我が子が育つ未来に生きるために。子宮頸がんの闘病、不妊治療を乗り越えて母になった私の、人生の決断。<後編>

「子宮を残して、子どもを産みたい」ーその一心で、結婚直後に発覚した子宮頸がんの手術、抗がん剤治療に取り組んできた、酒井なつみさん。<前編>では、幸せばかりではない妊娠・出産の現実にも直面した12年間の助産師・看護師の仕事、子宮摘出の選択を迫られたがんの闘病を振り返りました。この<後編>では、働きながらの高度不妊治療、流産、切迫早産…と、出産までの長い長い道のりの記憶を、たぐります。無事出産を遂げた彼女がした「ある決断」、そして、政治の世界に進もうと思った理由とはー。

酒井 なつみ / Natsumi Sakai  江東区議会議員
1986年、福岡県北九州市生まれ。私立自由ケ丘高校看護専攻科を卒業後、東京都西東京市で産婦人科の看護師として働き始める。2010年に助産師免許を取得し、助産師として働き始める。母子栄養協会の離乳食アドバイザー資格を持つ。
13年、結婚を機に江東区に住み始める。同年より、新規開院した昭和大学江東豊洲病院の周産期センターで、開院スタッフとして勤務する。分娩介助や妊娠期から産後までの看護、新生児ケア、育児相談・指導、婦人科疾患の看護を経験。その後女性外来に異動し、産婦人科や乳腺外科の診察介助、妊婦の保健相談、乳がん患者の相談を担当した。
14年子宮頸がんに罹患。手術・抗がん剤治療を経て、休職しつつも勤務を続ける。不妊治療を受け、切迫流産や早産を乗り越えて、17年に長女を出産。18年には8カ月の子どもを保育園に預け、復職した。19年江東区区議選に初当選し、現在1期目。趣味はヨガとお菓子づくり。

 


「出産と同時に、子宮を失うかもしれない」

  不妊治療、流産、切迫早産…出産までの長い道のり

― さて、子どもが欲しい思いを切実に抱えたまま、臨んだ闘病の山場をようやく越え、いよいよ、本格的な不妊治療に入っていくわけですね。実際に治療をはじめてからはどうでしたか? やはり病気の治療の影響があったのでしょうか。

そうですね…。いざ始めてみると、おそらくは抗がん剤治療の影響で、採卵して成熟した卵は一つだけ。
経済的にも精神的にも身体的にも負担をかけて、たったの一つしか卵が採れないのか、と落ち込みました。

結局、1回目の体外受精周期で妊娠まで至らなかったので、受精卵のストックもなく、2回目も採卵からしなきゃいけなくて。2つ卵ができたので、一つは胚盤胞を凍結して、もう一つを移植したんですがダメで。

このときは、どうして女性ばかりが痛くてつらい思いをしないといけないんだろうという気持ちが湧いて、夫にぶつけたこともありました。夫はただただ、「そうだよね」と寄り添ってくれましたね。

その後、前回凍結していた胚盤胞を移植したら、妊娠したんですが、7週で心拍が止まってしまったんですね。

このときも、がん治療の影響で流産の処置が難しくて、自然に出てくるのを待っていたんですが、めちゃくちゃお腹が痛くなるだけで出てこなくて、結局手術をすることに。

手術は無事に成功したけれど、縫ったところが炎症を起こして高熱が出て、1週間ほど入院しました。心も身体もボロボロでした。

― ここでも前途多難が続きますね…。不妊治療をやめたくなって、子どもをあきらめるという選択肢が頭をかすめることはなかったですか?

なかったですね。再発する前に、子宮があるうちに、とにかく子どもを産みたい。その気持ちはずっとブレることはなかった。

その頃には、以前医師からタイムリミットを切られていた「半年」が過ぎていたのですが、AMHを測ってみたら数値が改善していて。
もう少しだけ続けられそうだと思うと同時に、がん治療の影響が色濃く残っていることも感じていたので、できるだけ高刺激ではない、身体に負担のない治療法を試したい、とも思っていました。

医師から、流産したあとの不妊治療は2〜3回生理が来てからでないと再開できないと言われていましたが、待っていられなくて、今度は人工授精をしたんです。
当時はとにかく焦っていて、何もせずにはいられなくて。

それで、人工授精を3回やってダメだったら、別の病院に移ろうと思っていたら、その最後の3回目で思いがけず、もう一度妊娠できたんです。

― わあ、とうとう…。そのときの心境は?

でもやっぱり、また流産するんじゃないかって思いが最初に頭を過ぎりました。妊娠中も、ちゃんと生まれてくるまでは安心はできなかったです。
実際に同じ方法で子宮を残した子宮頸がんの患者さんともつながっていたんですが、彼女らに聞いても、妊娠30週ぐらいでの早産例が多くて。

案の定、私自身の妊娠経過も順調ではありませんでした。結局、妊娠16週で出血してしまって、1週間入院することになります。そこからドクターストップがかかり、仕事もできなくなってしまいました。

自分でもハイリスク妊婦だとわかっていたので、職場には早めに休むことは伝えてあったんですが。とはいえ、まだ妊娠の折り返し地点に来たばかりのタイミングでこんなことになるなんて、さすがにショックでした。

そこから出産までの5ヶ月間、ずーっと自宅で寝たきりの安静生活を送ることになりました。

― 5ヶ月間寝たきりはつらいですね。

主治医から流産・早産の可能性が高いと言われていたので、1日、1週をちゃんと乗り切れるか、毎日不安で不安で。動けないから常にインターネットで、経験者のブログや論文を検索して読んでいました。

20週、21週、22週…1週刻みで、今生まれたら子どもにどんな障害が残るのか、切実に考えなくちゃいけない。

そんな悶々とした気持ちを抱えながら、夫と姉にサポートしてもらって自宅で過ごしていたんですが、32週からは今度、切迫早産の恐れがあるということで入院することになりました。

― これでもか!というくらい、出産までの道のりが長い…。

本当に、長かったですね。

子宮頸がんの手術に抗がん剤治療、体外受精と顕微授精、切迫早産。自分が看護やお産の現場で経験してきたこと以上のフルコースを体験して、「私、助産師として最強じゃない?」って思いましたもん(笑)。

 

  生まれてくる子どもと夫と一緒に生きるためにした、決断

― そして、出産はどんなかたちで迎えたのでしょう?

正期産の37週になったら帝王切開で産むことになっていたんですが、ここでまた、大きな選択に迫られたんです。
それは「手術と同時に、子宮を摘出するかどうか」です。

主治医からは、本来は残すべきではない子宮なので、今後の再発リスクを考えると摘出した方がいいと言われました。一方、妊娠している子宮は血流が豊富なので、手術と同時に摘出するリスクもある、と。

かつ、摘出を決断する場合も37週の予定帝王切開でなければ人員の確保が難しくなるため、早産になれば子宮は摘出できないと言われていました。
いろんなシチュエーションを考えながら、妊娠週数が進めば進むほど、その選択がリアルになっていって。

もともと夫は子どもは3人ほしい、私は2人ほしいと思っていたんですね。ようやく、1人の親になれる未来が目前に迫って来て、ここで子宮を取ればもうきょうだいは望めなくなるので、迷いました。

― 出産と同時に、子宮を失うことになるかもしれないなんて…。

夫は「二人目もほしいし、子宮を残しても大丈夫じゃない?」って言ったんですね。

でも私は、ハイリスクな妊娠生活を過ごしているうちに、この先子育てをしながら、自分の身体でもう一度、同じような妊娠生活を送ることは無理だと悟り始めていました。

それに、お腹のなかにいる子のことを思うと、私は死ぬわけにはいかない。無事に生まれてくれたら、この子の成長をずっと見守っていたい。

苦しい決断でした。
ですが最終的には、夫にもそう伝えて、「37週で予定帝王切開ができれば、子宮を摘出する」ことを、心に決めました。

― 強いですね…。母としての自覚が、その決断を後押ししたんでしょうか。

そうだと思います。
生まれてくる娘のためにも、一緒に親になる夫のためにも、私は生きなくちゃいけないので。

37週で予定帝王切開で産めることになったとき、手術台の上で、めちゃくちゃに号泣していました。やっとここまで来られたという安堵と、子宮を取るんだという切なさが綯い交ぜになって、涙が止まらなくて。

無事に手術が終わって、子宮の病理検査では、がん細胞もなかったしお腹の中の癒着もなくて、ほっとしました。

とうとうこれで、我が子と夫と一緒に生きられる、と。

 


あのときつらかった自分を、救ってあげられる社会を

  産後、夜になると涙が止まらない、マタニティブルーに

― 待望のお子さんと最初に対面できたときは、どうでしたか?

それが、術後すぐに娘と対面できたんですが…。当の私は全身麻酔の副作用で、気持ち悪くて吐いていました。

もう本当に自分がボロボロで、それどころじゃない(笑)。喜びに浸る間もなく、子育てが始まった感じですね。

― 体調が回復しないなか、赤子の子育ては待ったなしですもんね。

それまで何千人もの赤ちゃんとお母さんを支援してきたので、その経験値から、自分の産後の子育ても大丈夫だろうと思っていたんです。
母親にも来なくていいよ、と伝えていたくらいで。ハイリスク妊婦だったので移動ができず、そもそも里帰り出産の選択肢はなかったですし。

退院後、夫とふたりでの子育てがスタートしたんですが、メンタルが崩れてしまって、夜が近づいてくると涙がポロポロ流れてきて止まらない。完全にホルモンの影響で、夜が来るのが怖くて夕方になると憂鬱になるんです。

ああ私、マタニティブルーになってるなあ、助産師なのにって。

夫もオロオロして(笑)。「これはね、ホルモンの影響だから、時間とともによくなるよ」って伝えました。実際に、体調が回復すると同時に心も落ち着いてきましたね。

― 産後のホルモンバランスの崩れはどうにもならないですよね。そんななか、子宮を失ったことに対する感情の揺れはありましたか?

産後はなかったけれど、娘が1歳半以降、周囲でふたり目を妊娠している人が増えたときにやっぱり、心は揺れました。

「ああ、もうきょうだいをつくってあげることはできないんだな」って。

ただ、私自身は特別養子縁組や里親にも関心が高くて。
そうした選択肢も視野に入れていますが、一人で決められることではないので。最近は夫に、「勉強会に行ってみない?」と声をかけています。

 

  「当事者の声を届けて社会を変えたい」ー政治の世界へ

― 本当に、濃密な経験をされましたね。酒井さんがそこから、政治の世界に進むことを決めたきっかけはどこにあったのでしょう?

一番最初のきっかけは、ちょうど4年前の統一地方選のとき、がんと宣告されて抗がん剤治療をしている最中でした。
誰に投票しようか、掲示板のポスターを眺めていたら、当時の私と同じ28歳で、シングルマザーや保育士の女性が2人、立候補していたんですね。

頼もしいなあ、応援したい!と思うと同時に、私にも自分の経験を何か、政治に活かすことができないだろうかという考えが、初めて浮かんだんです。

働きながらがん治療や不妊治療をする当事者として、なんでこんなにつらいんだろう、と思うことも多くて。納税しているのにどうして、支えてくれる制度がないんだろうって。その声を届けていかないと社会は変わらない、と。

そのときに、いまから4年後、もし私自身ががんを克服して元気で、子どもを産むことができて、政治に挑戦したいという想いが消えていなかったら、立候補しようって心に決めました。

無謀ですよね。夫は「何言ってるの?」という感じで真に受けていませんでした(笑)。

― でも実際には、4年後の選挙を前に、ご自身の中で指針にしてきた3つの条件がかなった。

はい。産後、若くして地方議員になられた方の書籍を読むなど、出馬に向けて勉強も始めていました。

ただ、お世話になった職場への自分なりの礼儀として、このまま一度も復帰せずに辞めることは避けたかったので、生後8ヶ月で娘を保育園に預けて働き始めて。
保活も大変だし、つらかったです。どうして待機児童は無くならないのか、憤りすら感じました。

そして、職場に戻って少し経った頃、「次の地方統一選挙に向けて、半年後に辞めたい」と思い切って上司に伝えました。そうすると上司が、「私もねえ、地方議員になろうと思ったことがあった。けど、あきらめちゃったから応援する」と言ってくれたんです…。

そこからは、仕事を辞めてしまうと保育園を退園しないといけなくなってしまうので、求職期間として認められている3ヶ月を選挙の準備期間に当てることとして、ぎりぎりまで働きました。

選挙の準備期間が想定していたよりも短くなってしまったことは、焦りましたね。私と夫のふたりチームで、毎日コツコツ、ビラを配って、街頭演説をして。
真冬の街頭に立ってビラを配っても誰も受け取ってくれないし、話を聞いてくれない。

最初は孤独だったけれど、それでも、続けるうちに耳を傾けてくれる人が増えていきました。

私が何者であるか、どうして政治を志すのか、ひたすら訴えていたら「私もがんなのよ」「あたなのことを応援しているよ」と、声をかけてくれる方もいて、励まされましたね。

― そして、見事当選されたんですね。ご自身のお身体のこともある中で、さらに子育てをしながら新しい舞台に立つこと、両立はなかなか大変だと思います。

当選したときは、娘が1歳8ヶ月でした。
一人しか産めない身体になってしまったこともありますし、もう本当に、命がけで産んだ娘なので、家族の時間は大事にしたいと思っています。

家族を幸せにできないと、社会にも貢献できないと思うので。妊娠中の5ヶ月の寝たきり生活で体力も落ちているので、無理はしないよう、夜の会合等は控えています。

私に票を入れてくださった方の顔を浮かべて、自分がどんな社会を実現したいか、そのために何をすべきかを基準に、限られた時間の中で取捨選択をしていますね。

― 様々な当事者経験を経た酒井さんだからこそ、たくさんの声を届け、成し遂げられることがきっとありますね。さて、これが最後のご質問になります。酒井さんがこれから、実現したいと思っている社会のことをお聞かせください。

はい。目に見えなくても、誰もが抱えているものがありますよね。

つらいときに、頼っていいと思えるコミュニティを地域に広げていきたい。困ったときに、荒い網目ではなく細かい網目で救えるような社会にすべきだと、私は思っています。

実際に区議として活動するなかで、1期目の今は壁に打ち当たることも多くて、社会を変えることは容易いことではないなあと感じています。
それでも、議会で質問したときに「酒井さんならではの視点でよかったよ」と言ってくれる人もいる。

当事者として、自分の経験だけでなく、経験者の方々の声をちゃんと届けていきたいです。

あのときつらかった自分を、今同じようなつらさを感じている人たちを、救っていける社会をつくれるように。

取材・文 / 徳 瑠里香、写真 / 根津 千尋、会場提供 / 江東区議会

 


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