「ダウン症で産まれても、その子らしく輝ける人生を生きてほしい。そして親もまた自分の人生を大切に、自分らしく生きていい。すべての人が安心して生きられる社会に変えていきたい。」
そう語る、宮坂あつこさん。宮坂さんは現在7歳になるダウン症の息子さんの母親であり、群馬県のFMラジオ局での番組パーソナリティから社内起業して代表を務める傍ら、旦那さんとご自宅でカフェを運営するなど、精力的に活動されています。
障がいのある子どもを持った時、その子どもが自立して生きるために親としてできることはなにか。そして親も、自分自身の人生を豊かに生きていける環境や社会とはどういったものか。
宮坂さんのお話は、明るく能動的に、自分の使命を受け止める言葉であふれていました。
宮坂あつこ/Atsuko Miyasaka 一般社団法人ジョブラボぐんま 代表理事、株式会社FM桐生アナウンサー。CAFE LE BAMBOU マネージャー。1980年群馬県生まれ。大学卒業後、栃木・東京のテレビ制作レポーターなどを経て、開局まもないFM桐生に入社。正社員として営業・制作・アナウンサーとして従事する一方、ダウン症がある長男出産をきっかけにビジネスに目覚める。「ひとりの志を、みんなの価値に。」を掲げイノベーション支援・ビジネス相互扶助組織 一般社団法人ジョブラボぐんまを2018年社内起業。夫は、ガーデンデザイナー・CAFE LE BAMBOUオーナー。趣味は乾杯たまに着物。
原点にある「生きてくれるだけでいい」という祈り
妊娠をきっかけにおとずれた人生の転換点
―まず初めに、宮坂さんのご結婚からご出産までのストーリーをお聞かせください。
はい。当時の私を振り返ると、恥ずかしながら、「ラジオの仕事をしたい」ということ以外は具体的なキャリア設計を立てることもなく、行き当たりばったりの人生を謳歌していました。
出身は群馬県大泉町で、大学進学の時に都内に出ました。卒業後の就職先は栃木県のケーブルテレビ局。その後都内のケーブルテレビ局に転職、そして2007年にFM桐生が立ち上がる時に群馬に戻り、現在もそこの社員です。
結婚はいわゆる授かり婚で、予定していたわけではなかったんですよね。ファッションデザイナーの夫は20才年上で、妊娠がわかった時、私は34歳、夫は54歳でした。
妊娠をきっかけに結婚を決めた私たちに、私の両親は大反対。かなり年上のパートナーと結婚もしていないのに妊娠したので、大きな不安が生まれたからでしょう。ショックだったようです。そんな両親を必死に説得しました。
―妊娠がわかってから、宮坂さん自身に結婚、出産に対する迷いはなかったのですか?
正直に言うと、夫との関係にも仕事にも行き詰まりを感じていた時期だったんです。でも彼は子どもを望んでいて、妊娠がわかった時は「これで結婚できる。家庭を築ける!」と大喜びでした。
私も当時34歳で、子どもはいつか欲しいなとは思っていたので、産むことへの迷いはありませんでした。
私の両親がすごく仲が良いのを見ていたし、親戚も仲が良いんです。だから漠然とですが、そういう家庭を作りたいな、という願望は持っていたのでしょう。仕事に関しても、妊娠したことで一度立ち止まるきっかけを与えられたんだ、と受けとめました。
―そこから、出産までは順調でしたか?
妊娠初期の体調不良が過ぎてからは、体調は悪くなかったので、出産1ヶ月前まで働いてから産休に入る予定でした。
ところが切迫早産の危険があると診断され、出産予定日の4ヶ月前から仕事を休まざるを得なくなり、自宅で絶対安静で過ごしたんです。足がひどくむくんで足湯の毎日でした。
―切迫早産のリスクを抱えて絶対安静で過ごす中、赤ちゃんに障がいがある可能性について考えたことはありましたか?
真剣にそれについて考えたことはありませんでしたが、出生前診断についての報道を見た夫が、検査はしなくて良いか、と聞いてきたことがあります。私はその必要性を感じておらず、障がいの有無に関わらず産んで育てることに迷いはない、と答えました。夫も私の気持ちを聞いてからは何も言いませんでした。
もしも子どもがダウン症だったらどうするか、という会話を夫婦でしたのは、その一度だけです。
―出産時の状況と、その後の経過を聞かせてください。
出産は無事に終えたのですが、赤ちゃんは産まれた直後には泣きませんでした。これはあとで知るのですが、ダウン症の子はすぐに泣かないこともあるそうです。
看護師さんたちが必死で泣かせてくれた我が子を初めて見た瞬間、「か、かわいい。なんて可愛い生き物なんだ。」と母性が爆発しましたね。
夫も立ち会っていたので、抱かせてもらって感無量だったのではないでしょうか。私はフルマラソンを走り切ったような、やりきった達成感で満たされていました。
ですが翌日、ドクターから話があると呼ばれ行ってみると、息子は呼吸器をつけて寝かされていました。
そして、「呼吸状態が良くないから、今から救急車でNICU(新生児集中治療管理室)のある総合病院に運びます」と言われ、同時に「ダウン症かもしれません」とも告げられたんです。
私は状況を飲み込む以前に、この子が「生きる」か「死ぬ」かの瀬戸際にいることに対して、ただただ「とにかく生きてくれ」という思いしかありませんでした。
その時点では、ダウン症かもしれない、ということへのショックはなく「ドクターに任せます、だからとにかく生かしてほしい」、その気持ちでもういっぱいです。産んだ直後に一度だけ抱っこできたあの可愛い我が子を、突然奪われたような衝撃と混乱でした。
―「とにかく生きてほしい」という、当時の宮坂さんの声が聞こえてくるようです。NICUへ入ってからの経過や、その頃の宮坂さんの精神状態はどういったものでしたか?
NICUには2週間ほどいました。その頃は私もまだ産院に入院中だったので、母乳を絞って届けるのですが、それが待ち遠しくて仕方ありませんでした。「早くあの可愛い子に会いたい」そんな気持ちです。
NICUで息子を抱っこしながら、改めてその可愛さを噛み締めましたね。
でも、まだ命が助かる確信が持てない時で、精神的には非常に不安定でした。
産後すぐに私の親も面会にきましたが、その時はダウン症に関することは言いませんでした。自分の気持ちも整理できていない状態でしたし、不安な様子を見られたくなくて、できるだけ人と関わらないようにしていたんです。
そしてダウン症告知。使命感と、周囲の支え
そこから、状態が安定してきたとのことでNICUを出られることになり、GCU(新生児回復室)へ移り2ヶ月入院しました。
ダウン症については、出産翌日にその可能性を伝えられてから、その3日後に染色体検査が行われていました。結果が出るまでの1ヶ月間が一番、気分が塞ぎもやもやしていたかもしれません。ずっと情報を検索していましたね。
―はっきりするまでのその1ヶ月間は宮坂さんにとっても旦那さんにとっても、ご夫婦にとって重苦しい時間だったと想像します。その間、旦那さんとはダウン症についてどういった会話をされていましたか。
それが、お互いあまり触れなかったんですね。少なくとも私の方は確定してから話し合おうと思っていたし、息子が生きていることだけでありがたいと思っていました。
でも夫は、ダウン症の可能性が高い事実に大きなショックを受けていました。だから、夫婦としては、今はそのことには触れずに、とにかく「子どもを家に迎える準備をしよう」という姿勢を貫きました。
一方で、私も一人になると、やはりダウン症の子どもをどう迎えれば良いのかを調べていました。あまりにもダウン症に対する知識が乏しかったので、とにかくネットや本を読みあさっていたと思います。
今改めて本棚を見ると、その当時買い揃えた関連書籍がたくさん並んでいて、私も必死だったんだな、と実感します。
―必死に知識を得ることで、消せる不安もきっとあったことと思います。1ヶ月経過して、実際の告知を受けた時とその後について聞かせてください。
私は覚悟を固めていたと同時に、とはいえ、やはり健常児であってほしいという願いはありました。
告知してくれたのは、まだお若いドクターでした。告知する側もなかなか勇気のいることなのか、ドクターは震えていて、そばにいた看護師さんは泣いていました。
でも、 悲壮感溢れるドクターたちを前に、そこで私が感じたのは「ダウン症児が本当に私のところへ来る。これは伝える仕事をしている私に、白羽の矢が立てられた。」という使命感だったんです。
実は告知までの期間に、職場の仲間や友人に、息子はダウン症かもしれないと伝え始めていました。そして彼らからの言葉に励まされ、すでに支えを得られていたので、絶望はせずに告知を受け止められたんだと思います。
―具体的にどんな言葉が、宮坂さんに勇気や安心をくれましたか?
まず、親しい友人に助産師がいるのですが、彼女に伝えた時は、すぐに「オランダへようこそ」という有名なエッセイを教えてくれたし、ダウン症と新しい視点で向き合えるような情報や知識も与えてくれました。
職場では、社長はじめ仲間たちが「みんなで育てよう」と言ってくれたんです。それを聞いた時、「一人で抱えなくていいんだ。私は支えてもらえる。」と、気持ちがとても楽になったのを覚えています。
―宮坂さんはそういった周囲の支えを得ながら、ダウン症の事実を受け止めていかれたようですが、大きなショックを受けた旦那さんはいかがでしたか?
今振り返ってみると、夫は夫なりに精一杯私を支えながら、事実と向き合っていたのだと思います。
産まれてすぐにNICUに行ってしまったショックを私と同様に抱えながら、産後の3日間は私に代わり、毎日NICUへ母乳を運んでくれました。この3日間で父性が芽生えたのかもしれません。
そして、息子に面会できてからの私は、「全然心配ないよ~」と敢えて深刻にならないように、意識的に明るく振る舞いました。
「あー、管付いてるけど、どうやってお風呂入れようか~」と笑って話しているうちに、一歩づつ、夫の緊張や悲しみも溶けていったように思います。
ダウン症の正しい知識とつながりを増やせば、開ける世界がある
ダウン症に関する情報リソースの課題
―旦那さんの気持ちも支える宮坂さんは、まさに「母は強し」を体現されているなと思います。ここからは、息子さんの英汰(えいた)くんについて伺わせてください。現在7歳になられた英汰くんですが、ここまでの成長過程と最近の様子をお聞かせください。
一般的にダウン症の子どもは、実年齢の半分くらいのスピードで成長すると言われているそうです。ですから、現在彼は7歳ですが、健常児でいう3〜4歳ということですね。
体格的にも知能的にも、彼を見ていて実際それくらいだと思います。健常児の成長曲線と比べてしまえば、比較にならないくらい遅いです。
コミュニケーション能力を養うためにも、たくさん話しかけるようにしているし、彼が何か言えばなんでも「うんうん」と聞いて肯定するよう意識しています。最近日本語が上手になってきました。
とはいっても、発話も言葉としては、何を言っているのかはまだよくわからないことが多いです。
ダウン症の人は、大人になっても知的レベルは5歳程度までと言われています。身体的には成長しますが、筋力が弱いことが多いので、身長はそこまで高くならない傾向が強いそうです。一般的に老化が早いとも言われているようですね。
―そうなんですね。宮坂さんはそういったダウン症の成長曲線や育児において知っておくべき情報を、どのように得たのですか?告知を待つ間にネットや本を読みあさったとおっしゃっていましたが、それ以外にも役立ったものはありますか?
退院の時に、病院から「公益財団法人日本ダウン症協会」のパンフレットを渡され、それがその後の自分の行動にもつながるきっかけとなりました。
実際、病院から退院後の具体的な生活・育児指導などを受けることはなかったので、健常児と同じように見守っていけば良いのか、何か特別なケアが必要なのかなど、当初は本当に手探りだったんです。そんな時、ダウン症に関する知見が可視化された場所として、この協会の存在を知りました。
―通常、初めての育児なら自分の母親だったり友人だったりと、すぐに経験者に聞くことができます。でも当時の宮坂さんには、「ダウン症児の子育て」の経験者で頼れる人が周囲にいなかった。不安は大きかったでしょうね。
はい。だからすぐにダウン症協会に連絡をして、そこで初めて、ダウン症の子どもを育てる先輩ママと会うことができました。ダウン症児のお母さんたちと交流を持ち、多くの情報を得ることができたし、心の奥に抱えていたものを初めて開示できたように思います。
当時の私がダウン症に対して抱えていた不安は、当事者以外の人には、なかなか話すことができないものでしたから。
―それはとても心強いつながりが出来ましたね。実際に、ダウン症児の子育ては健常児の子育てと違いはあるのでしょうか。
ダウン症は合併症など、特に心臓に疾患があることが多く、英汰は心室中欠損という病気で心臓に穴が空いていました。
幸いそれは自然に塞がったので手術などもせずに済んだのですが、肝臓の機能が弱く毎月血液検査が必要だったため、通院は一年にわたりました。
健常児でも生後2ヶ月後から様々な予防注射を受けると思いますが、それに加えてダウン症児は、RSウイルスの抗体注射「シナジス」も毎月受けます。
といったように、子どもが小さいうちの物理的な違いでいえば、病院の通院回数が少し多くなることと、抱えている疾患により個々の対応が出てくる、ということが挙げられるでしょうか。
そうはいっても、育児の初動が24時間体制である点は同じだと思います。どちらかといえば比較的静かな子が多いと言われているので、むしろ新生児期のうちは手がかからないかもしれません。夜泣きも少なく、寝ていることが多かったですね。
ただ、“泣く”という訴える力が弱いらしいので、こちらから起こしてミルクを飲ませるなど、親側が気づいてあげないといけません。
―健常児の育児書と同じように、ダウン症児の育児書のようなものがあると良いですね。先行きが見通せることで心構えや対応も変わってきそうです。
そうなんです。一般の子育てなら、生後何ヶ月で注射はこれとこれ、6ヶ月から離乳食スタート、寝返り、つかまり立ち、歩行、発話、といった成長過程や月齢に応じた病気の傾向がわかっています。
それに年齢に応じた表現方法の傾向もわかるので、子どもが頻繁に泣いたり怒っていても、これが「いやいや期」か、と思って安心できると思うんです。
育児書はありませんが、障がい者が生活していく上で役に立つ、という点でいうと、「療育手帳」というものがあります。これがあると公的機関での優遇措置や援助を受けることができるのですが、この存在もダウン症児のママ友から教えてもらいました。
そしてこの手帳を取得するにも、誰かが教えてくれるわけではないので、どこに申請し、どんな書類を揃え、どういった検査を受け、判定が出るにはどれくらいかかるか、といった取得までの手続きを自ら調べないといけませんでした。
そのあたりには正直、不便さを感じましたね。
―必要な情報にアクセスできる仕組みが整っていない、ということでしょうか?
そう感じました。実際、情報が得にくいことが何より困ったことでした。そのせいで子どもにとっても親にとっても、選択肢が限られてしまっている。
一つには、ダウン症児の成長フローチャートのような情報が欲しかったです。例えば「こういった基礎疾患がある場合はいついつまでにシナジス接種をする」というような、準備を見通せる仕組み。ダウン症協会のママ友から聞かなければ、知れなかったことがたくさんありました。
これまでは情報がダウン症協会に全て集約されてきた印象で、それはもちろん助かっているのですが、同時にもっと身近に、生活密着型でコミュニケーションを取れるような何か新しい仕組みを作れないかな、と現在思案しています。
「何かあったら来てください」ではなくて、「こういう時にはここに連絡すればいい」という日々の道しるべになる様な存在。医療と育児の両面で専門知識を持った人が寄り添ってくれたら、どんなに心強いでしょう。
仕事との両立と、周囲のサポート
―英汰くんがダウン症だとわかってから、それまでダウン症の知識がなかった宮坂さんの意識は大きく変化し、視野や行動範囲も段々と広がっていったんですね。
そうですね。とにかく最初は全然わからなかったからこそ、今思えば必死で情報も集め、勉強をしていたんだな、と思います。子どもがまだ赤ちゃんのうちに、出来る限りの知識を得ようと、認知行動療法や言語聴覚に関するものまで幅広く。
「ポーテージ早期教育プログラム初級研修セミナー」という、障がい児とその親への早期教育プログラムも受講しましたね。
―その頃は産休・育休期間だったと思いますが、仕事への復帰についてはどのように考えていましたか?
もともとの想定では、出産後1年間の育休取得後に仕事復帰するつもりでした。ただ息子がダウン症だとわかり、まずは保育園選びの壁にあたります。
ダウン症の子どもを受け入れている保育園探しは難航しました。問い合わせや見学に行っても、障がい児は受け入れられない、とやんわり断られることもありました。
最終的には、息子の特性を理解し受け入れ先となってくれた桐生市の保育園に入園。充実した子育て環境づくりに力を入れている桐生市は、保育園側がとても歓迎してくれたんです。
その時、息子は1歳半です。ですから出産前の期間と合わせると2年間仕事を休んだことになりますね。
―もともと宮坂さんは、仕事と育児を両立させるつもりでしたか?そして英汰くんがダウン症だとわかってから、その気持ちに変化はありましたか?
もともと仕事をやめるつもりはなかったし、子どもがダウン症だとわかってからもその思いに迷いはありませんでした。
ただ、実は英汰が産まれる少し前から、その時の担当業務には行き詰まりを感じていました。ラジオで話す仕事って、自分のエネルギーを削っている感じがして枯渇状態だったんですよね。
でも結果的に予定より長く、トータルで2年ほど仕事を休むこととなり、仕事以外のところに目を向ける時間、つまり、子育てを通してエネルギーを充電し、ダウン症に向き合うことで新たな視点を与えられた。
それで、私はラジオの仕事を続けたい、と改めて実感しました。夫や周囲も「仕事は続けた方が良い」と応援してくれたし、職場でも復帰を待っていてくれるのがわかったんです。戻って本当に良かったと感じています。
「福祉サービスの枠から出る」ことを目指す
なぜ、大人のダウン症の人をあまり見かけないのか
―宮坂さんの意志の強さがあり、そこに周囲の協力的な環境があったことは大きいですね。仕事と育児に日々忙しくされていると思いますが、母親として、そしてご夫婦として英汰くんの将来についてどう考えていらっしゃるかお聞きしたいです。
そうですね。当然親としては、子どもの自立を望みます。だから、ダウン症の子どもはどう成長するのか、大人になったらどういう生活をしているのか、ダウン症の人たちがどのように社会で活躍しているのか、そういった情報が欲しかったんです。
すると、社会に出ているダウン症の人が圧倒的に少ないことに気づきました。というより、今までの私の生活圏内でそもそも、ダウン症の人との接点がほぼ皆無だった、と。
知らない、ってこういうことか、と。接点がないから知らない。じゃあ接点がない、とはどういうことか?
その理由は、日常の社会生活の中で、働いている大人のダウン症の人を見ない、ということじゃないか、と…。
それに気づいた時に思ったことが、結局は社会との接点って、「働く場」ですよね。福祉の作業所などはあっても、そういう場所はそこで完結していることが多いので、一般社会との接点が少ないんです。
―確かに言われて気づきました。ダウン症の方を社会生活の中で見かける頻度は少ないですね。だからたまに見かけると、特別な視点で見る状況が多くなってしまうのかもしれません。
そうなんです。ダウン症協会の方に言われて、その後の私の価値観に大きな影響を与えた言葉があります。ちょうど、私がダウン症の人たちが置かれる状況はなぜ変わらないのだろう、と疑問に思っていた頃のことです。
「福祉サービスの中だけで可能性を探しても変わらない。福祉の枠から一般社会へ出ていかないと変わらない。」
つまり「ダウン症の人は既存の福祉制度の中で生きるもの」ではなく、「ダウン症の人も健常者も共に働くことが当たり前の社会」になることが必要なんだと、その言葉を聞いて思ったんです。
そうなれば、ダウン症でも、社会にインパクトを与えるような活躍をする人が出てくるかもしれません。
―その気づきは、当事者だからこそ見える視点ですね。ダウン症の人は福祉制度や家族の力を頼りに生きるもの、と思い込んでしまいがちな固定観念が払拭されます。その視点で未来を考えることが、英汰くんの将来を考えることにもつながる、ということですね。
はい。福祉サービスの中だけで生きることや、家族や親戚の支えを頼りに生きる選択肢しかなかったら、その子の可能性には限界ができてしまうと思うんです。ダウン症児を持つ家族の中には、兄弟がいれば親である自分たちが先立ったあとも面倒を見てもらえる、と考える方もいるかもしれません。
もちろん私も英汰に兄弟ができることは歓迎ですし、それは自然に任せようと思っています。ただ、兄弟よりも、地域や周囲との関係性を築くことの方が大切だと考えているんです。
前提として私は、家庭の中だけでなんとかしよう、という発想を持っていないのかもしれません。なので個人的な考えとして、兄弟の有無といった家族の形と、障がい児の将来的なケアの議論とは結びつけないようにしています。
楽観的な見立てとして、私たち親がいなくなっても、それまでの間に支え合える人たちと十分な関係性を構築しておけば大丈夫、と思っているんです。
じゃあどうやって地域社会との関係性を築けるか。それを考え、実践するために新たな活動をスタートしました。
「社会に適合させる」のではなく、その人らしく生きられる社会を作ること
―ダウン症児とのゼロベースの始まりから、現在は、ダウン症を取り巻く社会課題と向き合うようになられたんですね。その意識の変化が、この後伺う新たな活動のことにつながると思うのですが、それ程までに宮坂さんを突き動かす理由があったのでしょうか。
英汰が産まれて最初の1年は、「ダウン症の子どもでも、社会に適合できるよう育てるには」という視点で情報を探っていましたが、やがて、その視点の持ち方に違和感を感じ始めたんです。
ダウン症の人が「社会に適合する」という意味は「今の社会に、結果として迷惑をかけないような人にしましょう」ということなのではないか、と。ダウン症の人が社会のお荷物にならなければそれでいいのか、と。
この問いが生まれてから、自分の意識は様変わりしました。
多様性の尊重が叫ばれるようになった現代においてはなおさら、その人のありのままの姿を生かしながら輝き、活躍できる地域や社会が必要なのではないか。そのために私も力を尽くしたい、そう考えるようになっていったんです。
そこから、世の中の一人一人みんな個性があってそれと共に生きるのと同じように、ダウン症の人も、自然と社会に溶け込めるような共生の形を具体的に探り始めました。福祉サービス以外の選択肢を増やすために。
―その思いを具現化するために、2017年に「ジョブラボぐんま」を起ちあげたのですか?その活動内容も聞かせてください。
2017年に任意団体としてスタートして、2018年に一般社団法人化した「ジョブラボぐんま」ですが、そのメイン事業は、ビジネス支援です。
ラジオ局の正社員として働いている私は、所属しているラジオ局を母体に「社内起業」しました。ラジオ局はメディアです。メディアとは、人と情報をつなぎ、人と地域をつなぐ役割を持っています。
群馬にも面白いことをしている人たちや新しい発想を持った人たちがたくさんいて、そういう人とのつながりを広げていけば、ユニークなイノベーションを起こせると思っています。
この動きがダウン症の話にどうつながるのかという点ですが、活動領域や専門性などをあえて絞らずに、地域で活躍したい人々のつながりを広げることに注力しているので、結果的に、ダウン症の方々が活躍できる場の創出や地域社会を実現することにもつながっていくはず、と考えているんです。
―なるほど。つまり、宮坂さん個人のビジョンとしては、ダウン症の方々が活躍できる場の創出や地域社会の実現。そのために「ジョブラボぐんま」を通して、そのアクションを起こしやすくする土台を作っている、ということですね。たしかに活動領域や専門性を絞ってしまうと、結局既存の福祉サービスの枠に戻ってしまう可能性もありますからね。
そうなんです。様々な目的や活動をする人たちが集まることによって、思いも寄らない新たな結合が生まれます。私たちの掲げるビジネス支援とは、相互扶助であり、イノベーションを起こせるようなつながりを作ること。
「何かをするために集まっているのではなく、つながるために集まっている」ということなんです。その動きの中で実際、英汰の将来にいい影響を与えてくれそうな人たちとのつながりも生まれています。
息子を通して人生の軌道が整う
幸せは日常の中にあった
―宮坂さんの中に生まれた疑問や課題を放置せずに、実際に動きながら模索している姿を尊敬します。もし英汰くんがダウン症ではなかったら、宮坂さんの生き方はまったく違うものだったのかもしれないですよね。
そうですよ!まったく違うと思います。もし英汰がいなかったら変わらずフラフラしていたかもしれません。
英汰によって、私の人生に一本芯が通りました。彼の影響力は計り知れない。私の人生の使命を教えてくれた。生きがいを与えてくれました。
―英汰くんが生きがいを与えてくれた、とおっしゃる姿からも、宮坂さんが今幸せであることが伝わってきます。日々の中では、どんな時に特に幸せを感じますか?
なんでもないことかもしれないですが、彼とコミュニケーションを取れている時でしょうか。最近は徐々に、言葉での意思疎通ができるようになってきていることが嬉しいです。
それに英汰はハグやキスなどのスキンシップをとるのが上手で、その懐っこさが愛おしくてたまりません。すごく素直だし純粋だし人見知りしないので、すぐに人から好かれるところが彼の素敵なところです。
さらに言えば、私自身はあまり自分で子育てしている感覚もなくて、本当に夫をはじめ、「みんなに育ててもらってる」という感じです。
私が密に英汰と居たのは、職場復帰する前の2年間くらい。今は、夫の方が英汰と一緒にいる時間が長いですね。学校の送り迎えから、家事育児のほとんどは夫。本当に支えてもらっています。
―今ある日常の中の喜びに目を向けられることそのものが、幸せなことですね。
はい。本当に普段の生活が幸せです。今は特別支援学校の1年生で、この学校は高校卒業までの一貫教育です。この環境も彼にとって良いと思ったので選びました。
私は特に普通学級への強いこだわりはなく、英汰にとって良い環境とは何か、をフラットに考えて特別支援学校を選んだんです。結果、本人も毎日とても楽しそうに学校へ行ってるし、放課後デイサービスも大好きみたいで、私も嬉しいです。
ダウン症のイメージを変えたい
―そういえば、最近ではSNSで英汰くんの日常生活を発信していると聞きました。はじめは少々覚悟のいることだったのではないかと想像しますが、なぜ発信を?
インスタを通して、英汰の明るさや可愛さを見てもらいたいと思ったんです。
「ダウン症」というと、どうしても“可哀想”、“大変”といった印象を持たれがちです。だから出生前診断でダウン症だとわかると、一般に中絶を決断される方が多いのではないでしょうか。
そんな現状だからこそ、もちろん個人の選択を完全に尊重しつつも、同時に「ダウン症でもちゃんと幸せが待ってるよ」ということを少しでも伝えられたら、と思います。幸せな姿を発信し可視化することは、私が望む社会を実現するための、小さな初めの一歩かもしれません。伝えることが、私の使命だと思っていますから。
以前は子どもの顔をSNSで出すことを頑なに拒んでいた夫も、いまや英汰のかわいい写真を自らアップするようになりました。実際に子育てをしていく中で、夫の中にあった「ダウン症の息子とその親になった自分」に対するショックが薄れ、捉われていた固定観念が変化したんだと思います。
そんな夫の変化から、私もいい影響をもらっていますね。
ダウン症とはどういうものか。ダウン症の子どもを育てるとはどういうことか。伝えることで世間のダウン症のイメージを変えたい。我が子がダウン症だとわかった時に、誰も絶望しない世の中に。
その意識の変化が起これば、ダウン症である我が家の英汰の将来も、きっともっと生きやすいものになると信じています。
―宮坂さんのお話を聞いていると、子どもが障がいを持って生まれたとしても、親がそのことで罪悪感を感じたり、自己肯定感を失ってはいけないんだと、改めて気づかされます。そして、英汰くんは英汰くんとして宮坂家に生まれてきたんだな、と。宮坂さんの変化、そして旦那さんの変化にも伴って、ご夫婦としてのお二人もたくさんの変化をともにして来たんでしょうね。
本当に変わりましたね。夫との関係だけでなく、結婚を大反対していた私の家族側との関係が大きく変わりました。
最初、夫や障がいのある孫と接することに戸惑っていた私の両親が、英汰をとても可愛がってくれ、結婚を受け入れてくれるようになりました。
一方、私も以前は夫家族とはそんなに親密ではなかったのですが、彼らも英汰を愛情深く世話をしてくれて、私たちの絆がとても深くなりました。
特に夫は英汰を本当にかわいがっていて、夫婦で「私たち幸せだね。英汰でよかったね。」とよく話しています。英汰が我が家に来てくれたことに感謝しながら、それぞれの幸せの形があることを実感しています。
そして、私の感覚ですが、改めて思うこととして 子どもの人生って親が背負っていくものではなく、極端に言えば「産んだ瞬間に切り離されたもの」とも感じているんです。みんな一人一人別個の人間だからこそ、親として出来ることは力を尽くす、でも頑張るのは自分だよ、と。子どもは子どもの人生を、そして親も自分の人生を生きていい。障がい児の親であろうがなかろうが、誰だって自分の人生は尊いはず。
そういった意味でも、英汰は私たちの世界を広げてくれた人です。何も知らなかった私たちに、こんなに面白くて美しい世界を見せてくれている。
この奇跡に感謝し、英汰の存在に感謝しながら、これからも家族と仲間たちとともに歩んでいきたいと思います。
取材・文 / タカセニナ、写真 / 本人提供、協力 / 高山美穂
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