出産直前39週0日、常位胎盤早期剥離により第二子を死産。信じがたい突然の喪失から、「同じ経験に苦しむ人の力になりたい」と望むようになるまで。

2019年4月、出産予定日の5日前に常位胎盤早期剥離により、第二子の子宮内胎児死亡が判明。無事に生まれることを疑っていなかった村田さんを突然の悲劇が襲います。悲痛な経験を経て、2020年6月に、第三子となる女の子を出産されました。死産からの激動の1年、悲しみとどう向き合い、心を立て直し、そして第三子を望むようになったのか。無事に第三子を出産された今、絶望の淵から現在に至るまでの心の変遷を聞きました。

村田美沙希/Misaki Murata 1990年生まれ。静岡県出身。2013年、順天堂大学医療看護学部を卒業後、順天堂医学部附属静岡病院の救命救急センターにて、看護師として従事。
2016年に結婚、2017年3月に第一子(長女)を出産。同年、夫の転勤のため職場を退職し札幌に移住。翌年2018年に第二子を妊娠するも、39週0日で常位胎盤早期剥離により死産。死産から5ヶ月後、訪問看護師として仕事に復帰。その間に第三子の妊娠が分かり、妊娠5ヶ月目に退職。2020年6月、第三子(次女)を出産し、現在育児奮闘中。


その日はなんの前兆もなくやってきた

  陣痛だと思い込んだ痛み

ー 28歳で第二子の妊娠がわかった時、その後の妊娠生活や出産への心配は特にありませんでしたか?

そうですね。私は第一子の妊娠をきっかけに結婚して出産。その後すぐに第二子を妊娠しました。まだ20代で年齢的なリスクの心配はないし、妊娠中に発症しやすいといわれる病気とも無縁のまま臨月を迎えていたので、危機感はなかったです。自分が看護師なので、多少過信もあったかもしれません。

38週6日の妊婦健診では、エコーで元気な赤ちゃんの姿を確認しています。子宮口がまだ開いていなかったので、担当医師と相談して、4日後に予定入院、陣痛促進剤使用で出産、と決めたところでした。

ところが39週0日、その健診の翌朝に生理痛のような波打つ痛みで目が覚めます。前駆陣痛だと思い、夫に今日が出産になるかもしれないと伝えました。痛みは不定期に起こり、動けないほど下腹部が痛む時もありましたが、おしるしや破水はなく、落ち着いている時は食器を洗ったり洗濯をしたりしていました。

ただ、ふと、そういえば今朝はまだ一度も胎動を感じていない、と気付きました。でも、朝は胎動を感じないこともあるし、その時は腹痛に気を取られていたので、さほど気には止めませんでした。

それから胎動カウント(※1)をしましたが、やはり胎動を感じられなかったため、念のためかかりつけの病院へ電話しました。助産師さんに「村田さんは経産婦だし、看護師だし、陣痛かどうかはきっと判断できますよね。出産直前は、胎児の頭部がお母さんの骨盤にはまって胎動が減ることも多いです。陣痛が15分間隔になったらもう一度連絡ください。」と言われ様子を見ることにしました。

(※1)妊娠後期に胎動の回数を数えて胎児が元気か確認すること。個人差はあるものの、通常は20分に10回ほど胎動を感じられる。

―その時はまだ赤ちゃんに緊急事態が起きているとは、想像すらしていませんでしたか?

まったく思っていません。今日出産だろうな、としか。当時2歳の娘にも「今日は公園に行けないよ、ママの病院に行こうね。」と話していました。ただ40分ほど経過しても胎動がなく、さすがに不安になり再度病院へ連絡。入院準備をして夫と娘と病院へ行きました。


 

  嘘でしょ?どうして?―突然直面した信じがたい現実

ー 病院についてすぐに診察を受けたんですね?

はい。産科病棟へ着くとすぐに助産師さんが内診をして、子宮口が2センチ程開いていることを確認。次にドップラー(胎児の心音を確認する超音波装置)を腹部に当てるのですが、どこに当てても反応がありません。この時は助産師さんも私もドップラーの調子が悪いのか、当て方が悪いのか、としか思っていませんでした。

それから医師がすぐにエコーを確認し、驚くように言いました。「これは心臓が止まってる。え、村田さん昨日健診してるよね。なんでだ。なんでだろう。心臓止まってるよ。これはもう助からないな…」医師は、独り言のように、私に伝えているように、何度も「心臓が止まってる」と言い、私は「嘘、嘘ですよね?」と繰り返すことしかできませんでした。

―現実とは思えませんよね…。起きていることを知った当時、どのような心境でしたか?

本当に現実とは思えませんでした。昨日までお腹の中で元気だったのに、まさか心臓が止まるなんて。

ただ、混乱はしていましたが、不思議とパニック症状に陥ることはなく、医師の話を聞いていました。助産師さんが肩をさすってくれたことや、お腹をあたためてくれたことも覚えています。泣きながらも取り乱さなかったのは、私は看護師として救命救急センターでの緊迫した現場経験があったので、この時も状況確認をすることに意識が向いたのもしれません。

診察室に呼ばれた夫も冷静でした。医師の話を聞いて「ああ、そうですか。処置に時間がかかっていたので心配はしていたんですが。まさか、そうですか…。」と、涙を見せることはなく、泣いている私に「大丈夫だからね。美沙希のせいじゃないからね。」と言ってそばにいてくれました。2歳の娘も普段なら「ママ、ママ」と甘えてくるのに、この時ばかりは静かにパパに抱っこされていました。

 

  胎盤剥離による緊急手術の実施

医師から私と夫に、赤ちゃんが亡くなっている原因は、分娩より前に胎盤が子宮壁から剥がれしまう「常位胎盤早期剥離」の可能性が高く、このままでは母体も危険なので緊急帝王切開で胎児を取り出す、という説明がありました。そこから私は意識を失ってしまい、意識が戻ったのは手術室に入る前です。体のあちこちが管につながれ身動きが取れない状態でしたが、痛むお腹に触れてみたら、カチカチに硬くなっていました。

実は手術後2日間ほど、意識が戻らなかったんです。麻酔や鎮痛剤の影響でしょう。相当出血もあったようで、カルテには約4リットル輸血したと記録がありました。

―壮絶な体験ですね…。術後、意識が戻られてから一層辛い時間を過ごされたのではないでしょうか。

そうですね。意識が戻った直後は全身が動かないくらいだるくて、夫に支えてもらいながら、赤ちゃんのいなくなったお腹をさわっては涙が止まりませんでした。

病院側の配慮で、産科病棟の相部屋ではなく個室にしてくれましたが、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくると苦しくなり、早く家に帰りたくなりました。



退院までの時間と退院後の生活

  亡くなった息子と、家に帰りたい

入院期間は6日間と短かったのですが、死産の場合は1週間以内に死亡届を出し、火葬の手配をしなければなりません。通常、遺体は病院から直接火葬場へ運ばれ、すぐに火葬されるそうです。

私の場合も、術後で動けない私は同行せず、夫と娘だけが火葬場に行く、という説明を受けました。でもそれはいやでした。少しでもいいから、どうしても息子と過ごす時間が欲しかった。医師は気持ちを汲んでくれ、亡くなった息子と共に退院し、2日間自宅で共に過ごしてから一緒に火葬場に行くことができました。

 

 「いるはずの我が子がいない」暗闇と混乱の日々

ー退院後の生活はどのように過ごされましたか?予定していた生活とは異なる現実が待っていたと思いますが…。

もともと産後は2週間程、義母、母、姉に手伝いに来てもらうことになっていたので、予定通り来てもらい、家事と娘の保育園の送迎を頼みました。私は術後の療養が必要でしたし、なにより外に出て誰かに会うことや、道で赤ちゃんを見ることも避けたいと思っていました。誰かに会った時に、死産したことを伝えることも、相手を困惑させることも、慰めの言葉を言われることも辛くて、一歩も外に出ませんでした。

でも母達がいなくなると、娘のお迎えはもちろん、食事の支度、洗濯、買い物、といった家事を再開せざるを得ません。少しずつ外にも出るようになりますが、二人の育児や家事に追われる賑やかなはずの生活が、ただただ静かな毎日に変わってしまったのです。

一人になると、息子のために用意していたオムツやベビー用品を見ながら泣き続けました。実際、退院後に母達が家にいた時は泣かなかったんです。というか泣けなかった。心配かけたくない気持ちと、励ましや慰めの言葉すら聞きたくない、という心境でした。

―ご主人の様子はいかがでしたか?

夫は火葬の翌日から日常に戻りました。泣くこともなく、仕事から帰宅しても普段と変わらず淡々と暮らしていました。夫婦の会話も、亡くなった息子の話をすることもなく、娘の保育園でのことなど、以前と同じような話をしていました。

でも、徐々に夫との会話が減り、喧嘩をするようになりました。その度に、なぜ私だけ助かってしまったのか、なぜ今私はここにいるのか、なぜ息子を救ってあげることができなかったのか、と自分を責め、息子のもとに逝きたい、と写真や骨壺を持って家を飛び出したことも、一度や二度じゃありません。



悲しみを能動的に受け入れることで、喪失感や後悔から立ち直っていく

  助産師さん達の対応が、後々、悲しみを乗り越える大きな支えとなる

―絶望的な体験をされて、それでも現在、第三子を出産されました。ここからは、死産から第三子出産までの約1年の間に起きていた、村田さんの心理状態の変化について聞かせてください。
亡くなった息子さんと一緒に病院から家に帰り、火葬までの2日間一緒に過ごされたということですが、その時間があるかないかで、その後の乗り越え方や向き合い方に違いがあったと感じますか。

はい、大きな違いがあると思います。一緒に家で過ごせた時間、息子の体は冷たくても、沐浴させてあげたり、そばにいることができました。母親として過ごせる時間があって本当によかったと思います。もし同じ経験をした方に伝えるなら、できることならぜひ赤ちゃんと家に帰って、わずかな時間でも一緒に過ごしてほしいと伝えたいです。

それから、入院期間中の助産師さんの対応がとても配慮のあるものだったことも、私が今、後悔なく過ごせている理由でしょう。早い段階で第三子を望めるようになったのは、あの時の助産師さん達のおかげです。

―具体的には、どういう対応だったんでしょうか?

まず、帝王切開で取り出した赤ちゃんを、すぐに夫に抱かせてくれたそうです。まだぬくもりのある胎児を夫に抱かせてくれたことがすごく嬉しかった。その後も、赤ちゃんの体を冷やす前に「赤ちゃんを冷やしてもいいですか?」と夫に確認し、亡くなっているから冷やす、という流れ作業ではなく、赤ちゃんと私達に礼儀を尽くしてくれました。

私が個室へ移った後も、「赤ちゃんに会いたい時はいつでも連れてきますよ」と積極的に聞いてくれたんです。聞きづらいことですよね、亡くなっている赤ちゃんに会いたいか、なんて。私が看護師の立場だったら、余計傷つけてしまうと思って躊躇してしまうでしょう。

入院生活を通じて、助産師さんたちは亡くなった我が子に、まるで生きている赤ちゃんと同じように敬意を持って接してくれました。「太陽が眩しいね」「もう朝だよ」など声かけをしてくれたり、毎日沐浴してくれて、毎回会うたびにきれいな産着を着せてくれたりしていました。私が「胸が張って辛い」と言うと、「母乳をあげましょう」と迷わず言ってくださったことは驚きました。

病室に来るたびに「赤ちゃん寝てますけど会いますか?」「添い寝しますか?」「沐浴しますが一緒にされますか?」「授乳の時間ですがどうされますか?」というように、私にも、とにかく赤ちゃんと触れる機会をたくさん与えてくれました。だから時々、赤ちゃんは本当に死んでいるのかな、と思ってしまうくらい、生きている赤ちゃんと変わらない入院生活を送っていた気がします。

―本当に寄り添ってくださる助産師さん達だったんですね。でもその提案がかえって苦しい時はありませんでしたか?

正直、最初はなぜそこまでしてくれるんだろう、そっとしておいてほしい、とも思いました。それに、その時は医療者に対して疑いの目もありましたからね。なんで助からなかったんだ、なんで助けてくれなかったんだ、なんで前日の健診で胎盤剥離を見抜いてくれなかったんだ、と。

でも親身に世話をしてくれて、声をかけてくださる助産師さん達に見守られる中で、次第にありがたいと思うようになりました。同じ経験をされた方の中には、入院中に言われたささいな言葉で深く傷ついた、とか、本当は赤ちゃんを抱っこしたかったけど言えなくてすごく後悔している、という人が多くいるようです。

ー「前日の健診で胎盤剥離を見抜いてくれなかった」という医療者に対する不信感は、その後どのように消化されたのでしょうか?

少し時間はかかりましたが、これもまた助産師さん達のおかげで不信感は消えていきました。死産の直後は、担当医師の落ち度を疑い、カルテを一部開示してもらい、直前の健診内容を詳細に説明してもらいました。私のように一切兆候がないケースもあり、予測は難しく、むしろ母体が助かったのは奇跡的だった、という説明を受けましたが、なかなか納得はできませんでした。

ただ、入院生活の中で、助産師さん達の献身的な看護と、真摯に心に寄り添ってくれる姿勢が、私の気持ちを変えていったんです。痛みがあれば24時間体制で病室に駆けつけてくれ、悲しみに堪えられない夜はそばについていてくれました。そんな助産師さん達の優しさに触れながら、次第に「ああ、あれはどうすることも出来なかったのかもしれない」と気持ちの整理がついていきました。そして、医師に抱いていた疑念も、自然と感謝の気持ちに変わっていったんです。

この入院期間は、私自身が自分と向き合う時間にもなりました。それまで、自分よりも人を優先してしまい、自分自身を大切にしてこなかったことを深く見つめ直しました。想像もしなかった死産という経験が、それまでの価値観や死生観を見つめ直す、ひとつの転換点となる大切な時間となったんです。

最後の健診でのエコー写真



  ありのままに悲しむことを自分に許す

悲しいから目をそらすのではなく、しっかりと向き合われたんですね。その方が、心が回復していく時間が短くなるのかもしれませんね。

そうだと思います。退院してから、夫や娘の前では出来る限り泣かないようしましたが、日中の一人の時間は悲しむ時間だと思って、毎日思いきり泣きました。3ヶ月くらい毎日。悲しくて悔しくて自分を責める日もあれば、息子が「ママ頑張れ」と応援してくれているように思える日もあったり、前に進んだり戻ったりの繰り返し。少しずつ心が落ち着き始めたのは、死産後半年くらい経った頃でしょうか。

 

  私だけじゃない。同じ経験をしている方々の存在を知る

―その苦しい時間をよくお一人で乗り越えられましたね。その頃、村田さんの救いになったものはあるんでしょうか。

入院期間中から、死産についてネットで調べ始め、同じような体験をされた方がたくさんいることを知りました。そして、ああ、私だけじゃないんだ、自分だけに起きた不幸ではないんだ、と思えたことで、心が少し楽になりました。

退院後も、ネットや関連する本を読み続けています。なかでも「誕生死」(著・流産死産新生児死で子をなくした親の会)という、出産前後に子どもを亡くした何組かのご家族の体験談をまとめた本には、他の方々がどのように前を向けるようになったかが書かれていて、大きな救いになりました。

それからドイツの精神科医であるキューブラー・ロスが説いている悲しみの段階(※2)についても学びました。自分は今悲しみのどのプロセスにいるかを客観的に知る理論です。今はショック期で何も考えられない、人との接触を拒否したい時期、悲しんでいい時期、などを知ることで自分を責めずにすみました。

(※2)キューブラー・ロスは、死を告知された本人や家族がどんな精神的段階を経ていくのかを分析し「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5つの段階に分類した。


  メモリアルベアと娘が、私にくれるもの

それから、もうひとつ大切な存在として、メモリアルベア(くまのぬいぐるみ)があります。死産の場合、生まれた子どもは戸籍には載りません。でも何か息子の存在を残したいと思い、夫の提案でこれを作りました。「天使のベア」というものを作っている企業があって、ベアは息子の身長・体重と同じです。このベアは、亡くなった息子のニックネームから「タク」と名付けました。

娘は弟のタクが来るのを楽しみにしていたので、このベアが届いてからはいつも「タク、タク」と話しかけて一緒に遊んでいます。まるでタクが生きているかのように、このベアと毎日会話をしたり、お世話をしたりするんです。彼女は3歳になりましたが、先日も家族で食事へ行く時、「お姉ちゃん達ちょっとご飯食べてくるからお留守番でもいい?」とベアに聞いていました。そんな娘を見ていると、ああ、息子はずっとそばにいてくれている、と感じます。



 
第三子妊娠への意識の芽生え

―少しずつ悲しみが消化されていく過程で、第三子がほしいと思うようになられたのですか。

そうですね。死産後1年未満で第三子を望むというのは、早いと思われるかもしれません。2年、3年と悲しみに暮れる方も多いはず。でも私は、3ヶ月間しっかりと悲しむ時間を持ったことで、心が回復するのを実感し、働く意欲も出てきました。そして訪問介護の仕事を始めると、人とのふれあいが楽しくなり、早く赤ちゃんが欲しい、と思うようになったんです。

体験談などを読む中で、流産や死産を経験した後、すぐにまた子どもが欲しいと思う人が多いことも知り、また子どもを望むことは悪いことではないんだ、と前向きに捉えるようになりました。

―第三子を妊娠されてから、不安や恐怖心はありましたか。

ええ、もしも同じことが起きたらどうしよう、と常に不安でした。家庭用ドップラーを買って、自分で毎朝確認していましたね。だから第三子妊娠中は楽しみというより、また助からないかもしれないという、最悪のケースを想像することの方が多かったかもしれません。

妊娠後期に受けたセラピーワークのおかげでだいぶ気持ちが楽になりましたが、帝王切開で出産する手術中も、産声が聞こえるまで、不安と緊張で涙が止まりませんでした。



流産、死産を経験したお母さん達に寄り添いたい

  「グリーフケア」を知り、同じ経験で苦しむ人の力になる方法を探す

―突然の喪失から、第三子を授かるまでのわずか1年という時間の中で、村田さんご自身がとてもたくましくなられているように思います。本や他の方の体験談が大きな役割を果たしているようですね。

先ほどお話しした本「誕生死」のなかで「グリーフケア」というものを知りました。悲しみの渦中にある人に寄り添い癒すことですが、グリーフ(悲嘆・喪失)について学びを深めれば、息子の死を通して得られるものがあるかもしれない、そして流産、死産で苦しむ人たちに自分も何かできることがあるかもしれない、と思うようになりました。

夫の薦めもあり、「グリーフ専門士」の講座を受講。この学びによって、自分を客観視し、肯定できるようになれたし、グリーフの渦中にいる人への接し方も学ぶことができました。

―まだご自身が息子さんを亡くされて2年も経っていないのに、同じ経験をした方の人生に伴走したいと思えるのは、本当に前進していらっしゃるのですね。もし村田さんが今、同じ経験をして苦しんでいる方に声をかけるとしたら、どんな言葉を伝えますか?

そうですね、きっと「泣いていいんですよ。思い切り泣きましょう。」と声をかけるかな…。前向きな言葉をかけるより、悲しみや痛みを共に受け止めたい。

今この瞬間にも、私のように悲しみの淵で子どもと一緒に死んでしまいたい、と苦しんでいる人がいると思うと、どんなことでも力になりたいと思います。

  子どもを亡くしたお母さん達を少しでも癒したい。小さな小さな我が子に作るお洋服。

―ご自身の中で整理がつかなくてもおかしくないのに、そこまで考えられているとは…。

実は、第三子妊娠中に、亡くなった息子のための洋服作りを始めました。流産や死産で産まれた赤ちゃんは、正常に産まれる赤ちゃんよりはるかに小さい。そうすると用意していた新生児服が大きすぎて着せてあげられないんです。こういった小さな赤ちゃんのためのお洋服を作る活動を知って、私もぜひやりたいと思いました。

多くのお母さん達は亡くなった我が子のために何かしたいと思っています。だからお母さんご自身で、子どものために作ってあげられるような手縫いキットを用意して、寄付したいと考えています。この洋服作りという作業もまた、悲しみを癒す効果が高いはずです。

―お洋服作りのアイデア、本当に素晴らしいですね。喪失後の心のケアこそ、その先に続く人生に大きな影響がでる部分だと思うので、とても大切ですね。

洋服を縫うことが、私にはグリーフワーク(悲嘆を癒す作業)になっていて、息子への感謝の気持ちの表れでもありますね。

今年の息子の一周忌では、死産直後のように強い悲しみに襲われました。これからも息子の誕生日には、きっと私の心は乱れるんだろうと想像しています。そして今後もこの思いを背負っていくんだと思っています。

どんなに医療が進んでも、どうしても救えない命はこの先もあると思うんです。だからこそ悲しんでいるお母さん達の心の拠り所になりたいし、孤立させたくない。あなただけじゃないよ、と伝えたいです。

取材・文 / タカセニナ、写真 / 本人提供


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