UMUには、コミュニティメンバー、インターン、編集部など、さまざまな立場でさまざまな人たちが関わっています。共通するのは、UMUが好きで関わっていること、だけ。
年齢も住む場所も仕事もまるでバラバラなメンバーたちがランチタイムに、深夜に、自然と集まるここ、給湯室。
UMU的なこと、全く関係ないこと、人生のこと。
結論もオチもなく、すっきりとも終わらない。だけどなんかここで吐き出すと、明日もがんばれそうな気がする。
そんな会話が繰り広げられているある日の給湯室、みなさんにもおすそ分けします。
今日の給湯室メンバー
Y
30代女子。UMU編集部メンバー。一人暮らしを満喫しながらのんびり、もやもや多めに生きている。
N
40代女子。UMU編集部メンバー。神奈川県在住、2児の母。UMUには立ち上げ直後から関わる古株。
E
30代女子。UMU編集部メンバー。神戸出身、1児の母。子育て中心の生活から、最近は自分時間がとれるようになったこともあり、読者でもあり関わりたかったUMUへ参画。
H
40代女子。UMU元インターンにして、現コミュニティメンバー。ドイツ駐妻時代を経て帰国。子育てしながら仕事に復帰し、しばらくして夫が単身赴任に。兵庫県出身、1児の母。
自分の「好き」がわからないとダメ?
N:みんなおつかれー。まだまだ寒いね。ところで、前回最後に話に出た「自分らしさ」、横にも縦にも話が広がるいいテーマだなって思ったな。
Y:もうすぐ国際女性デーだし、「らしさ」は通じる部分がある気がするから、その話、したい! 私らしさって、なんとなくいい感じに使われる言葉だけど、実は呪いみたいなことありますよね。
N:自分らしさってなんなんだろうね。「好きを伸ばす」ともよく言うよね。
E:うん。それは子育てでもよく聞くし素敵なことだけど、「自分の好きがわからないとよくない」っていう風潮になってしまうと、しんどくなりますよね。
みんな”同じようにあるべし”と言われると、その人の好きが埋もれてしまう…。だから、自分の好きをどんどん深掘りして、それを武器に生きていくというのがいいよねということが、”好きを伸ばす”の背景なのかなと思うけど、逆にそれが主流になっちゃうと、その「好き」が見つからない人たちは苦しくなっちゃう。
突き抜けた「好き」がなくても、平均的であることは悪いことではないし、バランス感覚が良くいろんなことができるっていうのはいいことなはずだけど、「私らしさ」や「好きを伸ばす」と言われると、 唯一無二のものを持っていないことに対して劣等感を感じてしまいがちなのかも。
H:すごい、めっちゃわかるわー、それ!
学校では、はみ出さないこと、平均的であること、まるで「金太郎飴」になることを求められていたのに、ね。
Y:転職や起業の文脈でも「好きを仕事にするのが最強、人生正解」みたいに言われてるように感じることがあるかも。それってそんなに簡単にできることじゃないからこそ、できている人は本当にすごいなって思う一方で、あんまり言われすぎると押し付けられてるように感じちゃう時もあるな。
「唯一無二の自分」を探さない
N:そうだよね。その「一人の私」も、がんばって多少むりできる時もあれば、もう何にもできない時もあったりっていうように、自分の中にも何人もの私がいるよね。
私は平野啓一郎さんが『私とは何か』で書いている「分人」の考え方がすごくしっくりきてるな。自分の中に何人もの私がいる。例えば、仕事の同僚と話すときの私、子どもと話すときの私、ママ友や地元の友達と話すときの私はそれぞれ違う。
同じ一人の人間なんだけど、相手によって話すことが違ったり、話し方が変わったり、それでいいしそれが当たり前なはずなのに、唯一の自分らしさを求められるのは少し違うし苦しいというか。
唯一無二の自分を探すんじゃなくて、シーンや目の前にいる人によって違う自分になることを自然に受け止められたらラクになる気がするな。
「女性」にも一括りにはできない多様さがあって、そう考えると「国際女性デーとはなんぞや」という疑問も湧いてきたりする(笑)
Y:国際女性デーで調べると、「誰もが自分らしく生きられる幸せな社会を」というキーワードが出てきますね。
E:「自分らしさ」というワードの抽象度が高い分、「ブレずに、分かりやすいものでないといけない」という風に誤解を生むのかも。
様々な場所でいろんな自分がいることも含めて、そのときの自分に対して偽りがなければ、その時々で変わったとしても、どれも自分らしさではあるのかなぁと。滲み出てしまうものでもあるような。
そう捉えられたら、自分らしく生きるという言葉は、私は違和感ないですね〜。
昔の友人と、変化した「私」
Y:関連した話で言うと、最近ちょっと憂鬱なことがあるんです…。
家族ぐるみで親しかった幼馴染と、お互いの家族を含めて数年ぶりに会うことになったんです。でも、なぜか自分で想像していた以上に、久しぶりに会うのは緊張するなって思っちゃって…。
昔その子と仲良かったころの自分と、今の自分の興味・関心や話したい話題とかが大きく変わっていることを自覚してるから、すごく無理をしてそこにいなきゃいけないような気がするんです。
こういうときこそ「私」を使い分けるものなのかな。自分でちゃんと認識して、今日はこっちでいこう、みたいに切り替えるものなのかなとか、ちょっと今考えていました。
H:人に合わせて「演じる」ところはどうしてもあるよね。そのときのメンタルによっても変わってくるし、日によってちゃうねん、てね。Yちゃんのその話は、行くまでがめんどくさい、というか、演じるまでの支度、心の準備がめんどくさいから行きたくないって思うのかな。仕事だったら行けるけど、みたいな。
Y:たしかに!仕事のときは割と意識せずスイッチオンしているかも。私はUMUのこの場でみんなにいつも話を聞いてもらって、どんな自分でもさらけ出せるような感じがあって、演じなくていい場所の居心地の良さを知ってしまった!っていう感覚があるな。
H:おなじく!その日の自分のまま、演じなくてもいい場所があるから、逆に演じるモードをがんばれたりすることもあるしね。
コロナ禍だと無理して会いたくない人に会わなくてよかったじゃない? あれはラクだったな。コロナで遮断されていたものがなんとなくまた復活したけど、私はその中でも捨てる縁っていうのがあるかも。自分からはもうコンタクトしない人たちね。
E:特に女性に多いのかもしれないけど、ライフステージの変化によって連絡の頻度が減るとか、共通の話題がなくなっちゃうようなことも起きやすいですよね。でも、自分が変わったように、相手も変わっているかもしれないし、会ってみると意外におもしろいと思うかもしれないよね!
Y:たしかにそうかも。何か聞いてほしいことが起きたら、またここで聞いてください!
N:もちろん!ネタづくりと思ってがんばってきて!(笑)
私も今住んでいるところと、生まれ育った地元の空気感や文化は全然違って、そこにいる人たちの考えや生活も全く違うから、自分も話す内容や仲良くなる友達が全然違うんだよね。私はどちらの場所も好きで、でもどちらも制約というか不自由さもあって。その全然違う文化を行き来できるのは楽しいし、豊かだなって最近よく思う。
Y:なるほど。その友人とも昔は仲が良かったわけだし…変わってるのはお互い様ですね。あまり気負いすぎないで、Nさんのそのマインドで再会できたらいいのかな。
一同:続報待ってるね!
To be continued…!
編集/UMU編集部