2017年3月22日、春分の日の翌日。一人の女性が、自身のFacebookで勇気ある投稿をしました。10年以上にわたり取り組んできた、不妊治療からの卒業を宣言したのです。その女性、生田早智江さんは言います、「終わりがあるから、また新しい始まりがある」と。前後編のこの<前編>では、そこに至る人生の軌跡と、周囲との関わりから得た大切な気づきや心境変化について、伺いました。
生田 早智江 / Sachie Ikuta 1975年愛知県生まれ、自然豊かな場所で活発な子として育つ。中学から父の転勤でハワイへ移り、さらに伸び伸びと過ごす。5年後に帰国、大学卒業後は日本企業に就職。のんびりとした世界から一転、昼夜を問わず働く“戦士”として3社を経た後、2010年に人材教育の領域で独立。現在は「自分軸」をテーマに活動中。「働く≒生きること」であり、「働く」を充実させるためにも、ときには立ち止まり自分と向き合う時間が必要、との想いで、数々の活動に携わっている。
「私、不妊治療から卒業します!」
自分の手で物語の幕を引いた、春分の日
不妊治療を始めたのが2007年、いわゆる妊活を始めたのは2005年で、そこから今まで約12年間、自分の不妊と向き合い続けてきました。その道のりでいつからか、自分でも、“終わる”きっかけを探していたように思います。
連続する日常の中で、何かを劇的に変えてゆくことは難しいけれど、それでも自分なりの“ドラマティカルなエンディング”をどこにするか、演出家になった感じで見つけようとしていたのかもしれないですね。
その、ドラマのクライマックスに向け気持ちが高まってきたタイミングで、ちょうど春分の日という季節の節目がきて。しかも、確かホロスコープ的にも何かの意味を持つ、特別な春分でした。なので、ここだ!ここで終わりにするぞ、と思い立ち、Facebookに宣言投稿をしたんです。
でも、正直、ここまでが本当に長かった…12年ですよ。よくやったね、私!みたいな。振り返れば、干支をまるっとひと回りしてしまいました(笑)。
偶然の再会からのスピード婚
あの日、愛犬が二人をつないでくれた
― そうですよね…。本当にお疲れ様でした。今日は、その生田さんの12年にわたるストーリー、ぜひ伺いたいと思っています。まずは前に遡り、ご主人との出会い、馴れ初めからお話いただけますか?そこから、不妊治療に至るまでのヒストリーをお聞きできればと思います。
はい。夫との出会いは1997年で、結婚したのは2003年です。私が新卒として入った会社の先輩でした。彼の部署と私の同期の子たちとグループで遊びに行くような関係でしたが、当時、彼は私の同期と付き合っていて、私は私で別に相手がいて。なので、ただの知り合いという感じで、何を意識するわけでもなく過ごしていました。
それが、2002年11月に新宿でたまたま再会するんです。忘れもしない紀伊国屋の前。向こうから知った顔が来て、なんか見たことある人だな、と。
私その時、繁華街のど真ん中で犬を連れていて。
実はペット不可のお家でつい飼い始めてしまったのですが、大家さんに見つかって、当然出ていかなければならなくなり。それで新しく見つけたペット可の物件に入るために、ちゃんと躾がされているかを見られるペット面接のため、新宿の不動産屋に寄った帰りでした。
そこで犬を抱えていた私が彼と出会い、「何、その子?」というところから盛り上がりまして。
私は当時、転職して2社目に行っていたので、彼には新しい会社の名刺を渡したんです。そうしたら、その再会した月の月末、会社に電話があり「近くに来たからご飯でもどうかと思って」って。個人の連絡先も伝えれば良かったのでしょうけど、会社の名刺しか渡してなかったんですね。…それにしても、会社に電話してくるか?と(笑)。
− 確かに(笑)。
そこから二人で会うようになり、翌月12月には付き合い始め、なんと年末にはもう結婚しようとなりまして。トントントーンという流れがあって、年明けには両家へ挨拶に行き、2003年の4月、私が前職で関わりのあったアニヴェルセル表参道で式を挙げました。
結婚当初は「一番離婚しそうなカップル」
― なかなかのスピード婚(笑)。それくらい運命的だったんですね。
いや、全然違うんですよ。なにせ、初めて飲みに行って二人で盛り上がったポイントが、「なぜ人は結婚するんだろうか?結婚の意味がわからない」と(笑)。
彼は8つ上で、長いこと単身でやってきていて、一人が好きな人で、かくいう私も一人好き。自分のプライベート空間がないと生きていけない。その上、当時、実は男性不信だったんです、私(笑)。そもそも20代後半で犬を飼い始めたのも、私の人生に男はいらん、だけど一人で生きていくのは寂しいなと思ってのことなので(笑)。
だから周りもびっくりで、まさかあの二人が、と。我々二人、性格も正反対なので。そして先日も夫婦で話していたのですが、完全に凸と凹で共通点はほぼ皆無。唯一歯車が噛み合うところは酒飲み(笑)、美味しいもの好き。そこでつながっているね、私たち、って。
ですので、当初は「一番離婚しそうなカップル」って言われていました(笑)。
長い長い不妊治療生活の幕開け
子どもは作ろうと思えばすぐできる、そう高を括っていた当時
結婚当時、私は30手前、彼は36でした。でもすぐに子どもを作ろう、という話にはならなくて。というのも、彼が通信制の大学に通っていて、働きながら朝晩勉強して単位を取る生活をしていたんです。
意外にも彼はまじめな人でして(笑)。高卒だったこともあり、学びそびれた事があるまま親になっても、責任を負いきれる自信がないという気持ちがあったようで。私もまだ30になる頃だったので、だったら彼自身が納得できる時期まで待とうか、と。
変な話、当時は子どものことを、作ろうと思ったらすぐできるものだとも思っていました。多分彼もそう。それでいざ、大学が修了しました。じゃあ作りましょうという話をしたのが、2005年かな?結婚して2、3年経った頃でした。
それで、妊活を始めました。1年経ちましたができません。でも、もう少し頑張ればできるかもと思い、もう一年頑張りました。だけどできません…というのが10年前、2007年頃のことです。そこからは、ただ流れに任せるのではなく、真剣に本を読んで情報収集したり、基礎体温をつけたり、タイミングを自分たちなりにみたりしたのですが、やっぱりできませんでした。
そう、そこまでは、たまたまできないんだな、というくらいにしか思っていなかったんですよね。でも、2年を過ぎてもできないと、さすがにあれ?と思い始め、その頃年齢も32、3になっていたので、そこで初めて病院に行くことにしたんです。
「結果には原因がある」はず…?
通院を始めた当時、備忘録の為にも不妊治療日記ブログのようなものを夫婦で書こうと決め、2007年3月から、少しの間だけ書いていました。結局半年ほどで終わらせてしまったのですが、その時はまだ「結果には原因があるから、そこに働きかければ結果は出る」ということを書いていました。
だからネガティブな感じは全くなく、原因さえわかって治療や必要なことをすればできるんでしょ、くらいの感覚でした。ものすごく楽観的、かつ前向きに状況を捉えていたんです。
最初にいくつかの検査があり、調べていくと、どうやら私は身体の状態としては妊娠に支障はなさそうなことがわかり、夫にも大きな問題はないことがわかりました。ということで、タイミングから始めたのですができず。次に人工授精を何回か試したのですが、それでもできず。これはおかしいねと…。
2008年になり、いよいよ体外受精という頃、ちょうど私が3社目の会社で役職についたため忙しくなり病院に通えず、そこから3年ほど治療を中断することになりました。
そうこうするうち30代の後半戦が見えてきて、卵子の数も減ってくる頃だという焦りも出てきました。そろそろ本気で作らないとなと思い、まだ忙しさの真っ只中にはいたのですが通院を再開したんです。あれは確か2010年くらい、震災の前だった気がします。35歳の時ですね。
「できない理由がない。でもできない」ことへの苦悩
― では再開後は、即、体外受精からだったんですね。
そうです。もう以前にやった人工授精はやめて、新しい方法を試そうと。かつ、やるなら確率の高い方法でと思い、最初から顕微授精(*注1)を選びました。回数も、結構重ねましたね。7回はしています。採卵自体は…4回くらいでしょうか。2つしか採れない時もあれば、6つくらい採れる時も。そして毎回、胚盤胞(*注2)になるまでは結構育ってくれるんですよね。
そこからがさらなる苦難の始まりでした。私の身体は問題なく、彼もそんなに問題ない。卵も採れて、受精卵のグレードも悪くなく、胚盤胞までちゃんと育つ。
でも結局それを戻すと、着床しないんですよね。医師に聞いても、内膜は厚く(*注3)ホルモン値(*注4)も良いと言われて。でも、やっぱりできません、と。
正直、何か原因がある方がよっぽど楽でした。できない理由が何一つないのに、できないのは私のせい?日頃の行いの問題?と、自分を責める方向に向かっていってしまいました。
不規則な生活だからかな、仕事し過ぎかな、はたまた食べ物かな、とか。いろいろと思いを巡らし、食生活を変え、お酒を飲む量を凄く減らした時期もありました。温めると良いということや、とあるサプリが良いということを聞いては、いろいろな方法を試しましたね。
(*注1)顕微授精:細いガラス針の先端に1個の精子を入れて卵子に顕微鏡で確認しながら直接注入する方法。
(*注2)胚盤胞:細胞分裂を続けた受精卵の、およそ5日目の状態。胚盤胞まで発育した胚は、子宮への移植時に着床率が高いのが特徴。
(*注3)内膜(子宮内膜):子宮の内側の壁を覆っている粘膜。「エストロゲン(卵胞ホルモン)」と「プロゲステロン(黄体ホルモン)」という2つの女性ホルモンの分泌量によって厚さが変わり、一般的には、妊娠が成立するためには子宮内膜に、ある一定以上の厚さが必要であるとされている。
(*注4)ホルモン値:血液検査で、エストラジオール(エストロゲン)、LH(黄体形成ホルモン)、FSH(卵胞刺激ホルモン)等、いわゆる女性ホルモンの数値のこと。その数値によって卵巣機能や性腺機能などをチェックできる。
友人たちとの間に生じた、気持ちの溝
そんな実らない努力をしている間に、気づけば、同時期に結婚した友人たちが一子目を産んで、二子目も産んで。言葉は悪いですけど、なんでそんなにポコポコできるかな、と内心毒づいている自分がいました。
当時は本当にバリバリ働いていたので、不妊の話を友達にすると「だったら、仕事を辞めた方がいいよ」と言われたことも多々ありました。でも…いやいやいや、仕事を辞めて私のアイデンティティはどこへ?もし辞めて、子どももできなかったらどうなる?と。そこへの不安も、すごくありました。
- これまで取材したみなさんも、治療中は友人関係が難しかったとおっしゃっていましたが、生田さんもそういう時がありましたか?
かなりありましたね。正直、妊娠した子に対する妬みも羨ましさもありました。「なんでさっちゃんたち作らないの」と言われると、「作ってるよ!でもできないんだよ…」と心の中でまた毒づく自分がいて(笑)。
友達が集まるときも、自分だけ子連れではないことが辛くて、愛犬を連れていこうとしたら、子持ちの友人から「まだウチの子小さいから、いろいろ感染するかも…」と言われ、思わずキレてしまったこともありました。
思い返せば、その頃は、友達とブチブチ縁を切った時期でもありましたね。
今なら大人げなかったなと思えますが、当時は自分の弱みを晒す感覚が居たたまれず、主に子どものいる友人たちとの交友関係を断ち切っていました。そうした期間は割と長いことあり、すごくセンシティブでしたね。
訪れた心境の変化
「あるがままの自分を生きること」を始める
ー いまの生田さんからは、とても想像できないですね。そのナーバスな心境が、どう変わっていったんでしょうか。
そうですね。時間は少し遡るのですが、最初の布石は30代に入った頃だったでしょうか。自分がいかにありのままで生きられるか、自然体でいられるかというところと向き合い始めた時期がありました。
ちなみに、私の髪の毛、天然パーマなんですね。それが昔はとてもコンプレックスで、10代、20代の頃はストレートパーマや縮毛矯正をかけて、髪を真っ直ぐにすることに必死でした。でもちょうど30を越してから「受け入れよう」と思った瞬間があって。これも自分の個性の一つだし、ま、いいかと。
そうしたら、信じられないことに、いままで扱いづらいと思っていた髪が、それはそれは扱いやすくなったんですよ。さらに、周りの人からも髪を褒められる機会が多くなって。「そうなんだ、私の髪、まんざらでもないんだ」と。単純なんです、私(笑)。そんなことをきっかけに、少しずつ、自分のありのままを出していいのだと思えるようになっていきました。
思えばそれまで、私、不妊は欠点とか弱みだと思っていたんです。だからそれを晒すことで、ちっぽけな、できない自分を認めなきゃいけない。それが辛くて、「今仕事がノってるので」とか「うちは夫婦2人で楽しいから」とごまかしていたこともありました。
でも、自分の中にはすごく、痛みがあったんですよね、そう言いながら。
この痛みって何かなと考えたら、自分が自分を、外に向けて偽る痛みが一番大きかったなと思っています。本心じゃない、本当は辛い、疎ましいと思っている…。色々と黒い気持ちがあるのを隠して、綺麗に見せようとしていたというか。
そういうことに段々と気づきながら、2010年、35歳を過ぎ体外受精を始めて少し経つ頃からは、自分に嘘をつくのはやめよう、あるがままの自分を生きよう、と偽りなく思えるようになり始めていた気がします。
弱みを晒せるようになり、周囲にも変化が
同年2010年に3社目を辞めて独立し、フリーランスとして働き出したのですが、それも大きな転機でした。
会社という、自分を守ってくれるものから外れた今、自分自身がどう在るかがダイレクトに周りへ影響するし、そこで何かしら偽っていると、必ずボロが出るだろうと思っていたんですよね。
その頃から徐々に「子ども、作らないの?」と聞かれたら、「ずっと頑張ってるんだけどできないのよね」と弱音を吐露できるようになりました。すると周りは、「順風満帆に見えるさっちゃんも、悩んでることがあるんだ!なんか勇気をもらった」と言ってくれるようになりました。
そこから不妊に関しては、かなりオープンになれましたね。治療中は「今、不妊治療中だから、お酒飲めないの」とか、相手が誰であれ、結構あっけらかんと言えるようになって。「弱みを晒したからと言って自分の価値は変わらないし、大丈夫なんだ!」と思えるようになりました。
変わりゆく私と、夫と、愛犬と
夫というブレない存在
ー そんな生田さんの変化を横目に、ご主人も、変わっていかれた部分はありましたか?一緒にブログを書かれていたくらいだから、もともと治療には協力的だったんですよね。
はい、彼は非常に積極的で、協力的でした。ただ、それはあくまで私がやりたいと言っているからという前提で、彼自身は「子どもはいてもいなくてもいい」と結婚したときから言っていて、それは本当に終始変わらないスタンスでした。
ただ途中で、そのスタンスにカッチーンときたことがあって。「あなたがそういう風だからできないんだよ。どっちでもいいのはダメなんだよ。心の底から欲しいと思ってよ」、なんていう癇癪を起こしたこともありました(笑)。要は一緒に戦ってくれている感じが、欲しかったのでしょうね。
愛犬ムーが引き出してくれた夫の父性、夫婦の成長
でも、一つだけ、彼も明らかに変化していったことがありました。それは彼の“父性”なんです。先ほどお話した通り、我々、犬を飼っていたんですね。去年、14歳半で亡くなったのですが。彼女は私の連れ子でもあり、夫よりも長くいるパートナーで、苦楽をともにしてきた大切な存在でした。
その愛犬ムーと関わる中で、夫の父性…育んでいくことへの愛おしさも、育っている感じがありました。
彼女が亡くなった時も、私がおいおい泣いている横で、彼も一緒に私と同じくらいおいおい泣いてくれて。私は嬉しいのと同時に、ああ、この人と一緒になれてよかったな、と思いました。
彼女は、私と夫のキューピッドの役目をしてくれたことに始まり、子どもがいない私たちの中で、子どもの役割も果たしてくれ、私たち夫婦を本当に成長させてくれる存在でした。
例えば物が壊れるとか、思い通りに事が進まないとか、無条件に愛するとか、守るとか、無垢な目を裏切れない気持ちとか…。人間の子どもを育てたことがないからわからないけど、でも多分、子育てをする中で学ぶようなことを、私たちは、学ばせてもらったんですよね。
終わりへと、導かれていく
「私の人生は、子どもを持つ人生じゃないんだ」
結果が出ないまま年月が経ち、ある頃から、心のどこかで卒業のタイミングを見ていた感覚は正直ありました。実は、その背中を押す大きなきっかけをくれたのも、愛犬ムーでした。
何年か越しで、最後の一個になるかもしれないと大事に保存していた胚盤胞があり、タイミングが来たら戻すつもりでいたんです。最後の切り札じゃないですけど、これを戻したら新たに採卵するのは止めよう、と。
まさに、その卵を戻そうとしていた月の初めに、ムーが亡くなったんですね。去年6月のことでした。ちょうど何日に移植するかのスケジュール確定のために通院していた日、待ち時間に何か嫌な予感がして、自宅でムーをみてくれていた夫に連絡したら、今心臓が止まった、と。
そんなこともあったので、結局その周期は戻せずに終わりました。でもこのタイミングも縁のような気がするなと思い、ムーの死の翌月にあらためて移植をしました。でも、できませんでした。
その時、望みとは真逆の結果だったはずなのに、不思議ですけど、自分の中の滞りや執着みたいなものが、サーッと流れた感じがしました。
実はその1年半くらい前に、一回だけ着床したことがあったんです。結局、化学流産(*注5)になってしまったのですが…「私の体、着床できるんだ、全くできない訳でもなかったんだ」と。
だから余計に、子どもは授かりものとはよく言ったものだと思いました。“器”としては大丈夫、可能性は持っている。それでもなおできないということは、「私の人生は、子どもを持つ人生じゃないんだ」と、そう思ったんですよね。
(*注5)化学流産:妊娠検査では陽性反応となるものの、エコー検査等で正式に妊娠が確認できる前に流産してしまうこと
「自分の命を何に使う?」を考えた時に
そうか!と思った時、すべてのパズルが完成した感じがしました。子どもを授かることを願い何年も頑張ってきた私の中には、子どもという存在がなくても、育て上げるだけのあり余るエネルギーがあるはずだ。それを子育てに使わないなら、人生、相当なことができるぜ、って。
今まで、自分には叶わないことをやっている子育て中のお母さんはすごいと思っていたけれど、ちょっと待って、その“育む”エネルギーの使い道が違うだけなんじゃない?私も“育んでいる”のでは?って。
自分が仕事にしているのは、教育や人材育成。学生時代は英語の先生になりたくて教員免許もとったのですが、結局教職にはつかずに就職し、1社目こそ違うところに行きましたが、2社目、3社目では教育関連に携わり、2010年には人材教育の仕事で独立しました。いま現在は、女性活躍推進とか、次世代のリーダー育成に関わっています。
私が仕事をする上での原点の思いは、自分の可能性や選択肢に気づき、「どう生きたいか」を自分で選び、人生を創造していく人たちが日本に増えていくといいなと。
そう、人の中にその力を養うことを、私はずっとこのかた取り組んで来たんです。あらためてそう考えれば、私まさに“育んでいる”なと。こういうことか、と。だから私は、あり余るエネルギーを自分の子どもという一人の存在だけに捧げるのではなく、分配して、多くの人に注いでいく。そこにお役目があるのかも?という感覚が降りてきたんですね。
そう考えるといろいろな事が、自分の中で腑に落ちてきました。
次の人生が幕を開けるための、終止符
それでとうとう、もう辞めよう、と決断しました。そして冒頭にお話しした、今年の春分の日の“宣言”につながります。
もともと一つのことを終わらせないと次に進めない、という自分の性格もあり、今回のこの不妊治療についても、次のステージに行くにあたり、いよいよピリオドを打つ時なんだなと感じて。
ー ということは、単純に不妊治療の終結っていうだけじゃなく、同時にこれから新しい人生のスタートが切られる、という感覚でもあったと?
はい、そうですね。ピリオドを打つって、まさに「終わりがあるからまた新しいことが始まる」ことでもあると思うんです。
それをすごく、私の心は“知っている”感じがしたんですよね。
取材・写真 / UMU編集部、 文 / 西部 沙緒里、協力 / 今井 由美子、水野健太郎
10年以上にわたる不妊治療を経て「私の人生は、子どもを持つ人生じゃないんだ」と思った時、パズルのピースが完成した気がしたと語る生田さん。<後編>では、「前向きな人生の選択」としての“不妊治療からの卒業”と、そこに至るまでの葛藤、価値観の変化、“卒業”した後に拓けた境地について、お話を伺います。
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