誰もが立場を超え、子どもの幸せを見守る社会を作りたいー世界の子どもに映画を届ける私が、出産までの苦悩を経た今願う「美しい世の中」のこと。<前編>

NPO団体「World Theater Project」の代表を務める教来石小織さん。2012年に彼女が始めたこの活動は、映画を見る機会が少ない発展途上国の子どもたちに、移動映画館を届ける取り組みです。活動を始めた最初の動機は、「子どもを持つことへの憧れ」だったと言います。

そして、結婚後の不妊治療、子宮外妊娠、病気と度重なる手術ー。やっと授かった命は2020年初頭、得体の知れなかった新型コロナウィルス感染爆発と同じタイミングでした。コロナ渦での活動継続の苦悩と、妊婦である自分への感染の恐怖に苦しんだ彼女には、さらにそこからの切迫流産で、絶対安静の長期入院生活が待っていました。試練の連続の中で、彼女が願ったこととはー。

教来石 小織/Saori Kyoraiseki  NPO法人World Theater Project代表。1981年生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。派遣の事務員をしていた2012年、「途上国の子ども達に映画を届けたい」と思い立ちカンボジアの子どもたちへの移動映画館活動を開始。その後団体として世界15カ国、延べ8万人の子ども達に映画を届ける。

 


死期を感じ、人生の使命に導かれる

  理想の幸せ像は、“日曜日の公園。子どもと夫とお弁当”

―教来石さんは、ご自身が代表を務めるNPO法人「World Theater Project」のメンバーの方とご結婚されたとお聞きましたが、ご結婚までのいきさつを伺えますか。

夫は2015年頃から活動に加わってくれたのですが、活動を共にしながら、付き合っているのか付き合っていないのかわからないような関係でした。でもいつもそばで支えてくれる、なくてはならない存在になっていましたね。

私はもともと結婚願望が強いタイプで、ある日行った占いで「この日に結婚しないとダメ」と言われたのを信じこみ、無理やりその日に合わせて婚姻届に署名してもらう、という強引なやり方で結婚したんです笑。夫が29歳で、私が36歳の時でした。

―記憶に残る結婚生活のスタートですね。旦那さんは7歳年下なんですね。結婚願望が強いとおっしゃいましたが、その願望の先には、思い描く家族像をお持ちだったんでしょうか。

はい。私自身は祖母、両親、弟の5人家族の中で育ちました。両親に愛され、不安も不満もありませんでした。休日には家族で出かけては、公園に行ったり映画を観たり。その日常の幸せを当たり前に受け取って育ったんです。

だから私にとっては、日曜日の公園で家族でお弁当を食べる、という時間は“幸せ”を具現化したものとして、私自身もその絵を作ることを思い描き、憧れていました。

 

  死への意識が、人生の転機を呼び起こす

でも、実は31歳の時に、たまたま受けた検診で子宮頚がんの疑いが見つかったんです。思いこみの激しい私は、「ああ、もう子どもは産めないんだ。“幸せの絵”を実現できずに私は死んでしまうんだ」と一度は絶望しました。

―その子宮頚がんの疑いによって、教来石さんご自身に大きな価値観の変化があったと、他の記事でも拝見しました。

そうなんです。検査結果を受けて、一時的にとても悲観的になっていた私はあと5年くらいの命だと勝手に思い込み、「残された時間で何がしたいのか」と考えました。その時に、突然アイデアが自分に湧いてきたんです。「発展途上国の子どもたちに映画を届けたい」と。

私の人生は短く、自分の子どもを持つことが叶わないなら、世界の子どもたちのために「何か」したい、と突然心が動いたんです。そしてその「何か」は、「映画を届ける」ということだった。

若い頃には映画監督や映画の脚本家になることを目指していたくらい、ずっと映画が好きでした。子どもの時から映画を通して世界を知り、世の中には様々な仕事があることを学びました。

映画を見るたびに、私は大人になったらどんな仕事をするんだろうと、ワクワクしたものですし、同時に、好きな時に好きな映画に触れることができる自分は、恵まれた環境にいるとも実感していました。

自分の子どもを持つことが叶わないなら、それに代わるものとして、映画を見る機会が少ない世界中の子どもたちに映画を届けたいー。一見、脈絡のないような発想ですが、私の子どもを望む気持ちは、そんな突飛で壮大なアイデアに転換されるほど強かったんだと思います。子どもへの想いを、具現化したなにかで残したい衝動が生まれたんでしょう。

幸い、その後の精密検査で子宮頚がんではなかったとわかり、安堵しました。そして、生かされたからこそ、子どもたちへ映画を届ける、という私の使命を果たしていこうと強く思いました。

カンボジアの小・中学校(2015年9月撮影)

 

  不妊治療を前に進めたいのに、進められない事情

―それは本当に安堵しますね。結果としては子宮頚がんではなかったわけですが、その疑いがあったことで教来石さんの人生が大きく変わることになったことは、なにか定めのようなものを感じずにはいられません。
それから5年後に旦那さんとご結婚されたわけですね。“日曜日の公園”も現実的になってきたと思いますが、結婚後、すぐに妊娠に向けて取り組まれたんでしょうか?

はい。夫はとても合理的な考え方の人なので、当時37歳という私の年齢を考慮して、自然に任せての妊娠を待つよりは、医学的根拠に基づいた手段にのっとることに前向きでした。早速お互いの健康状態のチェック後に、人工授精をしました。

とはいえ経済的な余裕がなかったので、体外受精まで進むのは難しいだろうとも感じていました。だから数回の人工授精でなんとか成功したい、と願っていました。

2回目の人工授精の後、子宮外妊娠をしたんです。ちょうど、団体のメインフィールドとして活動するカンボジアから帰国した時で、ひどい腹痛に見舞われて病院へ行きました。生理だと思っていた出血は実は子宮外妊娠による不正出血で、そのまま手術に。でもそのとき私は、「少なくとも妊娠できた」という事実に喜びを感じました。

そもそもスタートラインが「自分の子どもは持てないかもしれない」と思いつめたところから始まっているので、妊娠できる可能性に触れられただけでまず、大進歩だったんですよね。

それから少し間をあけて次の人工授精をしようと計画していた時に、世界でも症例の少ない「虫垂出血」という病気になってしまったんです。おしりから大量の出血をしてしまう病気で、また手術をしました。そのせいで、3回目の人工授精のタイミングは遠のき、37歳の私は、焦る気持ちが徐々に募っていきました。

―実際、子宮外妊娠に続いて虫垂出血という、立て続けの手術で、教来石さんは精神的にも肉体的にも負担が大きかったのではないでしょうか。なにより一番の願いである妊娠出産に向けた計画も不透明。焦りを感じるのは当然かもしれません。

そうですね。さらに本音を言うと、経済的にとても厳しい状況だったので、人工授精をしたい気持ちと、それにかかる費用の捻出をどうするか、ということにも焦りと大きな不安を感じていました。経済的理由により、不妊治療の再開を踏みとどまっていた、というのももう一つの現実でしたね。

―なるほど。そういった事情を抱えて不妊治療が思うように進まない中で、旦那さんとは、子どもができなかった時のことについて話し合いなどはされましたか?

はい。私は子どもがほしい気持ちが強かったので、実子が難しい場合は特別養子縁組という選択肢も頭の中にはありました。でも、当時まだ30歳だった夫は、やはり自分の子どもを願っていました。養子縁組をしたくない、と言われたわけではありませんが、「もう少し自分たちでがんばってみよう」「その時が来たら養子のことは考えよう」と言われました。

まだ若い彼が自分の子どもを望む気持ちはよくわかりました。だから、このまま授からなければ私とは別れて他の人と子どもを持った方が良いのではないか、と考えては、毎月生理が来ると泣いていました。苦しかったです。

―旦那さんがその年齢だと、プレッシャーも生理の落胆も、一層大きく感じてしまうかもしれませんね。旦那さんに養子縁組を提案した時の教来石さんのお気持ちについてもう少し伺いたいのですが、ご自身としては、ご自分の血縁の子どもをあきらめることについて、気持ちの整理はでき始めていたのでしょうか。

……いいえ。自分で「産みたい」という気持ちが消えたことはありませんでした。養子縁組について情報を探しながらも、ずっと自分が産む、という希望を捨てることはできなかったですね。

一方で、特別養子縁組を希望する場合は養親の年齢にも制限があることを知って焦り出す気持ちや、養子を迎えたご家族の幸せそうな動画や映画を見ては心が揺れ動き、自分の気持ちが定まることはありませんでした。

 


大切なのは我が子の命。だからこそ、すべての命は奇跡の結晶

  念願の妊娠。そしてコロナ禍へ

―その葛藤は当然のことだと思います。そして不妊治療を再開しようとしていた矢先に、幸い、現在のお子さんを妊娠されることとなるんですね?

そうなんです。ちょっと唐突な話をしますが、私は結婚する前に一度夫にフラれているんです。それで傷心旅行に出雲大社を参拝しました。そうしたら状況が好転してなんと結婚できた、という経験がありました。そのお礼参りと妊娠祈願をしたくて、治療の再開を検討していた時期に、2度目の参拝に行きました。

そして帰ってきたら、ちょうどそのタイミングで妊娠がわかったんです。治療を休んでいた時期なので、実質的に自然妊娠でした。ただの思い込みかもしれませんが、その時私の中では「ああ、出雲大社のおかげだ」と思いましたね。ちょっと飛躍しすぎですかね?笑

―いえいえ、妊活中は多かれ少なかれ、誰しも「子宝祈願」の力を借りたくなるのは自然なことだと思います。教来石さんの場合も、参拝直後に妊娠がわかれば、科学的根拠はさておき心情的には出雲大社の力だと思いたくなりますね。

当時は「妊娠検査薬が趣味なの?」というくらい、いつもチェックしていて、その時も東京の自宅に帰ってから検査薬を試して、初めて妊娠反応を見ました。そしてその陽性反応が出た検査薬を、すぐに夫に見せました。「妊娠してたよ!」って。夫は「嘘でしょ!?」ととても嬉しそうな顔をして。その時の顔は忘れられないですね。

妊娠検査薬は妊娠していると線が2本表示されますが、その線を2本見る日は、私には来ないのかもしれない、と思っていました。だから初めて2本の線を見た時は、本当に嬉しかったんです。

 

  胎児を守ることと、団体存続の危機

―不妊治療の本格的な再開を前に、本当によかったですね。
では、当時のご自身の体調と団体の活動との両立についても伺いたいのですが、教来石さんは子宮外妊娠と虫垂出血で、不妊治療中に2回の手術を経験、そして妊娠されました。この一連の出来事は、団体の活動を維持する上で影響が大きかったのではないでしょうか。

2回の手術の時も妊娠後も、夫はもちろん、メンバーが協力的で全面的にフォローしてくれたことに救われました。妊娠前は、妊娠しても当然変わらず活動を続けていくつもりでいました。ところが、いざ妊娠したら、つわりがあんなにもつらいものだとは……。5分と机に座っていられなかった。何もできない自分の無力さに情けなくなりました。

そして私が妊娠した2020年は、一気にコロナ禍に突入した年でもありました。当初はすぐに収束すると思っていましたが、状況はどんどん悪化。不要不急の外出を控えるよう叫ばれる中、移動映画館というのはまさに不要不急。そして人が集まるので、感染拡大を招く行為でもありました。どうしたらいいのかわからなかった。同時にそれは、私がこの活動のあり方と一番向き合わなければならない時でもありました。

でも、私は向き合えなかったんです。妊娠中にこの大きな問題について考えすぎたら、そのストレスが胎児の健康な発育に悪影響を与えてしまうんじゃないか、とおびえてしまった。

今思えば本当に、自分のことしか考えていなかったと思います。活動のことはメンバーに任せて、支えてくださる方々の協力を得ながら、私はお腹の中の命を守ることだけに気持ちを向けていました。

カンボジアの村でテスト上映(2015年12月撮影)

―周囲からも理解を得られているという感覚はありましたか?

はい。みんな優しくて、「さおりさんは今は大丈夫ですよ」と言ってくれたので、甘えさせてもらいました。よく聞く「ハッピーマタニティライフ」って、一体どういうことだろうと疑問に思うくらい、私の妊娠期間は最初から最後まで、ずっと不安でした。自分のことしか考えられず、周りの人の気持ちに鈍感になりました。

安定期に入ったら、周りの方々にもきちんと妊娠の報告をして徐々に活動に戻ろうと考えていたのですが、妊娠6ヶ月に入ろうという時、今度は切迫流産の可能性があるので即入院、と診断されてしまい、結果それも叶わず……。その時もまた、無事に産めなくなるんじゃないかとパニックになり、ますます団体のことを考えられなくなりましたね。

ただ、今となれば、もし当時私が団体のことに真剣に向き合っていたら、混乱した私はおそらく、団体をたたむ決断をしていたでしょう。皮肉な話かもしれませんが、私自身が向き合える状態ではなかったことで、結果的に今も、団体は継続できているということなのかもしれません。

―妊娠初期のつわり、コロナ、団体のあり方、そこからの切迫流産による入院生活。本当に抱えきれない不安と共に過ごされたことと思います。当然団体のことを考える余裕がなくなっていく状況の中で、教来石さんが一番考えたことはなんでしたか?

それは「このお腹の中の子を失いたくない」ということでした。自分勝手かもしれませんが、この子の命を守りたい、という思いが、優先順位としては圧倒的に一番でした。

エコーで心臓がパクパクと動いているのを見た時や、手に5本の指が見えた時は泣いてしまいました。確実に成長しているこの子を、もしかしたら流産してしまうかもしれない。それだけは絶対にいやだった。

妊娠22週未満だと、万が一のことがあると流産として処理されてしまいますが、22週以降だと、早産ないしは死産ということで医療処置を受けられると聞き(*)、なんとか22週まで、この子が人間として扱ってもらえるまではお腹の中にいてほしい、と、そのことで頭はいっぱいでしたね。
*:法律上は「妊娠12週(4ヶ月)以降の亡くなった赤ちゃんの出産」を死産と定義していますが、日本産婦人科学会は、妊娠22週未満を流産、22週以降を死産としています。

 

取材・文 / タカセニナ、写真 / 内田英恵、NPO法人World Theater Project提供(撮影者:五百蔵直樹、黒澤真帆、川畑嘉文)、協力 / 高山美穂


子宮頚がんの疑いをきっかけに、大きく動き出した教来石さんの人生は、想定外の出来事の連続でした。心休まる間も無く次々と訪れる試練。それは待望の妊娠をしたあとも続きます。

続く<後編>では、一筋縄ではいかない出産までの道のりを経て、やっと手にした命を育てる今、彼女が何を思い、何を願うのか。波乱に満ちた経験談をお聞かせいただきながら、彼女の現在地を探ります。


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