~排卵障害を抱え、30代半ばの私がいま思うこと。>で執筆した通り、排卵障害の治療を継続しつつも不妊治療に踏み切れないわたしは、「産む決意ができない人」に含まれます。

「どうして子どもがほしいと思えないの?」よく聞かれる質問です。

わたしが1歳の頃、両親が離婚しました。実父の顔や名前を知らないまま育ち、6歳になると母は再婚し父親の違う妹たちが生まれました。
「幼少期父親がいなかったから、自分の子どもには同じ思いをさせたくなくて?」母は不安そうに尋ねます。ですが、わたしにもよくわかりません。

母はわたしが1歳になる前に保育園に預け、夜まで働いていました。保育園のお迎えはいつも祖父が来て、同い年の子どもたちにからかわれたことがあります。
とはいえ、当時、わたしの預けられていた保育園では母子家庭の子どもも多く、父親がいないことに違和感は感じていませんでした。

ただ、寂しさはずっとつきまとっていて、現在もわたしと共存しています。

親族から、「子どもが欲しい」という気持ちは人間の本能である、と言われました。
これは親族の個人的な意見に過ぎないと思いますが、私自身のことに関して言えば、出産に対しての意識に影響を与えたのは、幼少期の孤独感だったのかもしれません。

 

  「血はつながっていても、つながっていなくてもいい」

去年、親しい友人に男の子が生まれました。彼女も幼少期、わたしと同じように孤独を感じていました。
お兄さんが引きこもりになり、ときおり荒れることもあったそうです。

しかしその経験を経た友人は、家庭を築くことに対し恐れではなく、憧れを抱くようになりました。
「家族団らんが夢」だと、彼女は知り合った頃からよく言っていました。

ただ、友人は「子どもをもつこと=血のつながった存在を生み出すこと」に限定して考えていたわけではありませんでした。
なかなか子どもを授かれなければ、養子縁組も視野に入れていたそうです。

「血のつながりがなくても、家族の絆は結べるはず」そう話す友人に、わたしは強さを感じていました。

数年前、友人は結婚し東京から福島に引っ越しました。その後一緒に福島で温泉旅行をしたとき、友人はとても幸せそうでした。

「お互いにいろいろと紆余曲折のある人生だったけど、やっと落ち着けたね」そんな会話をした記憶があります。ほどなくして、彼女は妊娠し出産しました。

排卵障害を患っているわたしは「子どもが欲しいとあまり思えない」ことに葛藤しつつも、妊娠し出産している友人たちを見ると「スムーズに子どものいる幸せを手に入れられたのだな」と、穏やかな気持ちになれました。
彼女の妊娠・出産の際も同様でした。

しかし、改めて考えてみると、わたしは友人たちの何を見て「スムーズに妊娠し出産している」と感じたのでしょうか。妊娠前後や出産前後に、本人にしか知りえない葛藤や苦しみがあったかもしれないのに。

事実、後になって知ったのは、友人が妊娠三ヶ月を経た頃、子宮頸がんの恐れがあると診断されたということです。そして、彼女は妊娠中にがんに発展しそうな細胞を取る手術をし、帝王切開で出産していました。

手術や出産前後の不安や恐怖感は、想像を絶するものだったと思います。
彼女の身に起きていたことを聞き、何も知らずに「何の障害もなく子どものいる幸せを手に入れた」と感じていたわたしは、彼女の苦しみを想像すらせず誤解し続けていたのです。

出産後に打ち明けられ、何と言っていいかわからなくなったわたしに対し、友人は言いました。
「今、子どもがいることがほんとうに幸せ。ただ、もしあのとき産めない体になっていたとしても、わたしは養子縁組とか他の方法で子どもをもつ人生を選んだと思う」

友人は当時の感情や苦しみについて語りません。ただ、微笑みながらそう話しました。

 

  「産む」「産まない」の選択肢は「正しい」「正しくない」で分けられるものではない

友人は困難を乗り越えて産むことを選び、いま、彼女の息子は元気に育っています。
妊娠や出産に対して安易に「スムーズに授かって、安全に産めて良かったね」と思ってしまったことは、わたしにとって反省しなければならない出来事でした。

「産みたくても産めない」「産まない選択肢を選んだ」子どものいない女性に対し、ときに世間は冷たい目を向けているように感じます。

まるで女性たちが正しくないことをしているかのように、「子どもはいたほうがいい」「子どもがいないと将来つらいよ」など無神経な言葉を放つ人たちも、世の中には存在しているように思います。

かたやわたし自身、そんな「子どもがいない」ことに対し周囲の理解を得る難しさを身をもって知っていながら、立場の違う存在である「子どもがいる女性たち」のことを深く理解できていない部分があったのです。

そして、友人とわたしの「子どもがいること」への意識の違いを通し、幼少期に孤独を味わったとしても、それをどう受け止め未来をどのように作っていくのかは人それぞれだと感じました。

「みんな、自分だけの想いや事情があって子どもがいる、もしくは子どもがいない今がある。それは正しいとかまちがっているとか、そういう判断基準ではかれるものではない」

わたしと友人は子どもに関しては違う道を歩んでいますが、話しながらどちらからともなくそんな言葉が出てきました。
子どもがいる友人、子どもがいなくて不妊治療にも踏み切れないわたし…立場が異なっていても、同じ価値観を共有していました。

もう一人の女性のケースに話を移したいと思います。
わたしの学生時代の後輩は、結婚してすぐに夫の親族から「子どもはまだか」と言われ続けていました。

「子どもがいること=正しい」という目に見えない価値基準は戦前から変わらず日本社会にあるように思います。今、不妊治療をしているしていないに関わらず、「子どもを授かれないかもしれない」と感じている夫婦がどのくらいいるのか、調べてみました。

出典:国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査」不妊についての心配と治療経験

国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、不妊を心配したことのある夫婦の割合は、年々増えているようです。2015年の調査では、35%の夫婦が不安を感じていることが明らかになっています。

後輩も、周囲からの言葉がきっかけとなり「自分は産めるのだろうか」という不安に苛まれたそうです。

「産みたいとは思っているけど、いつ授かれるかわからないのが子ども」
わかっていながらも追いつめられた彼女は、結婚後まもないうちに婦人科へ行き相談したと言います。

現在、彼女はふたりの子どもを授かりました。
「第三者から子どもをもつことに対して詮索されるのは、最終的に子どもを授かっても授からなくても、とても辛いことですよね」
彼女は当時を振り返りながら、そう語りました。

 

  まとめ

少子高齢化が進むにつれて、インターネット上で「子なしハラスメント」という言葉も目にするようになりました。
あくまでもわたしの個人的な意見ですが、産めない人や産みたくない人の心情をおしはかる余裕のない時代が、家系存続が使命とされていた時代から現代まで続いているように思います。

産む女性・産まない女性・産みたくても産めない女性…すべての女性に想いや葛藤があります。その心情を、すべての人がおしはかれるようになるためには、まだ時間がかかるかもしれません。

「人を傷つけることはしない」
子どもの頃から、わたしたちはそう習ってきました。

これを少し応用させて、「女性たちの生き方に対して自分の意見を押し付けない」という意識を、それぞれが持つことはできないのでしょうか。

女性にとって生きやすい社会は、そういった個々のささやかな意識の変化から、育まれていくのではないかと感じています。

若林理央:ライター
多様化する現代において、女性の出産することへの意識はどう変化しているのか興味を持ち、「UMU」を読み始めた。その後、排卵障害と診断されたことにより、女性の生きやすい社会とはどのようなものなのか問い直したいと感じ、執筆を志願。ミレニアル世代コラムの執筆は、今回で2本目となる。
TWITTER ブログ