IT系ベンチャー企業の取締役として、30代後半まで働くことに何よりも情熱を注いできた太田可奈さん。<前編>では、妊娠を望んだ彼女に「早発閉経」という重い事実が突きつけられた当時の経緯と心情を聞きました。
なかなかうまく行かない不妊治療を「あと半年だけ頑張ろう」と決めた矢先、今度は乳がんが発覚します。不妊治療から乳がん治療へ、舵を切っていく太田さん。
その運命は、自分の子どもを持ちたいと強く願っていた太田さんの人生観を、大きく変えていくことになりました。
太田可奈/Kana Ota コンサルとして携わっていたスピードリンクジャパンの取締役に就任し人事採用責任者を経て、現在は新規スタートアップ事業と広報の責任者として従事。36歳当時、早発閉経と診断され不妊治療をスタート。働く女性に卵子の在庫について検査を促す啓蒙活動や、データを知り、進むべき道を知る不妊治療サポートサービスなど、スタートアップの企業顧問やアンバサダーに就任。その後、乳がんが発覚し、不妊治療を断念。子育て参画の形を模索し、子会社アントレキッズでのIT教育や地区事業のMANABUYA(学生起業家育成プログラム)や東京理科大IDM(経営学部国際デザイン経営学科)アドバイザリーボードなど、子どもたちが自分の未来の選択肢を増やすことを掲げ奔走中。
不妊治療中の早期乳がん発覚。どちらを優先するか……
「ちょっと検査してみる?」友人の言葉に奇跡的に救われて
―早発閉経と診断され、なかなか採卵までもたどり着けない中、半年通ったクリニックを転院することに決めたとのこと。その時にはまだ、不妊治療を諦めてはいなかったのですね?
そうですね、ちょっと違う手法の治療をされるクリニックをいくつか探していました。少なくともさらにあと半年は頑張ってみよう、と夫とも話していました。ただ、その矢先に、本当に思いがけず、乳がんが発覚したんです。
―どのような経緯でわかったのですか?
元々、結婚して以来、私と夫は毎年必ず、人間ドックを受けていたんです。自分の乳腺に石灰化(乳腺の中にカルシウムが沈着した状態。良性の場合癌化しないことも多い)があるとわかって以来、半年に一度の経過観察をしていました。当時の担当医には問題ないだろうと言われていたのですが、あるとき友人の医師が院長になった病院で、お披露目会があったんです。
そこで友人に、経過観察中であることを伝えたら、乳房の検査もできる施設だったので「じゃあ今ここで検査してみる?」とすぐに調べてくれたんですね。軽い気持ちで受けたら、後日、連絡があり「ちょっと気になる。俺が旦那なら針を刺せと言うよ」と言われたんです。
―針を刺す。針生検という組織検査をするということですね。
そうです。超音波やマンモグラフィではしこりが見つかっても良性か悪性かがわからないことがあるし、「今なら、たとえ悪性でもステージ1だから」と言ってくれて。でも、太い針を刺しての検査なんて正直怖くて。とりあえず、1ヶ月後に予定されていた人間ドックまで待つことにしたんです。そうしたら見事に引っかかってしまって。
医師からは経過観察という選択もあると言われましたが、すでに覚悟を決めていたからすぐ針生検をしてもらい、ステージ1の乳がんを発見することができました。ただ、こんなに早く見つけられたのも、たまたまその友人にタイムリーに相談できていたから。奇跡的でしたね。
「乳がん」より「早期閉経」の告知の方がずっとショックだった
―乳がんに対しては、正式に判明する頃にはある程度心の準備ができていた、ということでしょうか。
ある意味そうですね。あくまで私の場合ですが、乳がんと言われた時の方が、早発閉経と言われた時より幾分か落ち着いていました。不妊はパートナーや家族にも関わることだけど、がんは自分のことだから、自分にとっては受け止めやすかったのかもしれません。
もちろんその日は「ガーン」となりましたけど……、でも早発閉経とわかって以来、いろいろなことを調べる癖がついていて、乳がんのステージ1はすぐに死に至る病気じゃないということもわかっていましたからね。
―乳がんについても色々調べて、病院や治療法を選ばれたんですね。
そうですね。やはりこの時もSNSを通して発信したのですが、逆に皆さんからたくさん情報をいただいたんです。乳がん患者やサバイバーのコミュニティも結構あって、そこで質問もたくさんさせてもらいました。私が関わった乳がんコミュニティは、ポジティブで親切な人が多く、すごく助けられましたね。
おかげで、病院選定も早くできて、とても優秀な女性の先生に手術をお願いすることができました。その後の治療については、夫も実母も私以上に調べてくれ、全面的に協力してくれました。
―がんがわかって、不妊治療はすぐにストップされたのですか?
乳がんの治療をしながら不妊治療を続けることはできないからどうしようか、と夫に相談したんです。夫はすぐに「そんなの可奈の体が一番大切だ」と言ってくれて「不妊治療はストップ」とキッパリ言いました。
あと半年だけ頑張ろうと思っていた矢先だったのですが、夫にそう言い切ってもらって、まずはがんを治そうと心を決められましたね。
不妊治療はどんなに頑張っても、良い結果が必ず得られるかはわからない。私の場合採卵自体が難しいので、受精卵凍結といった治療前の妊孕性温存もできない。結果として、不妊治療を一旦諦めるという選択になりましたが、逆に言えば、「今がタイミングなのかな」と諦めがついたんです。
がん治療も前向きにSNSで公表。自分たちらしい道を模索して
抗がん剤治療中もオンラインで会議に出席
―その後の乳がんの治療も、SNSでお気持ちや体の状態を発信していらっしゃいましたね。
そうですね。次はこんな治療をするだとか、手術前の不安な気持ちをSNSに書いたりもしましたし、抗がん剤治療で脱毛した写真も公開しました。瀬戸内寂聴先生のコスプレをしたりね(笑)。
乳がんの治療ってある程度はみんな似たコースをたどるから、誰かの情報になればと思ったんです。同時に、体験者さんからお話を聞けたりもして、逆にみんなに励ましてもらっていたところもあります。
―ポジティブに治療と向き合える力がどこから来るのか、本当に感銘を受けます。落ち込むことはありませんでしたか?
うーん。もともとの性格もあるのか、治療中も、幸い私は比較的割と元気でいられた方なんです。横になりながらでも、会社の会議にオンラインで出席したりもしていました。社員のみんなの声や報告を聞くと元気がもらえたし、乳がん仲間や先輩サバイバーに助けられた部分もあります。
……だけど、やっぱり、抗がん剤治療が進むと苦しくて、「死」を意識したことも正直ありました。再発のリスクも考えますし。明るくしていても、やっぱり自分はがん患者なんだなということはヒシヒシと感じてはいました。
そして同時に、子どもを産むという選択肢はもうないんだなと。そのことも感じるようになりましたね。
産めない自分を肯定できる「里親」という可能性に、夫が返した言葉は
―乳がん治療を終えて、ふたたび不妊治療を再開することや、養子縁組をするといった可能性については考えましたか?
はい、もちろんです。でも、もし今後不妊治療を再開して、うまくいって授かることがあったり、あるいは養子縁組をしたりしたとしても、がんを再発するかもしれないわけです。私が先に亡くなるようなことがあったら、残された夫や子どもが苦労することになる。
そういうリスクもあると思うと、頭の中でずっと引っかかるものがあったんです。そんな時、女医の知人から、猿山にいる「産めないメス猿」についての話を聞いたんです。
―産めないメス猿?
そう。猿山ってあるじゃないですか。その中にも産めない体のメスって一定数いるらしいんですね。そのメスがどうするかというと、猿山にいる別の猿の子育てを手伝うんだそうです。里親ですよね。
猿に例えるのはちょっと刺激的で極端かもしれませんが、その話を聞いて、私はなんだかつきものが落ちたようになって。
「じゃあ、私、その猿になる!」って言ったんですよ(笑)。産めない自分を、自己肯定できた瞬間でした。
一時的なレスパイト(保護者・介護者の息抜き)の場としての里親になるという選択肢もありますし、そうでなくても思春期に入ったくらいの近所の子たちを預かって、一緒に旅行をしたりする”斜め”の存在と言う選択肢もあってもいいな、と。
子育てっていろんな参画の仕方があるって思えるようになったんです。
―パートナーともそんな話はされたのですか?
ええ、夫に話したら、「それってすごく僕たちらしいね」と言ってくれました。
今では、子どもがいないわが家に子ども部屋を作ろうという計画まで立ててます(笑)。親と喧嘩した子たちが、一時的にお泊まりできるような、そんな場所になれたらいいなあと思っているんです。
教育事業を通して見つけた新しい夢
―素敵ですね! お仕事でも、現在太田さんは教育事業に関わっていらして。子ども向けプログラミングスクールの統括者として活動されているのですね。
実は私がプログラミングスクール事業部に異動になったのは、不妊治療を本格的に開始すると社内で公にした直後でした。弊社の代表は子どもが7人いるのですが、「私は妊娠できなくて苦しんでいるのに、どうしてそんな異動を命じるんだろう」と、当時はすごく苦しみました。
でも今となっては、この教育事業がすごく私の生きがいになっています。自分の子どもは産めないかもしれないけど、豊かな未来をつくるために、日本の子どもたちに寄り添っていくことはできるんじゃないかと思って。
プログラミングを軸にしてさまざまなスクールカリキュラムを作ったり、親になったことがないからこそ子どもと同じ目線で話をしたり、ということができる。いろんな可能性があるなと感じてワクワクしています。
―同時に、若い人たちに自分の体を早くから知ってほしいということも呼びかけていらして、AMH(卵巣年齢/抗ミュラー管ホルモン)の郵送開発キットの開発と普及にも尽力されていらっしゃいますね。最後に、次世代に向けてメッセージをお願いします。
まずは、特に女性は自分の体のことをちゃんと知ってほしい、ということを伝えたいです。学校の性教育を受けるだけでは、自分の身体を理解することはできません。だからこそ、一人ひとり違う自分の体の状態をちゃんと知って、結婚・出産を含めたライフプランを自分で考えることはとても大切です。
血液から卵子の数を測るAMH検査は、日本ではあまり知られていませんが、欧米では20代くらいから当たり前に受けている人が多いらしいんです。私がそうだったように、20代でも卵子の数が少なかったり、何かがきっかけで減ってしまう人は意外と多いのに、どれくらいの在庫があるのか自分できちんと知っている人なんて、日本ではほとんどいませんよね。
もちろん、いずれはこうした検査が公的な集団検診に含まれて、手軽に検査できることを願っていますが、まずは女の子を持つ親御さんが、節目節目で検査を受けさせてあげてほしいなと思っています。血液検査をしさえすればわかることだから。
改めて全部の経験を振り返り、次世代には私と同じような思いをして欲しくないからこそ、自分を知ってほしい、そして自分を大切にしてほしいと、これからも伝え続けていきたいと思っています。
取材・文 / 玉居子泰子、写真 / ろまん・しゅうぞう、フォト©伊藤秀俊および本人提供、協力 / 高山美穂
30代で早発閉経、そして不妊治療の途中で乳がん発覚。女性としてこれから妊娠・出産・育児を楽しみたいと願っていたプランが、覆ってしまった太田可奈さん。それでも運命に負けず、パートナーと話し合い、仲間と手を取りながら太田さんらしい道を作ってこられたことがとても印象的でした。
太田さんが、辛い病気や治療を公表しているのは、「自分の経験が、誰かにとって役立つ情報になれば」と願う、ただその一心です。今回お話を聞いている中で、彼女がいつも、身近にいる家族や仲間、そして次の世代を生きる女性たちの幸せや健康を心から願っていることが伝わってきました。
生きていれば誰もが、予想もしない出来事に遭遇します。それが不妊や病気といった出来事である場合も。それでも、そうした体験をなんとか受け止め、「自分らしく生きるにはどうしたらいいか?」を問い続け、行動し続ける太田さんに、UMU編集部も大きな勇気をいただきました。
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