「本当によく生きた」— 。1歳7カ月の命を全うした息子。「医療的ケア児家族」として過ごした日々を振り返り、夫婦がいま思うこと<前編>

生後直後に心疾患が発覚し、2回の手術も経験した「だいちゃん」こと中野大地くん。度重なる危機を生き抜き、今年3月に1歳7ヶ月で亡くなっただいちゃんに、ご両親である中野夫妻は「本当によく頑張ったし、やりきった」と感じていると言います。

まだ、社会で十分に認知されているとは言えない「医療的ケア児」や「医療的ケア児家族」という言葉。長期入院の後、人工呼吸器等の医療ケアが日常的に必要な子どものことを「医療的ケア児」と呼び、その数は、2020年時点において全国で2万人を超すそうです。

そして、中野夫妻のように医療的ケア児のお子さんを育てるご家族のことを「医療的ケア児家族」と呼びます。
現在の日本で、この医療的ケア児家族への情報やサポート体制はまだ整っていないと、ご夫妻は語ります。

だいちゃんと共に過ごした日々を振り返りながら、命について、家族についての想いや、社会また周囲に望むことなどを、お二人にうかがました。

中野あまね/Amane Nakano 1987年生まれ。静岡県出身。食べることと料理が好きな管理栄養士。2019年に第二子の息子が重度の心臓病で生まれてきたことをきっかけに、医療的ケア児専門のメディアを運営するNPO法人アンリーシュで活動中。

中野秀俊/Hidetoshi Nakano 1984年生まれ。学生時代、IT企業を起業するも失敗。その後司法試験に挑戦し、弁護士となる。現在は、法律事務所と会社を経営。医療的ケアが必要な子どもを持って、頑張りたくても頑張れない人がいることに気づく。そのような人を自社でも採用できるように奮闘中。

 


“普通”の妊娠出産から、生後8日に訪れた突然の「危篤」通告

  ただ単純に、2人目ができて嬉しかった

ー上におねえちゃんがいらして、だいちゃんは2人目のお子さんと聞いています。だいちゃんを妊娠された当時のお気持ちやエピソードなど、どんなことを覚えていらっしゃいますか?

あまね  まず前提として、上の子が健康で何の不安もない妊娠出産だったんです。なので、この2人目が健康かどうかなんて考えたこともありませんでした。

むしろ、多くの他の妊婦さんたちと同様、男の子かな、女の子かなとか無邪気に考えていた感じで。2人目は欲しくて、妊活したらすぐに妊娠して、男の子ってわかって。自然な成り行きで一姫二太郎で、ちょうどいいなとか思ってましたね。

ひで 私は勝手に女の子だと思ってまして。そしたら、男の子ってことで「え?まじか?!」と。両親は、まあ古い人間なんで、跡継ぎができたと喜んでましたね。私も、「男の子か。じゃあ、大きくなったらキャッチボールするか!」とか、妻同様に呑気に考えてました。 

あまね  性別が判明して早々に、もう名前は「大地」と決めていました。その壮大な感じが良くて、前々からかっこいい名前だなと。もう大地って付けておけば間違いないだろう(笑)と、そんな直感もあり迷いなく命名しましたね。

ーおねえちゃん(中野夫妻の長女)は、妊娠がわかった時何歳だったんですか?

あまね  ちょうど3歳だったんですけど、弟が生まれるということをもう理解していましたね。最初は、受け入れたくないっていう感じでした。

「私が入院する間は離ればなれになるよ」と説明したら、「そんな話は聞きたくない!」と怒ってしまって(笑)。幼心にも、自分が少なからずがまんしなきゃいけないっていうことを分かっているようでした。

ーそして、2019年8月26日に出産されたとうかがっています。その時の気持ちは覚えていますか?

あまね  予定より1週間ほど早い出産だったんです。計画帝王切開を予定していたものの、その前に陣痛が来て、急遽入院ということになってしまい。

出産体験という意味では、上の娘も計画帝王切開だったのですが、実はその時の痛みがトラウマとして残っていました。そして今回もまた、術後の痛みが気が狂いそうな痛さで、「なんで女性ばっかりがこんな想いしなきゃいけないんだ」と、誰に向けるでもない怒りが止まらなかったです(笑)。

ただ、生まれてきただいちゃんはすごくかわいくて、かわいい子どものために!って思ったりもしたんですけど。それでもなお、本当に痛くて!正直、痛み8割、喜び2割って感じでした。

ひで  私の方は一言でいうと、「バタバタ」という感じですね。急遽のスケジュール変更だったので、仕事を5つキャンセルして、翌週から手伝いに来てくれる予定になっていた自分の両親に状況を相談して、上の子を迎えに行って。 

1人目の時はすごい嬉しかったんですけど、2人目は電話で生まれたことの確認をして、これから1週間どうするのか、上の子はどうするのかっていうことで頭がいっぱいでした。いや、もちろん嬉しかったんですけどね。

ー仕事を5つもキャンセル!元々ご夫婦ともに共働きだったと思うのですが、ご自身で弁護士法人を経営されているひでさんも、子育てには結構関わって来られたのでしょうか?

あまね  妻の私から先に話すと、だいちゃんが生まれる前から、私、ワンオペってしたことなくて。平日は夜帰って来るし、土日は家にいるし。ひでさんは、子どもが好きなんですよ。一緒に子育てしてるって感じは元からありましたね。娘はお父さん大好きで。なにせあまやかし担当だから(笑)。

ひで そうですね、夜は帰ってきて遊んだり、お風呂入れたり、土日は家で仕事をしたり、子どもとの時間をつくるようにしています。うちの場合、結果2人目が医療的ケア児だったわけなのですが、自分の働き方については、1人目の子の時から大きく変えてはいないです。

ー「バタバタ」だった生後直後から数日たって、そこまでの間で医師から何か言われたことや、指摘されたことはありましたか?

あまね  それが、母乳はよく飲むし、大きな声で泣くし、元気な男の子ということで、特に何も言われなかったんです。ただ、微熱が出た時があって、厚着してるからかもってことで、薄着にさせたら体温が下がった、ということはありました。入院中の期間で今振り返って気になる点と言えば、そのくらいでしたね。

ー生まれた時の体重など、出生児の情報についても、気になる点は特になかったんですね?

あまね  予定より3週間早く生まれたのに、3,100グラムあったんですよ。普通に授乳して、おむつ替えもしていたし、全然そういうこと(心疾患)は想像していませんでした。

 

  転がるように現実が動いていった

ー入院中は何も予兆や不安になるような点がなかったとのことで、新生児の育児生活をご夫婦で忙しくスタートされようとしていたんですね。では、そこからだいちゃんの病気が発覚するまでの経緯を教えてもらえますか?

あまね  出産1週間後に退院して、その次の日、生まれてから8日目に発熱しました。退院した時に、かなりぐったりしてたんですよ。また着せすぎたのかもしれないと思って服を脱がせて、真夏だったのでクーラーを効かせた部屋で寝かせて。母乳も飲むんですけど、すぐに飲まなくなっちゃうんですよ。

その辺りで初めて「なんかおかしいな」と思ったんですけど、ちょうど日曜だったから月曜まで待つことにして。月曜になってもまだ具合が悪かったので、娘を保育園に送ってから、タクシーでだいちゃんと地元のクリニックに行きました。

そのクリニックのお医者さんに、「新生児が発熱するのはめったにないことだから、何か問題があるかもしれない。大病院で診てもらったほうがいい」と言われ、紹介状を書いてもらって一番近い病院に行くことになりました。
でも、だいちゃんの保険証もまだできてなかったので、夫に連絡してすぐ作ってきてもらうようにお願いして。で、保険証をもらいに行って、その後また病院に向かうという…。

その病院では、はじめ「髄膜炎」にかかってるって言われたんです。それまでは知らなかったんですけど、髄膜炎って後遺症が残る可能性の高いかなり重い病気だと説明されて、ショックを受けました。その事実だけでもショックだったのに、「すぐ入院してください」と言われて、さらにショック。

そこからいろんな科の先生が診に来て、「心臓の半分が動いていません」って言われて。もう夢半分、現実半分みたいな気持ちで、茫然とするしかなかったです。でも同時に、娘の面倒を誰がみるのかとか、ジジババのヘルプをどう手配しようとか、どこか冷静にそんなことも頭をめぐっていましたね。

院内でそんな怒涛のやりとりをしていた時、だいちゃんに母乳を飲ませようとしたら、だいちゃんの息が止まって、どす黒くなっちゃったんです。もうこれはヤバい、ってことになって。

その病院はICUがないから、ICUのあるさらに大きな病院にすぐ移ったほうがいいと言われました。いろんな病院を探していただいたんですけど、自宅のある都内の小児科はどこも病床がいっぱいで入れるところがなく、最終的には県外のこども病院に救急車で行くことになりました。

東京の小児科がそんなにいっぱいになってるっていうのもびっくりだったし、救急車で運ばれなきゃいけないくらい悪いっていうのも衝撃的で…。

ひで 私のほうは、まず妻と息子がまた入院するとの一報を受け、予定を調整して手伝いに来てくれていた両親を自宅に帰した矢先でもあったため、最初は「両親帰しちゃった、どうしよう。娘はどうしよう。」と焦りました。
平日でしたがそこから妻と息子の入院準備をして、娘をピックアップして病院へ行き、家に戻って娘をお風呂に入れて寝かしつけて。

そこから、仕事も佳境であまり寝られてなかったから、ちょっと寝ようと思った矢先、夜11時半頃に妻から電話が来て、今度は救急車で運ばれるから移送先の病院へ行かなければいけない、と言われました。

夫婦で話した結果、妻には一度家に戻ってきてもらい、私が県外の病院へ行くことにして、夜中に移送先の病院へ到着。でも、大地が全然運ばれてこなくて、ずっと病院で待機していました。その後やっと朝方に大地が到着して、朝5時頃、先生から説明を受けた、という感じです。

月曜は近くの病院、月曜深夜に移動して、火曜に県外の病院というすごい一日でした。

ーいや、本当に怒涛でしたね…。あまねさんは、本来まだ寝てないといけない時期だったんじゃないですか?

あまね  はい。まだ術後1週間くらいしかたってなかったので、体もきつかったです。平日の深夜だったんですけど、夫から「(県外の病院へ)僕が行く」って言ってもらえて、本当によかったです。

ーそれぞれのご両親にはどの段階で伝えたんですか?

あまね  もう月曜の時点で、「助けてほしい」ってお互いの両親には伝えてました。

ひで 先ほどお話ししたように、その前の週(出産時)にうちの両親には来てもらっていたんですけど、また入院するからって連絡したら、やっぱり「今すぐはちょっと無理」という話で…。

ーご両親のお住まいは近くなんですか?

ひで 私の両親は埼玉でそんなに遠くないので、これまでも娘をみてもらうとか結構協力してもらってましたね。

あまね  私の両親は静岡で、さらに高齢だからあまり頼りにはできないんだけど、その時ばかりは「来てほしい」とお願いしました。

ーそれにしても、月曜から火曜にかけて、いっきに現実が動いていった感じですね。

あまね  正直なところ、現実とは思えなかったですね。「夢なら早くさめてくれ」ってずっと思ってました。

移送先の病院では、「心筋梗塞」って診断されたんですよ。で、割と早めに、「危篤です。手の施しようがありません」と言われて。血圧が下がり続けていて、もう持ち直すことはないということでした。

なんでうちの子が!?って思いましたね。私たちが悪いことをして、その罰を与えようとしているなら、だいちゃんじゃなくて私たちに与えればいいのにって。

ひで 私は、またいったん妻と付き添いを交代して、火曜の日中は仕事をしてたんですよ。で、今日はやっと寝られるかなって思ってたら、火曜夜10時くらいに危篤だから早く来るようにって連絡があって。

上の子を連れて行くか迷ったんですけど、結局連れて深夜にタクシーで病院に向かいました。着いたら先生から「お別れをしてください」と言われて…。

あまね  ただ、まだ幼い娘が病院の長椅子で夜通し過ごすのは無理という話になり、夫と娘は二人で引き帰してもらって、私が一人病院に残ることになったんです。

この前産んだばっかりなのに、なんでもうお別れなのかと思うと、ただただ絶望しかなくて。その時は「すべてなかったことにしてほしい、こんな悲しい妊娠出産ならしなきゃよかった」、とさえ思いました。涙が止まらなかったです。

病院側も、私が手術後だということで別室に寝る場所を用意してくれたんですけど、もう息子とお別れかもしれないと思うと、近くにいたくてあまり寝られなかった気がします。でも、あの時のことはあんまり覚えてないというのが、正直なところでもあります。

 

  向き合わなければいけない現実と、夫婦のきずな

ーしかし、そんな重篤な状態にありながらも、そこからだいちゃん持ち直されたんですよね?

あまね  そうなんですよ!朝になったら、下がり続けていた血圧がどんどん上がってきて、病院の人たちも「あれ?あれ?」みたいな…。「あ、危篤じゃなかったね」っていう感じで。案外、危篤という宣告も、あてになんないもんなんだな~って思いました(笑)。

ひで ただ依然として、何があるか分からないから近くにいてくださいと、病院側からは言われました。なので、ホテルに泊まりながら、日中は私が仕事して妻が病院にいて、夜は私が病院に行って妻は娘と家で、というような生活をしてました。

あまね  しばらく「明日どうなるかわからない」という状態で、「生きてることが奇跡」ということは言われていましたね。

ひで 結局、ホテル泊まりは3日ほどで、病院側からも「とりあえず帰ってもいいです」と言われて家に戻ったんですけど、「何かあったらすぐ電話に出られるように」ということは言われていました。

ーだいちゃんのその頃の表情や様子は、どのような感じでしたか?

あまね  ずっと目を閉じて寝ていましたね。人工呼吸器をつけていたんですけど、管による痛みを麻痺させるために薬を投与されていたんですよ。結構強い薬なので、寝ていることが多かったです。

ただ、時々ちらっと目を開ける時があって、すごいつぶらな瞳で…。親バカなんですけど、「すごいかわいい」とか思って。
でも、全身にいろんな管をさしている痛々しい体を見ると、「かわいそうだな」という思いも強かったです。

ーお二人の当時の会話では、どんなことを話されていましたか?その頃交わした言葉で、特に覚えていることはありますか?

あまね  基本的には、日々の病院からの情報を共有する、という感じでした。ただ、夫との時間ですごい印象に残っていることがあって。私はアンパンマンをみても泣けるくらい、日頃から結構感情が出やすいタイプなんですけど、夫はそういうことが全くない人で。

でも、ある日の病院からの帰り道、夫が泣いてたんですよ。それまで「私は母親だし悲しいのも当然だけど、夫は私ほどは悲しんでないんじゃないのかな」って思っていたんです。でも、その時初めて泣いている夫を見て、悲しいのは私だけじゃないんだな、ちゃんと息子を愛してたんだなっていうのがよく分かりました。信頼が深まりましたね。

ひで いや、正直、息子が生まれて、本当にすごくバタバタして、全然寝られてなくて、疲れがピークに達していたというのもあると思うんですけど(笑)。

私は当初からずっと、「なんでこんなことになったんだろう?」ということを考えてたんですよね。そこから、もっと抱っこしておけばよかったっていうことを、一番後悔しました。

生まれたての時は、久しぶりだったから怖くて、「家に帰ってきてからゆっくり抱っこしよう」って思ってたんです。でも突如こんなことになり、「もう2度と抱けないかもしれない」って考えたら、わんわん泣けてしまって。

あまね  私たちにとって、夫婦のきずながより深まったきっかけになったかもしれないです。

ーだいちゃんの病状については、どのように考えていましたか?危篤から持ち直したところに彼の強い生命力を感じましたし、親としては期待や希望を持つ瞬間だったかもしれません。実際お二人は、どんな心境だったのでしょうか?

あまね  私は、冷たく聞こえるかもしれませんが「明日死ぬかもしれない」って思っていました。より正確に表現すると、「死ぬことを前提としていたら、自分が傷つかなくて済む」という感覚ですかね。

希望をくじかれた時の辛さを先回りして想像していたので、自分を保つために「守りの態勢」に入っていたんでしょうね。なんにせよ、長生きを期待しないようにしていたと思います。

ひで 私は、持ち直したというのもあって「案外生きられるんじゃないか」って思っていました。私も私で、妻のやり方とは違う方法で自分を守るために、現実逃避みたいな感じで。なんの根拠もなく「大丈夫、生きられる」って言い聞かせていました。

 


生後1ヶ月足らずで迎えた大手術。気持ちの変化、親としての覚悟

  子どもの生命力のすごさ

ーそこから実際の病状は、どんな風に推移されていったんでしょう?

あまね  2019年9月2日に移送先の県外の病院に入院、そこから危篤宣告からの持ち直しなどを経て、23日に心臓の手術という流れでした。

だいちゃんの心臓は、血を全身に送る役目をしている左心室が石灰化していて、機能してなかったそうなんですね。そこで、右心室に左心室の役割も担えるようにする手術をしようという提案がありました。
そもそもだいちゃんのような事例は日本国内にほとんどなくて、主治医の先生も調べながらいろいろな仮説をたてて進める、という感じでした。

何回か手術を重ねていくということで、まずは第1回目の手術を23日に行い、そこで初めてだいちゃんの胸を開くということになったんです。胸を開いて、肺動脈をしばって肺にいく血液を少なくして、右心室だけで全身に血液を送れるようにする手術でした。

手術に関しては、全身麻酔で脳に影響があるかもしれないし、だいちゃん本人の負担は大きいとのことで、死亡率は30%以上と言われました。なので、家族全員、祖父母(それぞれの両親)も呼んでみんなで手術が終わるのを待っていました。
でも、結局彼はその手術から生きて帰ってきて、そこから、一時危篤だったとは思えないくらい回復してくれたんです!

手術後2か月間は人工呼吸器をつけていたんですけど、11月には呼吸器もはずれて、先生たちもびっくりしていました。11月には乳児用のマスクをつけて、12月にはネーザルハイフロー(鼻から高流量の酸素を入れる装置のこと。人工呼吸器より患者の負担が軽い)で生活できるようになったんです。

マスクを着けだしたころから、私も抱っこしたり初めて沐浴させることができたり、奇跡のような回復がめざましくて。私たちからすれば、抱っこができるだけでも嬉しくて…。11月、12月は、いろんなちっちゃいことがとにかく嬉しかったです。

ーあまねさんは当初「とにかく期待しない」という心境だったと語ってくれましたが、この頃には、「もしかしたら生きられるかも」といった感覚が芽生えることもあったんでしょうか?

あまね  そうですね。この心臓と共に生きるという選択肢もあるんだな、と思うようになりました。子どもの生命力のすごさを感じて、私もだんだん前向きに考えられるようになりましたね。

だいちゃんが生まれてからその頃までは、家族以外の外部との関係をほぼ断っていたんですけど、それも少しずつ回復させようかなと考えるようにもなりました。

ーひでさんは、以前は現実逃避のように、根拠なく大丈夫だって言い聞かせていたとおっしゃっていましたが、そこにも何か変化はありましたか?

ひで 私の方も、徐々に良くなってきた様子を見ていて、これは次のステップにいけるだろうって、より前向きに考えられるようになりましたね。次の手術の話も出てきたりして、現実的に考えだしたりしました。

ーご家族以外の方に状況を伝え始めたのは、いつ頃でしたか?

あまね  元々、すごく仲のいい友達とかには、入院初期のころから伝えていました。だいちゃんの入院時期が私の誕生日と重なっていて、状況を説明したら「まずはバースデーランチ行くよ!」とか言って連れ出して、じっくり話を聞いてくれたり。それは、結構ありがたかったです。

でも、そこまで親しい関係でない人とかには、正直「なるべく関わりたくない」って思っていたのを覚えています。誰も私のことを知らない世界に行きたい、って思っていました。

それでも徐々に、入院して2か月たった頃から、「この子には知っておいてほしいな」という友達に自分から連絡するようになって、ご飯を食べに行ったりして状況を話したりもし始めました。自分と置かれた状況は違えど、前向きな人と一緒にいると、自分も前向きになれるなってことも、その時に気づきましたね。

ひで 私は、社員には9月の入院した当初に伝えていました。何があるかわからないので、突然自分がいなくなることもあるかもしれないけど、その前提でのオペレーションを考えておいてほしいと伝えました。
でも、私もそれ以外の人には言えなかったです。特にお客さんとかには言える心境ではなかったですね。

第二子が生まれた事実は伝えていましたから、結構みなさんから「おめでとう」って言っていただいて…。そこでも何も言えず、「ありがとうございます」って言うしかなかったです。気を遣われるのも嫌だな、という思いもあって。

実際、バタバタしていてどうなるかわからないっていう時に「おめでとう」と言われて、笑顔で「ありがとうございます」って言うのはしんどかったですね。複雑でした。

ー生活の変化という点では、だいちゃんの入院後はどんなことが変わりましたか?

あまね  それが、実はあんまりなかったんですね。付き添い入院ではなかったので、基本ルーティンは変わらず。家での生活をこれまで通り送って、病院に通って、上の娘も同じリズムで保育園に通って、ということができました。

ただ、私は元々産休、育休中で家にいるのがデフォルトという状況だったので、そこまで変わらなかったですけど、夫は違ったかもしれないです。

ひで 私の方も実際、それほど変わらなかったですね。上の子はこれまで通り家にいるし、私は日中仕事をしているし、下の子が病院にいるからお見舞いに行くということが加わったくらいで、そこまで変化はなかったです。

あまね  それが、実はただ、娘を遊びに連れて行くっていうのが、1年間ほとんどできなかったんですよ。
いつも一緒に連れて行く場所は病院という感じで、家族だから仕方ないよねと思いつつも、「付き合わせてしまったな~」という想いは未だに残ってます。3歳という年齢は、いろんなことに挑戦できる時期だったのにな~、と。

ー当時はまだ、社会情勢的にも、娘さんを病院に連れて行ける状況だったということですね。

あまね  コロナが大流行する前だったので、連れて行くことはできました。ただ、12歳以下のきょうだいはお見舞いに行ったとしても、面会はできないという規則でした。なので結果的に、娘にとっては1年以上も弟に会えないという状態が続いたんです。

スマホで写真とか動画越しに弟を見るっていう状態で。それも、たくさんの管につながれている写真ですから、「わ~、私の弟かわいいな~」というより、「これがだいちゃんか、がんばってるね」みたいな感じの反応でしたね。

「なんでだいちゃんは心臓が悪いの?私にも分かるように教えて」とよく聞いてきて、彼女なりにこの状況を理解しようとしてるんだなっていうのが、私たちからも分かりました。

 

  「疾患児の親」として生きていく覚悟

ー9月に手術をして、12月にかけてどんどん回復してきたということで、その辺りで次の手術の話も出るようになっていたんでしょうか?

あまね  はい、そうですね。生後4、5ヶ月となる2020年1月頃に、次の手術の話が出てきて説明を受けました。

ですが、その手術の内容があまりにも壮絶過ぎて、血管を切ってつなげ、もともと機能していない左心室を縮める…といったような中身で、「こんなことしたらだいちゃん死んじゃう」って感じてしまったんです。せっかくよくなってきたのに、と思うと、率直な親心としては「これでいいのかな」って…。

そんなとき、当時ボランティアに応募して、初めてアンリーシュ代表の金澤と面談した際に、「SNSを活用して情報を集めてみたらどう?」と言われたんです。
その時まで、自分で第三者の情報を集めるっていう視点が全然なくて、すごくハッとしました。「これは自分が親としてできることの1つだ!」って思いましたね。

元々だいちゃんのような「新生児の心筋梗塞」はほぼ前例がないと言われていたので、もし情報が集まらなくても仕方ない、なにか情報があればラッキーだな、という感じでFacebookとかTwitterとかを使って情報募集を始めました。夫にも相談したら、「いいと思うよ」と言ってもらえたので。

実際、SNSでの情報募集は自分たちにとって、カミングアウトみたいなものでした。公にはっきり自分たちの状況を伝えてなかったので、SNSで発信したことで、「心疾患児の母として生きる」という覚悟ができましたね。

かたや、やっぱり新生児の心筋梗塞自体については、珍しいケースだけに情報がほとんど集まらなかったんですよ。4本くらい論文はあったけど、みんな亡くなってしまっているケースで、進行形の治療法に関しての情報は全然なくて。

でも、「この病院は小児の心臓に強いです」といった病院についての情報は、すごく集まったんです。全然「セカンドオピニオン」なんて考えてなかったんですけど、息子の生死がかかった判断でもあり、こんなにたくさんの先生がいるって知ったら話を聞きたくなってしまって。

そこから、たくさんの人が協力してくれたんだし、せっかくだからセカンドオピニオン行こうって決めて、主治医に相談した上で3か所に行きました。入院中の病院からは提案されなかった心臓移植についても興味があったので、聞いたりもしました。

でも結果的に、どこの先生からも今の病院の処置は妥当だと言っていただき、すごく「納得」したんです。そこしか知らないと不安になったりもしちゃうんですけど、いろんな意見を聞くことで、改めてこの病院を信頼しようって思えました。

この一連のプロセスを通じ、病院側にも協力いただきつつ話し合いを重ねることで、お互いに、より理解しあうことができたようにも思います。

取材・文/オードラン萌、写真/本人提供、協力/高山美穂


2人目のお子さんである「だいちゃん」を、1歳7カ月で天へ見送った中野夫妻。ここまでの<前編>では、「現実とは思えない」現実に向き合ってきたお二人が、それぞれの気持ちの変化や、子どもの生命力のすばらしさ、そして親としての覚悟について語ってくださいました。
続く<後編>では、2度目の手術から在宅ケアに至るまでの流れや、子どもの命に関する決断や最期の日々について、家族の道のりをたどっていきます。

※NPO法人アンリーシュ:「医療的ケア児」の家族や支援者向けWebメディア・動画の企画運営、また研修・イベントの企画運営を行うNPO法人。
Webサイト>unleash.or.jp/

 


\あなたのSTORYを募集!/
UMU編集部では、不妊、産む、産まないにまつわるSTORYをシェアしてくれる方を募集しています。「お名前」と「ご自身のSTORYアウトライン」を添えてメールにてご連絡ください。編集部が個別取材させていただき、あなたのSTORYを紹介させていただくかもしれません!
メールを送る