2人目のお子さんである「だいちゃん」を、1歳7カ月で天へ見送った中野夫妻。<前編>では、「現実とは思えない」現実に向き合ってきたお二人が、それぞれの気持ちの変化や、子どもの生命力のすばらしさ、そして親としての覚悟について、率直に語ってくださいました。
この<後編>では、重篤な心疾患を抱えるだいちゃんについて、セカンドオピニオンを経て決めた2度目の手術や在宅ケア、そこからの命に関する決断や最期の日々までの、家族の道のりをたどっていきます。
そして、だいちゃんがこの世界に残してくれたこととは何なのか。中野夫妻から私たち、そして社会へ向けたメッセージもお聞きしました。
中野あまね/Amane Nakano 1987年生まれ。静岡県出身。食べることと料理が好きな管理栄養士。2019年に第二子の息子が重度の心臓病で生まれてきたことをきっかけに、医療的ケア児専門のメディアを運営するNPO法人アンリーシュで活動中。
中野秀俊/Hidetoshi Nakano 1984年生まれ。学生時代、IT企業を起業するも失敗。その後司法試験に挑戦し、弁護士となる。現在は、法律事務所と会社を経営。医療的ケアが必要な子どもを持って、頑張りたくても頑張れない人がいることに気づく。そのような人を自社でも採用できるように奮闘中。
2度目の手術。「医療的ケア児家族」としての在宅ケアの日々
この世に生まれてきただけで素晴らしい
ーでは、セカンドオピニオンがきっかけで2回目の手術を決断されたんですね?
あまね そうですね。2020年3月に手術に同意して、まもなく生後8ヶ月を迎える4月20日に手術になりました。だいちゃんが、めちゃくちゃ頑張った手術です。
死亡率は相変わらず30%以上と言われていたし、手術時間も13時間以上だったんですけど、無事に生きて帰って来てくれて。ただ、手術は半分うまくいって、半分うまくいかなかったっていう結果でした。血管を切ってつなげるという点はうまくいったんですけど、左心室を縮めるという点がうまくいかなくて。
そのせいで、心臓に入って来る血がドロドロになってしまうとのことで、血をサラサラにする薬を飲み続けることになりました。もう、この心臓と共に生きていくしかない、という覚悟を親としても新たにした感じでしたね。
ー手術にはご夫婦で立ち合われたんですか?
あまね いざという時のために二人で立ち合うように言われたんですけど、娘もいるので、私一人で立ち合いました。夫と娘は近くのホテルで待機していて、何かあったらすぐかけつけられるようにしていました。
娘は、この手術の日のことがすごく印象に残っていたみたいで、その年の夏休み明けに保育園の先生が「夏休み何したの?」と聞いたら「だいちゃんが手術がんばりました」って言ったらしいんですよ。いや、手術は4月だったんですけどね(笑)。
1年以上たった今でも、「あの時、だいちゃんは本当に頑張ったね」って言っています。あの手術は、娘も含め家族みんなでがんばったなって思っています。
ー2回目の手術にいたるまでも、かなり多くのことを乗り越えてきた感じがしますが、ご家族でも、いろんなことをお話されたんじゃないでしょうか?
あまね 夫とは、いろいろ議論するっていうよりは、私がメインで考えて「どう思う?」って彼に相談するスタイルが基本でした。
私はカッカしやすいタイプなので、冷静に考えられない時もあるんですけど、私の感情的な提案とかも夫が冷静に「いいんじゃない」と言ってくれる感じで、それは助かりましたね。あとは、話し合うっていうより、日々の情報共有を行うという感じだったかな。
ひで いや、妻は今いろいろはしょって言いましたけど(笑)、結構いろいろ話し合いましたよ。
情報収集することで、かなりいろんな選択肢が出てきて、心臓移植とか、大阪の病院へ移るとか。じゃあ上の子どうする?うちの両親呼ぶか?とか。いろんな選択肢があるから、話し合う内容も二転三転して。ものすごくたくさんの人に連絡したりもしましたね。
あまね ああ、確かに(笑)。例えば、心臓移植の可能性を考えたりもしたんですけど、調べたら、もうすさまじく大変で!
海外だったらすぐに心臓移植ってできるんですけど、日本だと3年以上待たないといけないということが分かって。じゃあ海外に行って手術しようって考えたら、約3億円もの資金を集めないといけないし、家族は離ればなれに生活しないとならなくなるし、娘はジジババが育てることになるかもしれないし、仕事はできなくなるし、夫は弁護士だから募金活動できないし、私が海外で付き添い入院をして、具合が悪くなった場合、誰も代わりの人はいないし…。
などなど、情報を調べるたびにいろんな人に連絡したりして。心臓移植した人の話は一般によく聞くから、他の人にできるなら自分たちにもできるって軽い気持ちで考えていたんですけど、私たちには無理ということが分かりました。
ー心臓移植については、病院側からも何かお話はあったんでしょうか?
あまね アメリカやフランスだったら、第一選択肢は心臓移植だったって言われました。ただ、日本では現状かなり難しいから、ダメもとでも手術をするしかないということでした。
親としては結局、何を選んでも地獄だな~という感覚が正直ありました。ただ同時に、セカンドオピニオンでいろんな場所に行ったことで、だいちゃんが生きていることがいかにすごいか説明してもらえて、生まれてきたこと自体が奇跡なんだな、ということも分かったんです。
だいちゃんのように心臓に問題がある場合は、普通なら生まれる前に流産や死産してしまうものらしいんですけど、彼は生まれてきた。たくさんの医療者の方々から、「なぜ生まれてきたかが不思議です」って言われました。なんか、だいちゃんってすごい生命力のある子なんだなって改めて思って。
初めて2回目の手術について聞いた時は、「だいちゃん死んじゃう」って思っていた自分が、徐々に「だいちゃんなら生きていけるかもしれない」という気持ちに変わり始め、自信をもって「手術に臨みましょう」って言うことができました。
心筋梗塞だと言われて入院することになり、最初はただただ悲しかったんですけど、むしろ「この子はすごい!」ってみんなに自慢したいくらいに気持ちの変化はありましたね。
看護師さんにも「だいちゃんは特別すごい」って言われることも多くて(笑)。だけど、本当は、他の心疾患を抱えている子も、いろんな病気をもって生まれてきた子も、どの子もみんな素晴らしいんですよね。
ー本当にそうですね。だいちゃんの生き様から、あまねさんやご家族はとてもたくさんのことを学んでいかれたんですね。そこから、2回目の手術が終わり、次はどんな状況になったんでしょうか?
あまね 4月に手術が終わり経過も比較的良好だったので、そこでいよいよ、退院に向けて準備しようということになりました。親の私たちも病院で指導を受けながら、呼吸器のケアとか、管の貼り換えとかを練習しましたね。家族が自宅で準備するものをイメージしやすいように、ということで、6月14日に一度、2泊3日でお試し外泊もしたんです。
ひで その後、2020年7月14日に正式退院して、定期健診で2週間に1回病院に行くという感じになりました。ものすごく大きな一歩でしたね。
かたや退院直後、大地が家に帰ってきてからは生活リズムが激変して、もう夫婦間はギスギスでした。退院する前は、もうすぐ一緒に住めると思うとただただ嬉しくて。退院前は幸せな時間でしたね。
あまね ほんと、退院前はいろんな練習しながら楽しみだなって思ってたんですけど。実際退院してからは、在宅ケアってやらなきゃいけないことが多くて、すごい大変でした。
ー夫婦間がギスギスとは…。それだけ在宅ケアが大変だったんだろうと想像しますが、具体的にどんなことをお家でされたんでしょう?
あまね 一番大きなことは2つあって、まずは栄養供給。だいちゃんは口から栄養がとれないので、鼻チューブから栄養供給するんですね。チューブが胃までつながっていて、2時間くらいかけて100㏄のミルクを送るっていうことをしました。
もう一つが、酸素の供給。だいちゃんは汚い血ときれいな血が混ざった状態で生きていたので、酸素が足りなくなってしまうんですよ。それで、酸素の機械で酸素を鼻の下から24時間送りこむということをしていました。あとは、だいちゃんは胃食道逆流症だったので、吐き戻しがひどくて。洗濯する回数がすごく多くなりました。
さらに3食後プラス寝る前(1日4回)に、血をサラサラにする薬と強心剤を注入しないといけなくて、壁にお薬カレンダーをつくって、夫と交代で対応したりもしていました。ミルクの注入は3時間おきだったので、夜中も3時間おきに起きないといけなくて、今になってまた新生児が家にやって来た感じでしたね。
薬の注入も忘れることはできないし、洗濯はあるし、睡眠時間は削られて、常にイライラしていました。
ひで 私は、元々時間の制約があるのが嫌で起業したのに、なんでこんなに時間的制約のある生活に逆戻りしてしまったんだって思ってました。
自分で経営していたので、ある程度自由なところはあったんですけど、それでも、薬の注入はしないといけないし、娘のお迎え行かないといけないし。働き方がすごい変わってしまって、でも妻は妻で大変だし…ケンカが増えましたね。
あまね そんな中で、だいちゃんみたいな医療的ケアが必要な子には訪問看護で看護師さんが来てくれるんですけど、毎日来てくれて精神的にもとても助かりました。日本の福祉って手厚いなと感謝しましたね。周りに助けてくれる人もたくさんいたので、幸い孤独ではなかったです。
ー本当に在宅ケアは大変そうですね…。その中でも、夫婦関係やお互いのストレスに対して、工夫されたことはありますか?
ひで 一度、私の感覚としては「もうこれは無理かもしれない」と思うようなことを、妻から言われたんですよ。仕事も育児も頑張ってるのに、なんでそんなこと言われないといけないんだろう?って。それを妻に伝えたら「ごめん、ただイライラしてた」って言われたんです。
ああ、これはちゃんと話し合わないといけないって、その時思いました。お互い我慢し続けてたんじゃないかと思って。
あまね 私としては、そんな大したこと言ってなかったと思うんですけどね(笑)。
ひで あの時は、睡眠がとれてなかったので、気が狂いそうでした。ちょうどだいちゃんが退院して1週間たったあたりで、疲れもピークに達してきていた頃でした。
話し合いをしたこともそうですし、1週間たって体も順応してきたということもあって、その後はお互いリズムをつかむことができて。本格的な夏を迎える頃には、ケンカも少なくなっていきましたね。
ー職場の理解とか、具体的なサポートとかはありましたか?
ひで その頃にはもう自分たちの状況を公表していたこともあって、社員や仕事仲間には言いやすかったです。自分がオフィスにいることができる時間も限られていたので、もう「任せることは任せる」と、大胆に働き方を変えましたね。
あまね 私は小学校の栄養士として働いていたんですけど、休職中でした。私の代替で働いてくれていた栄養士の方は、気を遣ってくれて、私に連絡をとらず一人で頑張ってくれていました。普通なら、代替の人と電話しながらやるんですけどね。それには本当に感謝しています。
ーあまねさんは、本業の他に、医療的ケア児家族をサポートするNPOのアンリーシュでの活動は、実際いつから始められたんですか。
あまね だいちゃんが生後2,3カ月の時にその存在を知りました。最初はボランティアとして関わり始め、体験談を記事にしたり、動画をとって編集してもらったり、SNSの更新・投稿を行ったりしていましたね。
自分が当事者になったことから、病気や障がいのある子どものお母さんの支えになりたいという想いが生まれたのと同時に、やっぱり当事者にならないとわからないことがあることにも気付いたんです。以前、流産してしまった友人がいたんですが、実際体験していなかった私は、彼女の悲しみに寄り添えてなかったなって思って。
それから、いろいろ調べていたら、「医療的ケア児」という言葉に出会ったんです。医療的ケア児っていうのは人工呼吸器とか、そういった高度医療技術を日常的に必要とする子どものことなんですけど、その医療的ケア児について調べていた時、あるお母さんの記事を目にしました。
お子さんが3人いて、一番下の子が医療的ケア児というお母さんで、人工呼吸器を着けている子どもの喉に痰が絡まってしまうから、10分に1回は吸引しているという話だったんです。10分に1回を24時間行っていて、それをしないと痰がからんで子どもが死んでしまうという。
「睡眠もとれないし、上の子どもの面倒もみないといけないし、どうしたらいいんでしょう」というそのお母さんの言葉を読んで、すごくショックでした。現実的に、医療的ケア児の家族に対するサポート体制はまだ整っていなくて、人として当たり前の生活を送ることができない親はたくさんいます。
それに、医療的ケア児に関する情報もあんまりないんですよね。例えば、出産後、家に帰る時に何が必要かという情報はたくさんあるんですけど、医療的ケア児が退院して家に帰る時に何が必要か、なんて情報はとても十分とは言えないんです。だから、アンリーシュとの出会いをきっかけに、少しでも多くの医療的ケア児家族の助けになれるよう、今も精力的に活動しています。
ーだいちゃんの情緒面の発達や、ご家族との愛着形成のプロセスなど、お二人がどんな風にだいちゃんと接してこられたかも教えていただけますか?
あまね だいちゃんは、普通の赤ちゃんくらいには目を開けられていました。入院当時からも、私がお見舞いに行くとにこっとするし、猫みたいな声でニャーニャー話してくれたし、最低限のコミュニケーションはとれていた感じがします。
脳梗塞を起こしていたので、右手は麻痺の状態だったんですけど、左手は動かせていました。おもちゃで自由に遊ぶってことは難しかったものの、本当に表情が豊かでした。「抱っこして」って顔で見つめてきたりとか。
ひで なんというか、新生児のかわいい感じがずっと続いてるっていう感覚でした。表情豊かでよく笑うし、絵本読むと喜ぶし、読むのをやめると泣くし。退院後、訪問看護がない日は、私がお風呂にいれたりしていましたね。
あまね チューブを付けたままでお風呂なんですけど、一回ひっかかって抜けちゃったこともありましたね(笑)。「痛そうだな」「かわいそうだな」ってことは、あんまり必要以上には考えないようにしていて、なるべくフラットに「普通」にするようにしてました。
「ちょっと忙しいから、今はYouTube見てて」とか。娘と変わらないような対応を心がけていましたね。
ひで 私は4人で暮らせるってことが、とにかくすごく嬉しくて、それが本当に幸せでした。だいちゃんは、すごいイケメンなんですよ!いつ見ても、本当にいい顔だな~って思ってましたね。目とかすごい大きくて、もう本当にいい顔なんです!
あまね だいちゃんを自宅に迎えて、病院と家との往復以外ほとんどの時間を家で過ごしていたんですけど、特に彼が1歳の誕生日を迎えた夏の頃は調子もよくて、「こんな感じでこのまま小学生になれるかも」という淡い期待も出てきたりしていた頃でした。
停電したら酸素供給できなくなるかも、とか漠然とした不安というのはあったんですけど、だいちゃんの未来を考えるようになったりして。
再入院、決断したターミナルケア。だいちゃんとの最後の時間
「正解はだれにも分からないから、選んだことを正解として生きる」
ー…しかし、その後、再入院という運びになってしまうんですね。
あまね はい。ちょうどその夏が終わる頃、2020年9月26日に再入院になりました。心臓に大きな血栓ができてしまって、そのままだとどんどん負担がかかっていき命に関わる状態でした。
病院からは、「手術の選択はある」という提案がされたんですけど、私の個人的な直感として、正直今回はもう厳しいんじゃないかなと思ったんです。かなり心臓が弱くなっているので、手術自体に耐えられない可能性もあるし、ここでまた、3回目の手術に踏み切ることが、この子にとって最善の策なのかと悩みました。
確かにこの時点で、本人の状態としても「手術をしないと亡くなってしまう」というのは間違いない事実だったんです。だから、病院側としては、少しでも成功の可能性があるなら手術をした方がいいと考えてくださっていたんだと思います。
でも、母親としての私は、また違う感覚を持ち始めていました。というのも、4月に行った手術は大変なものでしたけど、家族としては「家に一緒に帰れるかもしれない」という明確な目的がありました。だいちゃんは、その当時の状態では、手術をしない限りはとても家に帰ることができなかったからです。
だけど、今回に関しては、手術をしなくても家に帰れる。これまでと同じように、投薬を続けながら家にいることができるという状況だったんです。だったら、親としては、「手術しないで余生を家族と楽しむ」という選択をしてもいいんじゃないかと思いました。
小学生まで生きられるかもという淡い期待を抱いたこともありましたけど、こうなった以上、短くても楽しい人生を送らせてあげようという考え方に、ここでシフトが起こりましたね。手術の先に何か得られるものがあるなら、手術すべきかとも思いますが、得られるものの確証がないのに、「やれることはやった」と言うために手術するのは、単なる親の自己満足にすぎないんじゃないか、と…。
ひで いやあ、でも実際は、本当にギリギリまで悩んだんですよ。始めは手術するという方向で病院とも進めていたんです。
ある週の月曜に手術するという予定でいたんですが、その前週の金曜にやっぱりちょっと待ってくださいと病院側に伝え、手術予定前日の日曜に手術はしません、という苦渋の決定をしました。
病院側にしたらものすごく迷惑な話だっただろうと今でも申し訳なく思うんですけど、それくらい、私たちの中でも本当にギリギリの選択でしたね。
あまね その選択の後に、私はすごい悩みましたね。私がだいちゃんの寿命を縮める決断をしてしまったんじゃないかと、グルグル考え続けました。
でもその時、夫から「何を選んでも正解はないんだから、選んだことを正解として生きていくんだ。手術していたらもっと長生きしていたかもしれない、っていう想いも含め、僕らはずっと背負って生きていくしかないんだ」って言われて。私もそうやって生きて行こうって、ようやくそこで決心できました。
ーそこで、セカンドオピニオンを再び取りに行くことはされなかったんですね?
あまね 病院側の意見と合わない時や、自分の考えを主治医にぶつける時などもあり、いろんなことを議論しあったんですけど、今回は外部のセカンドオピニオンはもらわずに、病院側と話し合いを重ねました。前回の手術もあり、病院のことを信頼しようと決めていたので。
ー「手術をしない」という選択はある意味で、ご家族にとっても本当に酷な、正解のない決断だったと思います。だからこそ、より深くだいちゃんの命について、ご家族の人生について、最善の道は何かということに向き合われた時間だったのではないかと。
あまね そうですね。そこから、ターミナル(終末期)ケアということを私は強く考えるようになりました。夫とも話して、その先の延命治療はしないことも決めました。
例えば、何かあった時に、肋骨が折れてしまうような心臓マッサージはしない、と決めたりとか。私たちが、家で看取ろうと。
ーそうなんですね…。そこから、3回目の手術をしないと決断されてからの具体的な流れを教えていただけますか?
あまね その決定をした後も入院生活が続いていたんですが、本人が1歳3ヶ月を迎えようとする11月中旬、病状を鑑みるに、この先もう退院して日常の生活を送るのは難しいという判断がでて。今後は、できる限り家族との時間をつくるようにしてください、と言われました。
そこから、朝10時に病院にだいちゃんを迎えに行って、家で一緒にすごして、夕方4時に病院へまた送り届ける、という生活を始めたんです。
祖父母(それぞれの両親)も呼んだり、カメラマンも呼んだりして、みんなで家族写真を撮りました。もうこれが家族で過ごせる最後の時間なんだって思って、一緒に散歩とかもしましたね。
なのに、その後程なくして病院から、「元気になってきたので、退院できそうです」と言っていただけて!
11月17日に正式に退院して、家で過ごすことになりました。訪問診療の先生がいつも来てくれて、だいちゃんを自宅でも診てもらうことができました。
この訪問診療の先生が、ターミナルケアの専門家(主に小児がんの専門)の方で、病院にいる時とはまた違った対応をしてくれたんです。「とにかく家族でいっぱい思い出を作ってください」と言ってくださったおかげで、旅行にも3回行きましたし。先生も訪問看護師さんも助けてくださって、たくさんの人とも交流できたし、いろんなことを一緒にすることができました。
「家族で過ごせることで、予想以上に生きられる子もいるんです」と言われ、だいちゃんの余生を家族で過ごすと決めた私たちの決断を、後押ししてもらえた気がして嬉しかったです。
ただ、退院するのは難しいと言われたくらいだから、1、2週間くらいしか生きられないんじゃないか、とも考えていたんです。
だから、とにかく早く多くの人に来てもらおうと思って、知り合い50人くらいを順番に呼んだりして。このかわいいだいちゃんを、「かわいそう」じゃなくて「かわいい」っていうイメージで、脳裏に焼き付けて欲しかったんですね。心配してくださっていた人には、だいちゃんが実際にがんばっている姿を見せたかったですし。
11月、12月のだいちゃんの調子はとても良くて、旅行行ったり人に会ったりってことができたんですけど、そこから年が明けて2021年1月、2月と、だんだん調子が悪くなっていったんですね。
顔や体がむくんで、おしっこもでなくなってきて、おなかが腫れているのにあばらはがりがりで、ミルクも入れられないという状態でした。見ていて本当に辛かったです。大人だったら「痛いよ、苦しいよ、助けて」って叫ぶことができただろうに、って思っていました。だけど、「逆にしゃべれなくて良かったかも」って思っちゃうくらい苦しそうで…。
主治医の先生とも相談して、モルヒネの投与をどんどん増やしていきました。ただ、具合悪くてもお出かけはたくさんするようにしました。
事実として、家にいてよくなるわけでもないという状況でもあり、残された時間を濃密に過ごすことを第一に、桜を見せに行ったりとか、外に出たりするようにしていました。
3月28日に豊洲のチームラボに家族4人で行ったんですけど、帰ってきたら少し熱が出てきちゃったんです。その前に、私たちもちょっと風邪をひいていたので、うつしてしまったのかなと思っていたんですけど…。
その2日後、満開の桜が咲き誇っていた2021年3月30日、大地は息をひきとりました。
1歳7ヶ月を迎えてから数日でした。
息が止まるとき、本当に「ピッ」っていう感じで息が途切れて。私は横で寝ていて、突然(機械音が)「ピ――――――」って。こんな感じで、あっけなく人間の呼吸は止まるのかって。
ものすごく悲しいっていうのはもちろんあったんですけど、それよりも、「こんなに苦しませてごめんね」っていう罪悪感と、「ほっとした」っていう安心感と、「本当によくここまで頑張ったな」っていう気持ちが混ざって、不思議とすぐには涙が出ませんでした。
ひで 私も、「本当によく生きたな」っていう気持ちが一番強くありました。大地は本当に頑張ったな、と。
妻が夜中に「大地が死んだ」って言いに来たんですけど、妻も取り乱しているわけでもなくて、むしろ「辛いことから解放されてよかったな」って思ったのが正直なところです。
妻が言っていたように、最後に家にいることができた4か月のうち、後半2か月は具合が悪くて本当に辛そうでした。だから、大地が苦しみから解放されたこと、ここまでよく生き切ったこと、そちらへの労いの感情の方が悲しみよりも強かったかもしれません。
ー最後に家族で過ごされた4か月で、一番印象に残っていることはなんでしょうか?
あまね 熱海への家族旅行ですかね。コロナが流行っていたというのもあり、感染対策に気を遣いながらの旅行でしたが、「こんな日が来るなんて!」と感慨深かったです。
でも、一番はたあいのない日常の時間だったかもしれません。家族4人で歌を歌ったり、踊ったり。それを動画で収録してだいちゃんにも見せたりしてました。
だいちゃんが残してくれたこと
「命を生き切ったこと」に乾杯する「オンラインお別れ会」
ー息子さんの最期を「よくやったね」という思いで労われたお二人ですが、だいちゃんが現実には存在しなくなったということで、行動や気持ちに変化はありましたか?
あまね 私は、良くも悪くもあまり変わらない、ですかね。だいちゃんが生まれて2、3カ月の頃、入院してる時なんですけど、娘の前で泣いてしまったことがあったんですよ。そしたら、娘が「ママ、泣かないでよ!」って怒りながら号泣して。
その時に、子どもに親が泣いている姿を見せるのはよくないって気づきました。子どもにとっては、親が自分のせいで泣いてるって思うのが、一番辛いことなんだと思うんですよね。だからその日から私は、子どもには、自分の前向きな姿を見せ続けようって決めたんです。
なので、だいちゃんがいなくなってからも、あまり変わらずに日常が過ぎていっている感じですね。「だいちゃんが生きたことを無駄にしたくない」っていう気持ちも、すごくあります。だいちゃんを想って泣き続けるより、だいちゃんが教えてくれたことを、アンリーシュでの活動につなげようって思っています。
それが、私らしい「だいちゃんを心に生かし続ける」ということなのかなって。悲しみにくれているわけではない私を、傍から見ると「冷たい親」と思う人もいるかもしれないんですけど、これが私らしさだと思っています。だいちゃんのおかげで、自分らしさに気づかせてもらいました。
ひで 大地が亡くなった翌日から、私は仕事をしていました。「よくこんなに早く仕事に戻れるね、大丈夫?」って周りからは心配されたんですけど、逆に「大地があれだけ頑張ったんだから、自分も負けないように頑張らないと」っていう気持ちが大きかったんです。
悲しいのはもちろんなんですけど、それより大地の頑張りがあったからこそ、私もそれを糧に仕事をすぐ再開することができました。あと、純粋に時間ができた、というのもあります。看護が占めていた時間的制約がなくなったことで、仕事にまた集中することができるようになりました。
いつか自分が死んで天国に行った時、大地に会ったら、大地から「お父さん、よくがんばったね」って言われたいんです。大地に褒められるくらい、自分もちゃんとしたいなって思っています。
あまね 私たちは、葬式や通夜などは催さなかったんです。ですが、少し時間がたってから、「オンラインお別れ会」というのをしました。だいちゃんのことを知っている人に声をかけて、一緒に「だいちゃんの生きた軌跡」を祝うっていう感じで。
お別れ会をしたことで、とてもいい区切りになりました。だいちゃんの人生をみんなで振り返って、気持ちを整理して、いろんなことを受け止めて、新たに仕事に専念しようと思うことができました。
ひで そうですね。私も同じ感覚でした。自分の中での良い区切りになりましたね。
ー悲しみだけではなく、共に生きたことを祝おうという。だいちゃんのお別れ会には、そんな雰囲気がありますね。
あまね 私は、とにかくだいちゃんを自慢したかったんです(笑)。一般に障がいがある子って「かわいそう」って思われがちなんですけど、本当はすごくがんばってると思うんですよ。
だから、がんばってる子に「かわいそう」っていうのは違う気がして。少なくともだいちゃんは、本当にすごかったんです!
なので、「こんなにがんばった大ちゃんを見て!」っていう感じで、自慢したくて。だいちゃんの人生がかわいそうだったって、そんな風に思われたくないという気持ちが強くありました。
今、伝えたい想い
ー命を生き切っただいちゃんにも、そして、支え抜いたご家族にも、本当に心から「お疲れ様でした」と伝えたいです。改めて今、お二人が妻として、夫として、お互いに伝えたいことはありますか。
あまね 「本当にありがとう」ということですかね。だいちゃんのことを思うと、愛情や罪悪感や悲しみの混ざった複雑な気持ちになるんですけど、それを唯一共有できる存在は、やっぱり夫です。
そんな存在でいてくれることに感謝していますね。男性の場合は、きっと仕事に逃げたり、いろんな言い訳ができたりしたはずなのに、そんなことはせず、一緒に大地に向き合ってくれました。本当に感謝しています。
ひで 私も、一言で言うと「感謝」です。大地の世話を主にやってくれていたのは妻で、辛かったこともたくさんあったと思います。最後までやり切った妻のことを尊敬しています。
感謝と言えば、娘にも感謝したいです。病院通いなど、たくさん我慢させてしまったけれど、文句も言わずに一緒にいてくれて。逆に、親を励ましてくれることもありました。娘にも「ありがとう」と言いたいです。
あまね 私も同じですね。娘は、私たち家族を前向きに導いてくれた存在でした。子どもだから「癒しの存在」だったというわけではなくて、彼女なりに「私がこの家を元気にしなきゃ」と頑張ってくれていたと思うんです。いつも明るく振舞ってくれていました。
だから、私は一人の人間として、娘に感謝しています。これからは、そんなに気を遣わずに自分の人生を楽しんでほしいなって思っています。そのために親としてサポートできることがあればしたいですし。「いつも怒っちゃうお母さんでごめんね(笑)。これからもよろしくね」って言いたいですね。
ーありがとうございます。この記事を読んでくださっている方や、医療的ケア児家族の方に向けても、メッセージがあればぜひお願いします。
ひで 私たちの場合は、上の子が健康に育っていて、下の子が医療的ケアが必要というケースでした。両方の子を育ててみて、単純に子どもはどちらも可愛いなと心から思っています。大変なことも多い(というか大変なことばかり)ですが、それ以上に、子どもから教えられることも多いんです。
あまね 私が伝えたいのは、「世の中には努力しても変えられないことがある」、ということです。私たちの息子が重度の心疾患児であるという事実は、変えられるものではなかった。正直、医療者でない私たちには、息子の病状に対して医療的な意味でできることは何もなかったです。
なので、どうしようもできないことは、考えても仕方がない、考えても仕方がないことは考えない、というのは、人生において大事なことかなと思います。ただ、変えられるものもあります。それは自分の行動と気持ち。
難しいかもしれないけど、辛いときは無理せずに、自分が変えられることから変えていったらいいと思います。
私は、はじめ自分だけが辛いと思っていました。でも、SNSを通じて情報を発信し始めたら、同じ境遇の人は自分だけじゃないと気付いたんです。仲間は必ずいます。私はSNSでたくさんの心疾患仲間ができました。だから、「天使ママ」「心疾患」など、それぞれのキーワードで仲間を見つけて、お互いに励ましあうことができたらいいんじゃないかな、って思っています。
「私は世界で一人、辛い目にあっている」と嘆くのではなくて、「うんうん、わかるよ」って気持ちを理解しあえる人を探すことで、心が少しは落ち着くかもしれません。
ーたくさんのお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。これが最後の質問になります。
お二人それぞれ、心疾患の息子さんの誕生から育児、そして看取りまでを経験されて今、このテーマについて社会や周囲に望むことがもしあれば、お聞かせいただけるでしょうか?
ひで 私は、医療的ケア児を育ててみて初めて、「世の中には努力したくても努力できない人がいるんだ」ということを知りました。そして、その人を支える家族や周囲の人の負担も、相当なものです。私自身も、実際なかなか息子が医療的ケア児であることを公表できなかったし、弱音なども吐けなかったです。
自分が経験してみて、気軽に助けを求められない状況の辛さを知りましたし、だからこそ今、隣にいる人が疲れていそうに見えたら声をかける、その大切さを痛感しています。「どうしたの?」の一言が誰かを救うこともあります。自分もこれからそういった声かけをしていきたいですし、この記事を読んでくださった方にも、そんなことを念頭に行動してもらえるといいのかな、と思っています。
あまね 私は今、だいちゃんと同じような医療的ケア児をサポートする活動をしていて、私が活動し続けることが、だいちゃんがこの世で生き続けることだと思っています。
かたや、医療的ケア児が身近におらず全く関係がない人は、なかなか自分ごととして捉えられないはず。私も実際、息子を産むまではそうでした。でも、この記事を読んでくださった方が、少しでも自分ごととして捉えてくださったら嬉しいです。自分の子どもが、もしくは自分の大切な友人の子どもが医療的ケア児になる、ということもあるかもしれないと思うからです。
医療的ケア児も、障がい児も、健常児も、まずはこの世に生まれただけで奇跡です。そして、生きているだけで素晴らしい。だから、この奇跡を誇らしく思える家族を増やせるように、医療的ケア児家族が社会でもっと受け入れられるように。
そうした社会が実現することを、私は、私たちは、心から願っています。
取材・文/オードラン萌、写真/本人提供、協力/高山美穂
※NPO法人アンリーシュ:「医療的ケア児」の家族や支援者向けWebメディア・動画の企画運営、また研修・イベントの企画運営を行うNPO法人。
Webサイト>unleash.or.jp/
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