不妊治療、死産、里親、特別養子縁組、そして移住。「産んでいない」痛みを抱えながら、地域に開いた家族をつくる夫婦の物語<中編>

不妊治療、死産を経て、「妻と一緒に家族をつくりたい」と強く願った将士さん。一方、志穂さんは大きな喪失感に生きる気力さえも失ってしまいます。<前編>につづく<中編>では、絶望の淵から、ふたりがどうやって小さな希望を手繰り寄せていったのか。我が子を失った痛みとともにありながら、里親として子を迎え、新しい家族を築くまでのふたりの歩みをたどっていきます。

志賀志穂/Shiho Shiga 1974年生まれ、埼玉県出身。『あゆみの会』(里親・特別養子縁組など血縁によらない家族をつなぐオンラインの全国サロンやワークショップを主催)の代表。10代の頃からDJ兼クラブイベントオーガナイザーとして都内のクラブ、ライブハウスで活動。結婚後、地域の自治会役員に就任し困っている高齢者や障がいの方に出会ったことがきっかけとなって、日本福祉大学へ入学。精神保健福祉士。徳島県の古民家にて「社会へ開く育児」に挑戦中。

志賀将士/Masashi Shiga 1974年生まれ、埼玉県出身。17歳よりブラックミュージックをルーツに持つインディーズバンドのベーシストとしてライブ活動をしていたが、結婚を機にモノづくりエンジニアにキャリアチェンジ。さらに移住先の徳島県では主体的に子育てをするために、息子の保育園の隣という理由で製材会社に入職。家族で過ごす時間を増やして、息子と一緒にウミガメの海(自宅から徒歩5分)とウクレレを楽しみたい。

 


「子どもを失ったのは君だけじゃない」生きる力を与えた、夫の涙

  悲しみの底から手を引いた、ある親子との出会いと夫の号泣

ー死産を迎えてからの日々は、どのように過ごしていたのでしょう?

将士 出産したクリニックでは、どうして僕らにここまでしてくれるんだろうと思うほど、あたたかくケアしていただきました。でも自宅に帰って来てから、妻は日中、一人ぼっちです。

妻は我が子を失った絶望から、生きる気力をなくしていました。高齢な自分の身体のせいだと責め続ける妻の不安を軽減したくて、不育症の検査も受けたけど問題はなく、不妊治療も含めてこの先どうしていけばいいのかわからず、立ち止まってしまいました。

志穂 当時の私は本当に、自分が生きていることが許せなかった。子どもを殺して生き延びている母親だと思っていたんです。泣いて、泣いて、泣きすぎて、体中が痛くなって、じっと座っていられなくて意味もなく家中を歩き回って。

妊娠が発覚したときに仕事も辞めていましたし、SNSも全部やめてしまい、電話にも出ないから、心配した友だちから手紙が届きました。人にも一切会わず、果たしてどうやって暮らしていたか、毎日ご飯を食べていたのか、当時の生活の記憶がありません。

ーそこから状況が変わっていったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?

志穂 酷い生活を送りながら、これからどうしていいかもわからず、まさに救いを求めるように、夫婦ふたりで13トリソミーの子どもたちの写真展を見に行ったんです。

会場に着くと、車椅子に乗って医療機器をつけた13トリソミーのお子さんとそのお母さんが、明るく迎え入れてくれました。私はその親子の前で、「なんでうちの子は産まれてこられなかったのでしょうか?あなたのお嬢さんはこんなにも可愛いのに!」と泣き崩れてしまったんです。

すると、その子は私の手をしっかり握って笑いかけてくれました。お母さんも初対面での私の失礼な態度に対して「うちの娘を本気で可愛いと言ってくださる方がいるなんて!ありがとうございます!」と、怒るどころか喜んでくれたんです。

帰り道、そんなやりとりを静かに見守っていた夫が、駐車場に着くなり人目を憚らず、うわああああああって崩れ落ちて。「僕だって子どもを失った父親なんだ!子どもを失ったのは君だけじゃない」って、子どもみたいに泣きじゃくったんです。夫のそんな姿を見たのは後にも先にも、この一度きりでした。

私はあまりの衝撃に涙も引っ込んで、死にたいなんて言っていちゃダメだ、この人のためにもちゃんと生きなきゃって思いました。どうして私は、今まで夫の苦しさに目を向けず、一人で悲しみの底に沈んでいたんだろう。これからは、亡くなった我が子に誇れるような生き方をしていこうと。帰宅後夫に、「私、生きるって決めたよ、がんばるよ」って伝えました。

 


ふたりを里親に導いた出会い。「私たち大人が子どもの命の線引きをしない」

  17歳の高校生の妊婦、父親のような院長先生の存在が、親になる選択を後押し

ーそこからおふたりで、里親や特別養子縁組という選択肢を検討していったのですか?

志穂 以前、我が子を失って半年が経った頃、私が「子どもを失った私には何の価値もない」と泣きながら訴えたときに、夫が涙を流しながら言ってくれたんです。「未来ある子どもたちのために、僕たちの残りの命を活かして生きていきたい。どうか一緒に里親になってくれないか」って。

当時の私は、外で子どもを見るだけで涙が止まらなくなってしまうほどつらい状態だったので、「お願いだから、これ以上私を追い詰めないで」と、夫の気持ちを受け止めきれませんでした。その後、気持ちが少しだけ前を向いたとき、夫の言葉を思い出しました。

ーもともと、里親や特別養子縁組については知っていたのでしょうか?

志穂 なんとなく知ってはいても、そこまで知識があるわけではなくて。私たちが特別養子縁組をより身近に感じたのは、クリニックでのお産のときでした。そこでは特別養子縁組の斡旋(※注1)をしています

出産の数日前、病院の案内地図には載っていない特別室に入院していた私に、院長先生が「志賀さんの前にこの部屋に入院していたのは、17歳の高校生のお母さんでね。赤ちゃんの将来を案じて、出産してすぐに養子として託してくれたんだよ」と、特別養子縁組について教えてくれたんです。

その後に迎えた出産の日。その日はお産が多くて、隣の陣痛室からはハッピーバースデーの歌と拍手が聞こえていて。陣痛の痛みに耐えながら、その17歳の女の子にずっと思いを馳せていました。「17歳の子は、他人に託す子どもをどんな気持ちで産んだんだろう、彼女の手を握ってくれる人はいただろうか」って。

ーそうだったんですね。

将士 僕らが真剣に里親や養子縁組の選択肢を考え始めたのは、我が子を取り上げてくれた院長先生との出会いが大きいです。

院長先生は、すでにお腹の中で亡くなっている僕たちの子どもをエコーで初めて診たときに「かわいい子だねぇ、ほら手を挙げて振っているようだよ」と言ってくれました。妻が陣痛で苦しんでいるときも「親としての覚悟を決めなさい!お父さんとお母さんが覚悟しないと、この子は産まれてこられないよ」と励ましてくださった。亡くなっているわが子をずっと、生きている赤ちゃんと同様にケアしてくださり、その愛情の深さに感動しました。

志穂 どんな子どもであっても命の線引きをしないこと、親が心を決めて子を待つこと。院長先生が、親になるうえでの大切な心得を、死産を通じて教えてくださったのです。父親のような院長先生との大切な出会い、そして死産によって小さな命の尊さ、儚さと直面したことは、夫婦で親となることに向けて、一歩を踏み出す大きなきっかけになりました。

(*注1)このクリニックがある県では平成30年度より、妊産婦支援による特別養子縁組推進モデル事業を実施。専門性がより高いことから当該クリニックへ業務委託している

 

  忘れることはできない、親と暮らせない子どもたちと過ごした日々

ーそこから、特別養子縁組ではなく里親になろうと思ったのは、何か理由があったのですか?

将士 最初は、特別養子縁組を考えていました。思いが里親に傾いたのは、児童相談所の里親研修で受けた児童養護施設や乳児院での実習で、名前と顔が見える子どもたちと出会い、触れ合ったときです。

日本には現在、親と暮らせない社会的養護下にある子どもたちが45,000人もいます。そのうち里親家庭で暮らしている子どもはわずか13%ほど。

妻は、施設実習が始まった当初は死産のトラウマから、乳児と触れ合うと泣いてしまいそうで怖いと、抱っこもおっかなびっくりでした。乳児の安全のために、私たちの死産については施設にも伝えていました。スタッフの方は、涙を浮かべながら「志賀さんたち夫婦は、死産の経験から里親になるように導かれ歩いているのよ。だから私たちが里親になるためのお手伝いをしっかりするから、一緒にがんばろう」と励ましてくれて。妻も落ち着いて、子どもたちと遊ぶことができました。

施設には、僕の姿を見かけるだけで、怯えてブルブルと震えてしまう男の子がいました。そのA君は他の子どもたちと離れ一人ぼっちで、険しい表情で黙々とお昼を食べていました。少しずつ慣れて僕を怖がることはなくなったけど、男性に対して大きな恐怖心を抱えているようでした。

その後もボランティアで同じ施設に夫婦で通っていたのですが、お昼寝の際、子どもたちが一斉に寝かしつけてもらえるわけではありません。指しゃぶりしながら静かに横になって、僕たち夫婦が隣に来るのをじっと待つ子どもの姿がありました。その光景、そしてA君のことは、今でも忘れることはできません。

お産をしたクリニックが、なんのつながりもなかった僕らを受け入れてくれたように、僕らはその感謝を社会的養護下にある子どもたちに還元したい。

特別養子縁組をして自分たちの子どもとして育てたいという夫婦の願いよりも前に、まずは子どもたちが里親として自分たちを必要としてくれるならば、一緒に暮らしたいと思うようになりました。

志穂 私は死産した経験から、息子を産んでくれたお母さんへの思いがいつもあります。生きて育っていく我が子を産めなかった私と、産めるけど育てられないご事情のある生みのお母さん。お互いの足りない部分を支えあう尊い関係性の中で、子どもの幸せな未来をみんなで願いながら、人生の歩みを踏みしめていける。死産を喪失体験としてだけではなく、希望への兆しと、徐々に捉え直すことができるようになっていきました。

夫婦で話し合い、里親登録をする際には子どもの性別や年齢はもちろん、障がいの有無も問わず、長期でも緊急一時保護でも受け入れると決めていました。

私は精神保健福祉士で、夫も障がい者雇用に積極的な企業に勤めていることもありますが、その決意の背景には、児童相談所で研修を受ける過程で知った事実があります。

それは、特別養子縁組を望まれるご夫婦がすでに全国に待機されていて、0歳の赤ちゃんを望まれる方が多いこと。そして中学生や高校生、発達障がい、一時保護など短期委託の里子は、受け入れる里親が少なくて全く足りていない、という厳しい現状です。

私たちは何度も話し合い、確認し合いました。子どもたちの命に対して、大人である私たちが線引きをしないことを。

 


「産んでいない」母親の痛み、血のつながらない家族の葛藤

  ふたりのもとにやってきた新しい命

志穂 里親登録をしたらすぐに児相から、生後まもない赤ちゃんの委託依頼があったんです。高齢児も障がい児も受け入れると伝えていたので、0歳児を委託されるとは思っていなくて驚きました。その子が、現在一緒に暮らしている息子です。

ー初めて会ったときは、どんなことを感じましたか?

将士 病院に駆けつけると、生後約1ヶ月半の息子はNICUに入っていて、よく泣いていました。生まれてすぐ母親と引き離されて、看護師さんたちの注目を集めるために激しく泣いていたと聞いて。寂しかっただろうに、遅くなってごめんね、これからは絶対ひとりにしないよって息子への気持ちが溢れました。

志穂 小さいけど目にちゃんと力があるな、お腹の中でしっかり守ってくれた生みのお母さんに感謝だなって思いました。過酷な生活環境だったと聞いていたから、諦めずに産んでくれてありがとうって。

将士 僕らは不妊治療で採卵するのも一苦労で、山を登ったらまだ降りないといけなくて。なので、生まれてくること自体が奇跡だ、よくここまでたどり着いてくれたって心から思いましたね。

 

  「産んでいない」母親の、孤独な育児の現実

ー実際に家庭に迎え入れてから、子育てはどうでしたか?

志穂 委託を受けた最初の頃は「緊急一時保護」という措置だったので、児童相談所から、ご近所や友人には自宅に子どもがいることを明かさないように、との指導がありました。子どもの安全確保のためには仕方なかったとはいえ、日中は一人で慣れない育児に奮闘し不安でいっぱいでした。さらに、生みのお母さんの親権者同意の確認が取れず、命にかかわるような予防接種を受けられない期間があって、とても心細かったです。

また、子どもが乳児湿疹で、初めて近所の小児科を受診したときのことです。里子や施設で暮らす子どもたちは、行政発行の受診券を持参します。小児科の受付の方はその受診券を知らなかったようで、たくさんの親子が待つ待合室に響き渡るような大きな声で「虐待を受けた子か施設の子かなぁ?」と他のスタッフに聞いていました。

私の経験ではありませんが、新生児を委託された場合、赤ちゃんの乳児検診を小児科で断られることもあるようで。養子縁組の監護期間は世帯上「同居人」であって、法的な親族関係でも里親委託でもない子どもである、というのが要因だそうです。

さらに、支援センターの育児相談に行って子育ての不安を吐露しても、「産後のホルモンの関係で産後うつになるぐらいだから、本当に大変よね」と励まされ、居心地の悪い思いもしました。親子ヨガにも通いましたが、インストラクターが母親たちの骨盤に手を当ててその開き具合を確認しながら指導するなど、やはり産んだことが前提のケアなのです。

ー生みの親と育ての親が同じことが前提の社会の中で、産まずに母になった方たちが孤立してしまう現実があるんですね。

志穂 里親会では仲間がいても、実際に育児する地域で、特に私のように実子のいない一人目の育児となる里親たちは、孤立する悩みを抱えています。

私は積極的に支援センターなどに通うことで、たくさんのママ友ができました。でも里子の安全を守るため、子どもの個人情報に関わる、「産院はどこ?」のような小さな質問に答えられないなど、親しくなればなるほどママ友に言えないことが出てきてしまって。

新米ママの私は、孤独感と育児の睡眠不足で押し潰されそうになった時期がありました。周りにたくさんの人がいるのに、なんだかとても孤独なのです。

そしてこの孤独感は、日中の育児コミュニティに身を置いたことがない働くパパには共感しづらいものなんです。里親制度で父になった「里父」は家庭に里子を迎え入れても、働いているので社会とのつながりは切れません。一方、里親制度で母になった「里母」は、自治体や里子の抱える背景によっては専業主婦が推奨されていて、でも、言えないことも多い地域のママコミュニティには馴染みきれない。

3歳からの委託を受けた里母の友人は、児童館のママ友の集まりで「娘さんはいつ立ったの?」と聞かれて答えられないなど、日常の些細な場面での疎外感が積み重なって、育児サークルに入れなかったそうです。

また、多動の傾向がある5歳児を家庭に迎え入れた里母の友人は、体操クラブに入会したけれど、元気すぎる行動に他のママたちから、「施設出身の子は脱退してほしい」と言われてしまったそうです。

テレビなどメディアを通じた遠い距離感では、社会的養護で育つ子どもたちを応援してくれるような方はたくさんいらっしゃいます。でも我が子の友人という近い距離になると、社会的養護の子どもたちを知らないからなのでしょうが、不安を感じて距離を置かれてしまうこともあります。

かと言って児童相談所に相談したくても、安定した養育ができない里親と判断されて、里子と突然のお別れになってしまうかもしれないと不安になる。実際にそうしたケースも少なからずあるので。そして、誰にも相談もできずに閉じた世界で孤立してしまう。私はオープンな性格なので、地域に積極的に出て行って、たくさん失敗も嫌な思いもしました。

ー無知や偏見がまだまだ、社会の中にはありますね。

志穂 私は自分が産んでいないことをまだ乗り越えられていないと感じていて、我が子を亡くした喪失感と向き合うことは今でも怖いです。

それでも、「里親」や「養親」という大きな主語で感じた地域社会での孤立や子育てのしんどさを、「等身大の親」として発信していかなきゃと思っています。

よくメディアで取り上げられる「血がつながっていなくても家族になれて幸せ」というのは、光の側面だけだから。立派な里親や養親の、キラキラした話だけを見せられてしまうと苦しい。

里子や養子が、成長に伴って抱く出自の葛藤や親子関係の揺らぎの中でも、キラキラした話だけでは子どもたちも自分が嫌いになったり、苦しくなると聞きました。子どもも親も、強い光で眩し過ぎると、かえって何にも見えなくなっちゃう時もあるんじゃないかなって思うんです。

子育てをする中で幸せを感じる一方、忘れられない喪失感を抱え続けることも私のひとつの物語です。ファンタジーに染めた角度では見ない、リアルな子育てや家族の悩みに寄り添える場が必要だと、私たち夫婦は思い始めていました。

取材・文/徳 瑠里香、写真/高橋 麻沙美・本人提供


里親として経験した孤独な子育てから、里親や養子縁組で家族となった人たちが集い、悩みを共有できる場所の必要性を感じた志賀夫妻。続く<後編>では、居場所事業のこと、特別養子縁組の成立、そして子育てを地域に開いて行うために決断した移住について、お話を伺います。


\あなたのSTORYを募集!/
UMU編集部では、不妊、産む、産まないにまつわるSTORYをシェアしてくれる方を募集しています。「お名前」と「ご自身のSTORYアウトライン」を添えてメールにてご連絡ください。編集部が個別取材させていただき、あなたのSTORYを紹介させていただくかもしれません!
メールを送る