子どもがほしいのはなぜなのか、不妊治療をがんばるのはなぜなのか、みなさんも考えたことがあると思います。そして、自分の決断は果たして正しいのか、迷ったこともあるはず。
夫との二人の暮らしも9年目になり、38歳で子どもがいない私、オードラン萌は、いろいろ悩んだけれど、とりあえず、不妊治療をせずに日々を過ごすことにしました。だけど、だれも「正解」なんて教えてくれないし、自分の「答え」も変化するし、気持ちはいつでも揺れています。
ただ、毎日をとにかく生きていく中で、悩んだり、迷ったり、期待したり、絶望したりすることは、「ダメ」なことじゃないと気づきました。読んでくれた方が、ありのままの今を「良し」として、とりあえず進んでいこうと思ってくれたらいいな、と願っています。
*【ミレ二アル世代コラム】と題して、等身大の30代が「産む・産まない」について思うこととモヤモヤ、意見、願いなどをコラム形式でお届けするシリーズ、第七弾です。
とりあえず、「このまま過ごす」ことにした
夫と一緒に人生を歩むようになって、9年目を迎える。子どもはいない。まだ、いない。これからもいない、かもしれない。いや、いつかできるかもしれない。
私は今38歳。不妊治療もしてこなかったし、養子も里子も我が家に迎えてはいない。だけど、子どもがほしいという気持ちはずっとあったし、今も消えない。
道でベビーカーを押す女性とすれ違えば、胸の奥が苦しくなるし、「ママ」専門雑誌を見かけるとなぜかイラだってしまう。私たちが子どもを望んでいると知っている友人や家族は、気を遣いながらも、不妊治療で有名な病院を教えてくれたり、養子縁組や里親制度を勧めてくれたりする。
そう、子どもがほしいなら「頑張れ」ばいいのに。頑張っていろんなことを試さずに、「子どもがほしい」と嘆くのは、間違っていると怒られそうだ。
しかし私たちは、「頑張ら」ずにこのまま過ごしていくことを選んだ。
私の「幸せ」って何なんだろう
不妊症とはっきり診断されたのは5年前。
生理周期が乱れたことのない私だったが、1ヶ月以上続く不正出血に悩み、病院へ行った結果、出血の原因は分からないと診断され、おまけの診断として不妊症という結果がついてきた。
その根拠として、何年も変わらないパートナーと過ごしているのに、避妊しているわけでもないのに、子どもができないのは明らかに「不妊症」である、とのことだった。
不正出血は様子をみるしかないとしながら、医師は私の意志の確認もそぞろに、不妊治療に向けた検査を決めてしまった。
人間味のない医師の断定的な話し方。質問をする隙がまったくない一方的な会話。なにより、聞いてもないのに「あなたは不妊症です。今すぐ検査が必要です」と伝えられ、私の頭と心は診察のスピードについていけなかった。
促されるままに、数日に分けて私の体の様々な検査を行い、夫の精子の検査も行い、妊娠できない原因は主に私の体にあるようだとわかった。
医師の説明によれば、私の卵巣年齢が50代後半であり、例え最終ステップ(=ここでは「体外受精」を意図)を試みたとしても、妊娠の可能性は極めて低いらしい。
実際、子どもができないことについて不安はあった。不妊という現実に目を向けるのが怖い、という気持ちもあった。不妊治療に取り組む友人を何人も見ながら、私も始めるべきかと悩んだこともある。でも、心配を伝える度に「まだまだ悩むには早い」と本気で笑う超楽天的な夫の横で、私は自分の不安をなるべく気にしないように過ごしてきた。
それなのに、心の準備もないまま突然突き付けられた現実。「妊娠の可能性が全くゼロというわけではない。時間がもう残っていないのだから、とにかく今すぐに治療を始めるべき」という、医師の勧め。
止まらない不正出血に不安を抱くことも忘れ、子どもができない原因である自分の体を、心底恨めしく、憎らしく思った。
そして、6歳年下の夫に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
家族をつくることのできない私といても幸せな人生は送れない、若くて子どもを産むことのできる女性と再婚したほうがよいと、夫に離婚の意志を伝えた。
ー「大体、なんで自分の幸せを誰かに決められないといけないの?」
一番始めにでてきた、夫の返事。
「そもそも、子どもがいなかったこれまでの時間、不幸せだったの?自分はすごく楽しかったし、幸せだったけど。他の誰かと一緒に過ごしたいんじゃなくて、萌と一緒に人生を分かち合いたいから一緒にいるんだし、自分の幸せを萌に決めてもらうほどバカじゃない」
本気で怒っている夫に驚きながらも、私は自分がもっている無意識の中の価値観にはっとした。
なんの疑いも持たずに、結婚したら子どもを産んで家族をつくるのが「普通」だと思い込んでいた自分。
私の幸せはなんなのだろう。
卵巣年齢が高齢すぎることで、私の幸せは壊滅したのだろうか。
子どもがいないことで、私と夫の人生は不幸のどん底にあるのだろうか。
夫は、子どもがいてもいなくても、こんな風に私と人生を過ごせていけるなら幸せだと言った。彼にとって重要なのは、私と目の前にある時間をどう過ごすかということ。
もし、私がどうしても子どもがほしくて、不妊治療を始めたいのであれば一緒に頑張るし、私にとっての幸せが子どものいる人生なのであれば、不妊治療だけじゃなくて養子縁組や里親も考えればいい、とも言ってくれた。
結局、次回の予約はキャンセルし、その後病院へ行くことも、不妊治療に取り組むこともなかった。
フツウに暮らしたい
私たちは、これまで国内外さまざまな場所に住んできた。数か月かけて日本横断ヒッチハイクの旅をしたり、シベリア鉄道を使ってフランスから日本へ帰国したり、数えきれない場所を一緒に旅行してきたりもした。
仕事も趣味も全く違う二人だが、過ごしてきた時間は確かに豊かで、刺激的で、明日死んでも悔いはないといつも思っている。
子どもがいないから不幸だったことは、一度もない。
妊娠できない自分は「普通」じゃないと思い込んでいたけれど、私たちにとっての「フツウ」な家族を二人でこれまでも作ってきたじゃないか。フツウな毎日を、これからも私は夫と一緒に過ごしたい。
そう思ったら、病院へ行くことはどうでもよくなった。
さらに、不妊治療にかかる費用と肉体的/精神的負担についても心配があった。
助成制度などがあるとしても、終わりが明確に見えない治療にかかる費用は大きい。副作用などの体や精神への負担もいろいろと耳にする。
「そんな苦しい思いしてまで子どもが欲しいのか」という夫の問いに、私は即答できなかった。「萌が苦しい思いをするのは嫌だ」というのが夫の回答で、先が見えないつらい治療に一緒に取り組むよりも、今という瞬間を一緒に楽しむほうが性に合っていると言った。
正直、引っ越しを繰り返している自分たちに、長期の治療は合っていないと思っていた。加えて、国内外の短期/長期出張が多い私は、治療スケジュールに自分の仕事を合わせる自信がなかった。代わりの誰かに自分の仕事を渡すことはしたくなかった。なにより、体が痛かったり気持ち悪くなったりするのは、我慢できる気がしなかった。
「そんな苦しい思いしてまで欲しいわけではない」のかと、自分の本心を知った気がした。
とはいえ、子どもが欲しいという気持ちが消えたわけではない。
毎月生理が訪れるたびに、悲しい気持ちになってしまうし、もしかしたらと妊娠検査薬を使ってがっかりしたこともある。
それでも、夫と二人の家族生活は、相変わらずフツウに過ぎて行った。
親への報告、揺れる想い
お互いの両親に伝えるのには時間がかかった。
それぞれが「なぜ子どもがいないのか」と思っているのはなんとなく感じていたのだが、誰も直接私たちに聞くことはなかった。
時々「聞きたいけど聞き出せない」という雰囲気の親の顔が気になって、病院での検査の後は「いっそのこと伝えてしまいたい」とも思っていたのだけど、やはりなんとなく切り出す機会がなく、ずるずると時間だけが過ぎて行った。
ある日かかってきた母からの電話。渡したいものがあるから、と言いながら何か話したいことがあるのが分かった。二人で私の実家に向かう道中、夫と「ちゃんとこちらから切り出そう」と決めた。
これまでの事情や、検査結果、自分たちの決断、すべてを私の両親に伝えた夜。
泣き崩れる母と、その横で落ち着いて話をきく父。
母は「私のせいでごめんね」と繰り返した。母も初めての子どもを授かるまで、数年かかっている。周りからのプレッシャーや抑えきれないストレスもよく分かっている。
だから、自分の遺伝子のせいで私も妊娠しにくくなったのだと言った。そして、自分が私の体を「そんな風に」産んでしまったと謝り、自分の育て方に問題があったのかもしれないと謝り、私に「そんな想い」をさせてしまったことを謝った。
いくら三人で母のせいではないと言っても、母は母なのだ。私の母は「良妻賢母」の鑑で、昭和の良き時代の家族像を具現化してきた。そんな彼女に私こそ「そんな想い」をさせてしまい、本当に悲しくて申し訳なくて、私も大泣きしてしまった。
父は、「子どもを育ててこそ一人前だ」と私たちの結婚直後には言っていたのだが、私たちの話を聞き「子どもがいなくても立派に家族をつくることはできる」と言い、「二人で決めたことを充分理解したし、何かあれば力になる」とも言ってくれた。
感情が収まらない自分の妻を一生懸命励ましている父を見て、私は安心したのを覚えている。
泣いては気持ちを伝えあう妻たちの横で、落ち着いて笑顔でいる夫たち。
そんな様子に「なんだか泣いてる私たちがバカみたい」と、私も母も最後には笑ってしまった。「話してくれてよかった」と言われ、私たちも「話してよかった」と思った。
夫の両親に伝えたのは、さらに1年後。
フランス人である夫の両親とは、スカイプか電話で話すのが常だった。フランスに住んでいる彼らは、一人息子が日本に住んでいる間は、週に1回国際電話をかけてきた。
私の両親と夫の両親もメールやはがきでやりとりをしている。私の両親は自分たちに話したのだから、すぐにでも夫の両親に話すようにと促してきたが、やはり、話をするには面と向かってするほうが心地いい気がして、フランスに帰国するまで話をするのは待つことに決めていた。
その日はたまたま夫と義父が不在で、私と義母は「男のいぬ間に」と甘いものを楽しみながらテレビを見ていた。
たぶん見ていた番組のせいだったと思う。義母が本当に何気なく「子どもを産まない理由は、地球環境を守りたいためなのか」と質問してきた。
実は、私の両親も同じことを考えていた。確かに、世界的に人口は増え続けていて、私たちは地球を破壊し続けている。私たち夫婦はなるべく地球に負担をかけない生活を心掛けている。特に夫は、自然環境を専門に学びパーマカルチャーを実践している。
なので、どちらの両親も「エコ的」な理由で子どもをつくらないと決めていると考えていたのだ。
そんなことは考えたことがなかったので、驚いたし笑ってしまったのだが、なんとなく「今話すべき」という気がして、私は一人で義母に私たちのことを話すことにした。
すべてを聞いて、義母はかなり落ち着いていた。
晩婚で、37歳で初めての出産をした際に手術が必要になり、2人目は望めない体となった義母。親族から晩婚や高齢出産についてさんざん批判され、自分の家族の幸せは自分で決めると強く思ったそうだ。なので、私たちが今の状態で幸せなら、それにこしたことはないと言った。
また、泣いた母の話をすると、「お母さんの気持ちも分からないことはないけど、親が子どもの人生にそこまで責任を持つ必要はないんじゃないの」とフランス人らしく私の母の反応に驚いていた。その反応に、母への罪悪感をぬぐい切れていなかった私は、なんだか笑ってしまった。
その夜、義母から義父に話をしてくれた。義父は「あなたたちの人生は、あなたたちの人生なんだから、やりたいようにすればいい。二人の考えや決断に私たちがいろいろ言う権利はない」と目を大きくし、「でも話してくれてよかった」と笑った。
そして、「私たちは萌のことを心から愛している。だから、なんの心配もすることはない」と繰り返してくれた。
なんの心配もすることはない。と言ってもらっても、私にはどうしても心配してしまうことがあった。
それは、孫。
どちらの両親も、友人らと話をすると必ず「孫」の話題になると言っていた。私たちの両親のケータイに孫の写真はない。
私の両親は、子どもが本当に好きだ。だから孫がいたらあれこれしたいと想像していたことだろう。親の遺産相続で家族がもめた経験をもつ夫の両親は、もめごとは避けたいと自分たちの死後についてすでに整理している。遺言書のなかで、孫について言及しているのを私は知っていた。
孫を両親に見せることができない。私は、心苦しい想いでいっぱいだった。
しかし、夫は言う。親に孫を見せなければいけないなんていう規則はない。孫がいない人生でどう生きるかは、自分たちの責任じゃなくて親たちの責任。萌の気持ちは分かるけど、気にする必要はない。
だけど、近所のお友達は毎週末、孫の面倒をみるらしいとか、クリスマスは孫へのプレゼント用意でみんな大変らしいとか、母や義母の言葉を聞くと、やっぱり胸にちくっと来る。
和太鼓レッスンや地区のイベントで子どもに教えているとか、小さい子がいないと静かに音楽が聴けていいとか、父や義父が嬉しそうにしていると、やっぱり心がぎゅっとなる。
養子縁組制度について
現在はフランスに住んでいて、日本よりフランスの方が「養子」や「里子」を目に触れる機会は多い。
同性婚も認められているし、肌の色も多様に入り混じっているので、明らかに「養子」と分かるケースも多い。さらに結婚せずに家族をつくる人も多く、継父/継母、異父兄弟姉妹、異母兄弟姉妹という形も多い。
それに、難民や生活困窮者、または問題のある家庭についての対応も社会的に目にしやすいので、「里親」制度もある程度認識されている。
しかし、「子どもができなくても養子とかは?」と聞いてくる人は、日本の友人のほうが多かった。
「なんで子どもいないの?」と単刀直入に聞いてくるのは、フランスの友人の方が多かったが、理由を話すと申し訳なさそうにするものの「不妊治療に取り組むべき」と言うことが多く、「養子縁組を考えるべき」と言われることはあまりなかった。
たぶん、「養子」の社会的認知が日本より進んでいるここフランスでも、「養子縁組制度」を実際に利用するのは「難しい」と考えられているのだと思う。書類手続きだけでも、すさまじく困難で気が遠くなる。何年かかっても養子を迎え入れることができないと、聞くことも少なくない。
そして、子どもを迎えるために自分たちの生き方を大きく変えなければいけないのは、フランス人にとって大変なことなのかもしれない。
私たちも、その選択肢を考えたことがないわけではない。日本とフランス、それぞれの制度も調べたりした。
そこで気づいたのは、私たちの生活には合っていないということ。ひとつの場所に長期定住していない私たちは、子どもを迎え入れる適切な家がない。終身雇用で働いているわけではない私たちは、子どもを迎える安定した収入を証明できない。その他、さまざまな条件に難しさを感じた。
子どもはおもちゃじゃないのだ。ステイタスのために所有するものではない。1人の人間が家族として生活していく土台がなければ、もちろん制度を利用することはできない。
では、その土台をつくる努力をするべきなのか。
私たちは改めて、どんな風に一緒に生きたいかを確認しあうことになった。二人で築いてきた生き方が私たちは大好きだし、自分たちの生き方を変えてまで子どもを迎え入れたいと思っているわけではない。
「今の気持ち」と、共に進む
私たちの両親からも、養子縁組や里親について言及されたことがある。今のところ、私たちにその意思はないことを伝えたけれど、どちらの親も「これから状況も変わるかもしれないし、時間をかけて考えればいい」という意見だった。
そう、親も揺れているのだ。
もちろん、私たちのことを理解しているし、私たちの生き方を応援したいと心から思ってくれている。
でも、もしかしたら自分たちの人生に孫ができるかもしれない、とかすかな想いが消えないでいる。
夫の両親の遺言書にはまだ孫について書かれているし、私の両親がまだ夢を捨てきれないでいるのも知っている。
私たちも同じ。
一緒に悩んで、一緒に決断したけれど、「もしかしたら」という気持ちがゼロと言ったら嘘になる。
もちろん今の自分たちに満足しているし、やっぱり自分たちの生き方を続けていきたいけど、「子どもがいたら・・・」とつい一緒に想像してしまうこともある。
子どもがいないことで、自由に動ける楽しさや、二人の状況と考えだけですべてを決めることができる柔軟さ、自分たちのためだけにお金を使える嬉しさが、確かに存在している。だけど、子どもがいることで、これまで知らなかった楽しさや、子どもを加えたこれまでと違う決断方法、未来を見すえた子どもへの投資、いろいろな未知の世界が広がるような期待もある。
だから、とりあえず、このまま私たちは進む。
とりあえず出した答えに従って、今はこのまま、目の前にある瞬間を一生懸命に過ごす。
いつか違う答えをだすかもしれないけれど、その時にまた悩むことにする。
私は、38歳。子どもはいない。これまでも、これからも、いない。かもしれない。いつかはできる、かもしれない。
オードラン萌
1982年生まれ。山梨県出身。
大学卒業後、夢を追いかけてアメリカへ渡ったが夢破れ日本へ帰国。その後、日本や中米ニカラグア、ニュージーランドで人生を送る。ニュージーランドで出会ったフランス人と人生を歩むことに決め、日本での生活を経て、現在はフランスに住む。夫の故郷であるフランス、ブルターニュ地方でパーマカルチャーを基礎とした農園を始めるべく、日々奮闘している。UMUのおかげで「ひとりじゃない」と心強く思えた経験から、自分も誰かに「ひとりじゃない」と気づいてほしくて、寄稿させてもらった。
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