不妊治療、死産、里親、特別養子縁組、そして移住。「産んでいない」痛みを抱えながら、地域に開いた家族をつくる夫婦の物語<前編>

不妊の原因がわからないまま5年、高度な不妊治療を4年、そしてようやく授かった我が子を死産。その後ふたりで話し合いを重ねて、里親になり、里子として家庭に迎えた子どもと特別養子縁組をして、自分たちの家族を築いている志賀志穂さんと将士さん。

出会いから25年。命の重みと子どもの尊厳、産んだ母と産んでいない母、血のつながらない家族のかたち。最愛の息子を失った痛みとともにありながら、答えのない問いの中で行動を重ね、一緒に歩み続ける夫婦の物語ー。
<前編>では、不妊治療から死産までの歩みを振り返ります。

志賀志穂/Shiho Shiga 1974年生まれ、埼玉県出身。『あゆみの会』(里親・特別養子縁組など血縁によらない家族をつなぐオンラインの全国サロンやワークショップを主催)の代表。10代の頃からDJ兼クラブイベントオーガナイザーとして都内のクラブ、ライブハウスで活動。結婚後、地域の自治会役員に就任し困っている高齢者や障がいの方に出会ったことがきっかけとなって、日本福祉大学へ入学。精神保健福祉士。徳島県の古民家にて「社会へ開く育児」に挑戦中。

志賀将士/Masashi Shiga 1974年生まれ、埼玉県出身。17歳よりブラックミュージックをルーツに持つインディーズバンドのベーシストとしてライブ活動をしていたが、結婚を機にモノづくりエンジニアにキャリアチェンジ。さらに移住先の徳島県では主体的に子育てをするために、息子の保育園の隣という理由で製材会社に入職。家族で過ごす時間を増やして、息子と一緒にウミガメの海(自宅から徒歩5分)とウクレレを楽しみたい。

 


真っ暗なトンネルを当てもなく歩いた、4年間の不妊治療

  38歳で初めてわかった、不妊の原因

ー おふたりが出会った頃のお話から、遡ってお聞きできればと思います。

志穂 21歳の頃に出会った当時、夫はバンドマンで、私はクラブのDJやイベントオーガナイザー、ラジオの選曲などをしていて、二人とも音楽に囲まれた生活を送っていました。お互いの感性に強く惹かれ合って、自然な流れに沿うように結婚しました。

ーそこから妊娠・出産を意識して、不妊治療を始めたきっかけは?

将士 子どもは自然にできればいいなあくらいの気持ちだったんですが、生活が安定してきた30代になってもなかなか授からなくて。33歳の頃にふたりで一通りの不妊の検査をしたんですが、どちらにも全く問題はありませんでした。妻は1年くらい通院し人工授精も2回して、その後も自分たちでタイミングを測っていたけど、妊娠はできなくて、不安を募らせていきました。

志穂 当時の私は福祉施設で障がいがある方の就労支援をする仕事をしていたので、突然休みを取ることは難しくて。35歳までには子どもを授かりたいと思っていたけど、仕事にやりがいも感じていたし、自分の歩みを止めたくないという気持ちもあって。一通りの検査をしたときの何も問題がないという結果にすがって、子どもができないことからは目を背けていました。

その後、38歳になって不妊治療専門病院で検査をし直したら、過去にした盲腸の手術の影響で、「卵管閉塞」だったことがわかったんです。

 

  目先の数値に囚われ、可視化できない苦しみを背負う日々

ー初めて検査を受けてから5年経って、やっと不妊の原因が判明したんですね。

将士 はい。すぐに同じ病院で再び詳細の検査をして、私たち夫婦には体外受精しか選択肢がないことがわかりました。いざ治療を始めてみたら、妻は仕事をしながら、薬を飲んでホルモン注射を打って、月に何度も通院して、本当に大変だったと思います。

志穂 真っ暗なトンネルを、当てもなく歩いているような気分でした。なんでもデータとして数値化されることが、母親としての点数を突きつけられているようで本当にしんどかった。数値をクリアしていかなきゃと、自分の気持ちを置き去りにして目先の数字に囚われていました。

かかるお金も私たちの場合は1回80〜100万円で、治療によって仕事も思うようにできない中、精神的な負担に加えて経済的な負担も重くのしかかってきて。相当追い詰められていましたね。

ー高度な不妊治療を、どれくらい続けていたのでしょう?

将士 初めは高額なので1回だけやってみようと思っていたんですが、1回目は採卵もできなくて。なんでだろう? もう1回やってみようと、病院も3回移って、トータルで5回ほど採卵しました。

志穂 期間にすると38歳から42歳までの4年間。様々なホルモン剤を飲んで、毎月病院に通って、回数や年月の数字だけでは可視化されない苦しみがずっとありました。

仕事も雇用形態を非常勤に変えて、休めるようにして。未来が見えなくて、退職するわけにはいかないけど自分の仕事に責任を持ちきれない。サポートを必要とする障がい者の方よりも自分を優先しているようで無責任だと、職業倫理観が揺らぎ葛藤していました。

ー不妊治療中、夫婦ふたりでどんなコミュニケーションをとっていましたか?

将士 家で話すとお互いに感情的になるので、あえてドライブやカフェに出かけるなど、環境を変えて時間を決めて話すようにしていましたね。

志穂 夫を責めるトーンにならないように、話すときは「あなたが〜」と相手を主語にするのではなく、「私はこう感じたよ」と自分の気持ちを軸に話すことを意識していました。とはいえ、私はひとり追い詰められるし、なかなかお互い冷静に話をするのは難しかったです。

 


最愛の我が子の死産。「妻は母親だった」

  我が子の命の終わりを自分たちで決めたくない

ーそこから、4年間の不妊治療に終止符を打ったのは、何か決断のきっかけがあったのでしょうか?

将士 私たちが決断をしたわけではなく、死産してしまったんです。4回目の体外受精で初めて受精卵を子宮に戻したら、1回で妊娠したんです。夫婦で涙を流しながら喜びました。ところが、出産する総合病院に通い始めた頃、もともと通っていた不妊治療専門の病院で胎児にむくみがあると言われてしまい……。

志穂 むくみはNT、つまり染色体異常で、ダウン症など障がいの可能性があるということでした。

ーそのことを聞いたときは、どういう心境でしたか?

志穂 夫はショックを受けていましたが、私は仕事で障がい者支援をしてきたこともあって、障がいがあったとしても産むことは決めていました。同時に、障がい児を育てていく大変な現実も知っていました。だから、詳細な診断を受けて、障がい者のための社会保障制度や法律を調べて、少しでも早く子どもを育てていく準備をしたい、と思っていたんです。

でも、産科の医師は母親である私の精神的負担を考慮してか、胎児の深刻な状況を告げることを避けていて。できる治療法もないとして、通常の妊婦検診と同様の経過観察のみ行う、という方針でした。

そして妊娠5ヶ月になる頃、医師からは中期中絶を勧められました。胎児の重篤な症状から、おそらく出産には至らず心拍が停止するであろうことと、そのまま妊娠を継続する母体への負担を考慮して、とのことでした。

それでも私は、エコーで元気にクルクルと回ったり、小さな心臓がトクトク動いたりする我が子の命の終わりを自ら決めるなんて、どうしてもできませんでした。我が子が一生懸命生きようとしている限り、中絶はしたくないと。

すがるような想いで、お腹の子どもが受けられる医療がないかと必死に探し、胎児エコーの出生前診断を受けました。そこで、重篤な18トリソミーであることが判明したんです。出生前診断を受けるときは、基本的に遺伝カウンセリングを受けることが義務付けられています。私は遺伝カウンセラーに「この子を治療できるような、大きな病院への紹介状を書いてほしい」と訴えました。

でも、遺伝カウンセラーからは抑えた声で「あなたの子どもよりも助かる見込みのあるたくさんの子どもが、治療を待っています。だからあなたの子どもは、治療のために並ぶ子どもたちの列から外れなさい」と告げられました。さらに、「たとえ出産に至っても、あなたの子どもが1年以上生きる見込みは10%に満たない」とも。子どもの命を救う、厳しい現場をよく知った上での意見のようでした。

我が子の命をつなぎたい一心だった私は、子どもの命を助けてくれる人は誰もいないんだという絶望を前に、身が引き裂かれる思いでした。

将士 そこから、僕らにできることを見つけることができないまま、我が子の心拍は止まってしまったんです。

 

  音も色もない無の世界にいる妻を救う、一筋の光を探し求めて

ーもしよければ、息子さんの心拍が停止してしまったときのお気持ちを聞かせていただけますか。

志穂 音も味も色も何もない、ただただ静かな世界が広がっていました。悲しいとかじゃなくて、本当にシーンとした無の世界。プールの底から世界をのぞいているような気分で、夫の励ましも医師の言葉もまったく届きませんでした。

無の世界でひたすら、起きている間はずっと、思いつく限り、自分の行動への後悔と我が子が命を落とした理由を、グルグルと考え続けていました。

私が妊娠中にコーラを飲んだせい?あの日に階段を登ったせい?もっと早く治療をしていたら?我が子が死ななければならなかった理由は?って。それはもう本当に、過去の自分の言動にまでに遡って、夫との結婚や小学生の自分までも否定するくらいに。気持ちがコントロールできなくなって、ノートにずっと書き殴っていました。

将士 本当につらくて、見ていられなくて。僕はどうしたらこれ以上妻が苦しまなくてすむか、何ができるかをずっと考え続けていました。

志穂 中期中絶として扱われる死産は、手続き上、書類の「経済的事由」にチェックをしなければならず、夫も立ち会えない。かつ、通常の出産をする妊婦さんと同室で、出産時に出血があるため、翌日に行われる小さな我が子の火葬に、母親の私は参列できない。医師からそのような説明を受けました。夫がそれでは納得できないと、グリーフケアができる病院を探し回ってくれたんです。

将士 仕事の昼休みに電話をかけ続けて、亡くなっている我が子を「処置」ではなく「出産」として産める場所を探しました。あしらわれて、何度もかけ直して。なんとか僕たちの希望が叶う病院を見つけました。人生で一番がんばったかもしれません。

志穂 夫ががむしゃらになって、なんとか希望が叶うクリニックを見つけてくれ、そこで私たち家族の“心の父”とも言える先生に出会いました。

ーそのクリニックでは、どんなお産がなされたのでしょう?

将士 妻は出産の数日前から、病院の案内図にはない特別室に入院しました。16時くらいから陣痛室に入って、僕も立ち会って、出産したのが夜中の2時。

志穂 出産中、血がドバドバ落ちてきて、夫はもう見てられませんって感じで号泣していて。普段は穏やかな院長先生が「みんなこうやって生まれてきたんだからちゃんと見なさい!」って諭してくださったことが、印象に残っています。

将士 院長先生をはじめ助産師さんも、私たちの死産を通常の出産と同じようにして、亡くなった我が子を大切に取り上げてくださって。クリニックの職員全員が参列するお葬式まで行ってくれました。

 

  痛みに耐え、我が子を産んでくれた妻を誇りに思う

志穂 取材に際し、私たちが死産したときのことについて、夫が書いてくれた文章があるんです。

ーよかったら、読んでもらえますか?

将士 はい。

『夫である僕からも、どうしても話しておきたいことがあります。死産のことです。妻はお産のときに全く泣きませんでした。その日はお産が何件もあって、陣痛室は入れ替わり立ち替わり出産を迎える妊婦の方たちがいました。妻もその一人だったのですが、なかなか破水が始まらず、誕生を迎えた赤ちゃんの泣き声と陣痛に苦しむ妊婦さんの絶叫が聞こえる中、妻は静かに陣痛に耐えていました。私は他のお母さんみたいに元気な赤ちゃんは産めないから、この痛みはダメな母としての痛みだなあ、と言っていました。

痛みに耐える妻はどこか毅然としていて、「私が最期に母としてできることは、可愛い赤ちゃんを産むことだけだから」と、僕の手を握りながら繰り返していました。なぜなら僕たちの子どもは、生まれた直後すぐ、僕が死亡届を役所に出さないといけません。翌日には赤ちゃんはすぐ火葬しなければならず、僕たちが家族3人で一緒にいられる時間は、出産の瞬間とそのあと病室で過ごすわずかな時だけで、ほとんどありません。

出産後、その限られた時間の中で赤ちゃんを抱き、見つめる妻はやさしい笑顔でした。でもそのときの妻の下半身は、残った胎盤を掻き出す処置のためにまだ血だらけでした。処置は激痛で、妻の両足は痛みに耐えきれず小刻みに震えていたので、助産師さんに押さえられていました。

男の僕にとって、出産があまりに衝撃的で、妻が今まで何度も不妊治療の処置が痛いと言っていたことを聞き流していた自分を、とても後悔しました。退院する際、病院で関わってくれたスタッフの方に明るくお礼を言う姿を見たときは、まさしく妻は母親だったと実感しました。

そんな妻を僕は、誇りに思います。

僕は僕で、初めて抱いた我が子への、初めて感じた父としての愛情が溢れ出て止まらず、胸がいっぱいになりました。ここから僕は、本気で妻と一緒に家族をつくりたいと、より一層強く願うようになりました』ー。

 

取材・文/徳 瑠里香、写真/高橋 麻沙美・本人提供

 


不妊治療、死産を経て、「妻と一緒に家族をつくりたい」と強く願った将士さん。一方、志穂さんは大きな喪失感に、生きる気力さえも失ってしまいます。つづく<中編>では、絶望の淵から、ふたりがどうやって小さな希望を手繰り寄せていったのか。我が子を失った痛みとともにありながら、里親として子を迎え、新しい家族を築くまでのふたりの歩みをたどっていきます。


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