UMU初「不育症・習慣性流産を語る!誌上バーチャル座談会」ー「授かれても育たない」4人の女性たちの経験を、分かち合おう。

せっかく妊娠できたのに、お腹の中で赤ちゃんが育たず、流産を繰り返してしまう…。
そうした症状は、一般に「不育症」「習慣性(習慣)流産」「反復流産」などと呼ばれ、「不妊症」と併発することも多くあります。日々、編集部にいただくメールの中で、とても数の多いお悩みの一つでありながら、まだこのテーマでの記事を世に出せていませんでした。
今般、代表西部のTwitterなどのSNSから呼びかけ、まず第一弾となるブロガーASCAさんの記事が実現。そしてこの度第二弾として、呼びかけに応えてくれた4人の女性たちのリアルな体験と声を、「バーチャル座談会」形式に編集してお届けしたいと思います。


 


― まず今日は、さちえさん(31)、まぁみさん(37)、あっこさん(34)、ころさん(31)。この4人の方々が大切な経験をお聞かせくださること、本当に楽しみにしています。今日お伺いするみなさんの物語は、たくさんの女性/カップルたちの救いや道しるべになると、確信しています。
最初に自己紹介と、経験している/経験した症状についてお聞かせいただけますか?

さちえ さちえと申します。千葉県で保育の仕事をしていて、現在は夫と2歳の娘、10ヶ月の息子と暮らしています。二子を授かりましたが、それまでに2015年7月(8週、掻爬手術)、2016年3月(10週、掻爬手術)、2018年4月流産(自然流産、自宅のトイレで)と、計3回の流産を経験しています。
私は不育症などの明確な診断は受けませんでしたが、当時は子宮内膜が薄い、低体温、基礎体温がガタガタで排卵がわからない、といった自覚症状がありました。

まぁみ まぁみと申します。徳島県で接客業をしています。夫と5歳の息子がいて、二人目の不妊治療をしていく中で不育の問題に直面しました。
2017年4月に通院を開始、タイミング法から人工授精と進み、2018年5月に自然妊娠するものの翌6月、自分の誕生日に流産。
そこからまた人工授精を再開するも実らず、転院し体外受精にステップアップ、12月に陽性判定が出ますが、2019年1月に2度目の流産。2月に掻爬手術となります。4月に移植から再開し、翌5月に3度目の妊娠反応が出るも、またもや流産。
ここで、初めて不育症の検査を受けたところ、血液検査では不育症との関連が指摘されるプロテインS欠乏症が見られた他、慢性子宮内膜炎が陽性などの診断が下りました。
現在は不育症の治療を受けながら、採卵・移植周期を継続しています。

あっこ あっこと申します。もともと企画事務系の仕事をしていましたが、昨年10月に不妊治療に専念するため退職しました。夫と2人暮らしです。
私は2013年に結婚、妊娠を意識し始めた2014年に夫婦で不妊検査を受けたところ、男性不妊が発覚。29歳だった2015年から体外受精をスタートします。
当初は男性不妊での治療というつもりで、すぐに授かれると思っていたものの、2回採卵・6回移植を行ってもかすりもしない陰性だったため、私側にも異常があるのではと2017年1月、31歳のときに不育症検査を受けます。その結果、抗リン脂質抗体の一種である抗カルジオリピン抗体IgGが高値、血液凝固因子である第Ⅻ因子凝固活性の値も正常値よりも低い結果となり、医師からは、これによって着床が妨げられている可能性と、授かっても適切な処置をしなければ流産の可能性があることを告げられました。
医師からアスピリン服用の指示を受け、同年6月、その次の移植で初めて妊娠に至るも、9週で胎児心拍が確認できず、稽留流産が宣告されます。
妊娠中もずっとアスピリンを飲んでいましたが流産となり、次の移植も同じことをしていては流産するのではという恐怖が大きく、ここで不育症専門医を訪ねました。その後、採卵と移植を繰り返しますが陰性が続き、さらに都内の有名クリニックに転院を決めます。
転院して初回の移植(通算5回目の採卵、12回目の移植)で妊娠に至り、今度はアスピリンに加え、ヘパリン注射もスタート。万全の治療をして今度こそ大丈夫と臨んだものの、思い虚しく心拍停止が確認され、また稽留流産となります。結果、絨毛染色体検査を受けたところ、16番トリソミーとの結果が出て、元々流産に終わってしまう命であったことが分かりました。
その後、さらに採卵1回と3回移植を行ったものの実らず、次こそはと7回目の採卵をしようとしていたところ、その直前、2019年8月にまさかの自然妊娠をしました。
今回もアスピリンとヘパリンを併用しましたが、心拍も確認できることなく7週で稽留流産となります。検査の結果またしても、16番トリソミーでした。
私の場合、一部の検査数値が異常値などの所見はあるものの、後ろ2回の流産は明確に染色体異常があり、原因不明流産が続いているわけではないということで、不育症などの明確な診断は受けていない現状です。

ころ ころと申します。兵庫県で会社員をしています。家族は夫と娘(1歳)がいます。
2016年春に入籍、同年から私が東海地方に単身赴任となり、関西の夫との別居婚が始まります。秋に開いた結婚式直前に1度目の妊娠をしますが、11月に旅行先で出血→翌日に流産発覚(妊娠11週頃)。仕事を3日間休み手術しました。ちょうどこの妊娠が発覚した頃に実父のがんがわかり、翌2017年1月実父が死去します。
同年3月、2度目の妊娠がわかるも、4月年度始めの日に流産(妊娠8週頃)。2回目の流産のため、病欠を取るのが憚られ、有休をとって職場に秘密裡に手術します。この時、ネットで不育症の存在を認識、神戸の不妊治療クリニックを予約します。また、治療のため夫との同居を決意し、転職活動を開始します。
5月、神戸のクリニックへ通院開始、血液凝固因子を原因とする不育症と診断され、バファリン(低容量アスピリン)の服用を始めます。
その頃、年収大幅ダウンの条件ながらも関西の大手素材メーカーに内定。職場に退職意向を伝えますが、同時期、春頃より不眠・涙が止まらない・食欲不振・疲労感などの症状に悩まされていたため、受診した心療内科でうつ状態との診断。6月には、これまで得意だった人前でのプレゼンができなくなる(声が震え、頭が真っ白に…)など、仕事への影響も出始めます。
8月、医師の勧めもあり休職し、関西に戻り夫と同居を開始します。うつ寛解に向け本格的な投薬治療も始め、転職先の内定は辞退しました。
翌9月、3度目の妊娠。バファリンに加え、注射の内出血の痕でそこかしこが青くなるお腹に苦しみながら、自宅で毎日12時間おきにヘパリンの自己注射をし、心療内科と並行しながら週1で通院します。が、同月末、またもや流産(妊娠8週頃)。胎児の絨毛染色体検査をした結果、染色体異常による流産と判明します。
2018年1月、うつ状態が寛解したとして復職、同時にまた別居を再開しますが、直後に私の関西転勤内示が出、4月には再び同居生活を始めます。その頃、4度目となる妊娠が発覚。バファリンとヘパリンの自己注射を併用しながら仕事を続け(残業の日は職場で自己注射する日も)、とうとう10月産休まで持ちこたえ、12月に女児出産。その子が現在、1歳になります。目下、二人目に向けて再度通院を始めるかを検討中。春より復職予定です。

 

― みなさん本当に、濃密な経験をなさってきましたね。お一人お一人、不育・流産にまつわるいろんな感情を感じて来られたと思いますが、あえて挙げるなら、一番辛いな・しんどいなと感じたのはどんなときでしたか?

さちえ 検診で赤ちゃんの心拍が確認できず、掻爬手術を受けるまでの自宅で過ごした時間が辛かったですね。1度目の手術前は、出血してお腹も痛く、とても怖かったです。重い生理のような感じでした。原因は染色体異常でしたが、妊娠判明後も仕事をセーブせず、動きまわっていた自分を責めました。
2度目は、心拍確認後の検診で心拍が止まっていて、手術しました。1度目の流産が自分のせいだったような気がして、お酒、カフェインを断ち、オーガニックな食事に切り替え、冷えにも気をつけ、働きすぎないようにして、子宝の神社でお詣りまでして。すごく気をつけていたのに、ダメだった…そんな絶望感に苛まれました。
手術までの2日間、痛みもなにもなく。すごく悲しいけれど、心臓は止まっていてもお腹にいる赤ちゃんに話しかける、不思議な時間でした。「頑張ってもどうにもならないことがある」とも、痛感しました。
3度目の流産は、第一子が1歳になった頃。妊娠がわかってから、腹痛があり、自宅のトイレで大きな血の塊が出て、これが赤ちゃんだって思いました。すごく悲しかったけれど、今度は元気に生まれてきてね、待っているねとティッシュに包んだ赤ちゃんに話しながら、庭の木の根元に埋めました。

まぁみ 毎日の注射、通院、長い待ち時間を経て、やっと授かって胎嚢・心拍も確認できて不妊病棟を卒業、母子手帳を受け取り、1回目の妊婦検診の時に心拍停止、流産…が発覚したこと、ですね。未だに、流産した子たちの出産予定日だった日が近づくと「流産してなかったらもうすぐ…」と、考えてしまうことがあります。

あっこ 長いこと不妊治療に時間とお金を費やしてきたので、その結果の妊娠が流産に終わってしまったときの絶望、また不妊治療に戻らないといけないという恐怖は、正直に言うと「赤ちゃんを失った悲しみを上回っていた」気がします。もちろん悲しみも強かったですが、真っ先に浮かんだのは、これまで費やしてきたものが徒労に終わってしまった、次の治療をどうしよう、ということでした。それを繰り返してきたので、心にセーブをかけて、陽性が出てもあまり喜べなくなりました。
また、自己紹介のところでは割愛しましたが、1回目と2回目の流産後は胎盤遺残になってしまい、回復までに4ヶ月半ほどかかりました。度々多量の出血をしたり、経過観察のために頻繁に通院するなど、流産してもなお大変な思いをしました。この期間は前向きに次の治療、妊娠に向き合えなかったので、特に心身ともに辛かったです。

ころ 私は「一番」を挙げるのが難しいですが、肉体的には、3度目の流産の掻爬手術の時ですね。そのクリニックの処置がめちゃくちゃ痛かったので。出産の痛みは、それと引き換えに子どもに出会えますが、掻爬手術は精神的に辛い上に肉体も傷つけられる感覚で、もう二度とこんな思いはしたくない、と正直思いました。
また精神的に辛かったのは、流産などの喪失体験によって、好きだった仕事への意欲が低くなり、家族も仕事も中途半端だと思えてしまった時です。「私は家庭も仕事も手に入れられないのか」と、悲しくなりましたね。さらに、私の場合は「仕事・通院・別居婚」の両立という特殊事情もあり、体力的にも精神的にもキツかったです。

 

― ありがとうございます。それぞれにお辛い日々を過ごされて、それでも、何とか日々を生き抜いてこられたんだと思います。もし、そんなみなさんを支えてきた人や言葉などがあるとすれば、教えていただけませんか。

さちえ 実は2度目の流産後、親友の紹介で、同じく2度流産したことのある臨月の妊婦さんとお会いする機会がありました。色々と自分の状況を話しながら、初対面の相手を前に、泣いている私がいました。当時、お腹で育てられなかったことで自信を失い、産婦人科に行くのも怖くなっていた私に、彼女は「自分の体と赤ちゃんの育つ力を信じてみてね」と声をかけてくれました。その言葉に、もう一度勇気を出して、妊活を始める背中を押された気がします。

まぁみ 私の場合は、とあるアーティストの楽曲でしたね。
「あぁどうか力を貸してくれないか 昨日までの僕よ、共に乗り越えてきたじゃないか」という歌詞に、何度も救われました。

あっこ 私は、一番は夫の存在です。夫は、検査や治療に関することへの協力を惜しみません。もともと夫も男性不妊を患っていることもあり、自分のせいで染色体異常による流産となってしまったのでは、との思いもあるようです。
また、SNSで同じ経験をしてきた方と出会い、その苦しみや治療に関する情報を共有しあえたことも、とても大きいですね。
自分と同じ経験をしてきた方が無事にまた妊娠し、出産に至っている様子も見ることができるので、自分自身の希望にもなっています。

ころ 私も、家族はもちろんですが、友人や信頼できる職場の先輩、心療内科の医師の存在がありましたね。
友人には、過度に同情することもなく話を聞いてくれて、気さくに飲み会に誘ってくれたのに救われました。休職前、職場の先輩に相談した時は、先輩たち自身の流産経験や切迫早産の体験を話してくれて、「憧れの先輩たちにも辛い経験があった」という姿を見せ、よりそってくれたのが嬉しかったです。一人の先輩がかけてくれた、「今は辛いだろうけど、3年後のころさんはきっと乗り越えて、今と違う景色を見ていると思うよ」という一言が、印象に残ります。
また、心療内科の医師は、淡々と丁寧に話を聞いてくれ、妊娠経過なども踏まえて薬を処方してくれて、私が心身回復するにあたりとても大きな存在でした。

 

― 同じ経験をされた方の言葉、旦那さんやご友人・先輩、ドクター。はたまた、特別な一曲。一人一人、糧となるものは違えど、何らかの支えを大切に感じてきたんですね。そんな一連の経験をする前のみなさんと、今現在のみなさんに何か「心理的変化」が生まれているとすれば、それはどんなことでしょうか?
みなさんの経験が、「ご家族や職場、友人など周囲との関係性」にも何らかの変化を及ぼしている場合、それもぜひ聞かせてください。

さちえ そうですね。それまでは、夫婦ともに働きすぎで、休みの日も夫婦別の趣味・別行動ばかりでしたが、流産などを経験してからの方が、夫婦で一緒に過ごす時間が増えました。
流産後も仕事は続けていたけれど、どこか心に無理をしていて。保育業なので、子ども達のお世話をしなければならなくて、大好きな子どものはずなのに関わるのが辛くて。夜は、お風呂や布団の中で情緒不安定なくらい泣いていました。
そんな私でも、寄り添って一緒にいてくれた主人。辛い時期があったから、夫婦の精神的な絆も強くなったように感じます。

まぁみ 私は、妊娠はすぐにできて、子供は2、3人すぐに産めると思っていたし、絶対2、3人子どもが欲しいと思っていたんです。
でも今は、妊娠・出産がどれだけ奇跡の繰り返しかがよくわかるし、子どもが関係しているニュースやTVドラマにとても敏感になりました。
今でも子どもは3人欲しいと思っていますが、正直、一人でもいいなと思う時もあります。
ある友人の言葉で、「ひとりっこだと、その子にすべての愛情もお金もかけてあげれるから」と言ってもらい、自分の中には、すとんとその言葉が入ったんですよね。
ある意味で、「諦める理由」になるのかな、とも思います。

あっこ 私の場合、最初の妊娠当時に切迫流産になってしまい、夫が単身赴任だったこともあり、実家に世話になっていました。そのため、5週という段階で父と母に妊娠を伝えなければなりませんでした。しかしその後流産になり、家族にも悲しい思いをさせてしまいましたし、自分自身非常に気まずい思いもしました。それ以降、不妊治療に関する話も家族にはしなくなりましたし、2回目、3回目の妊娠のことも伝えませんでした。
また、友人とは、本当に心を許せる人としか連絡を取らなくなりました。当初は、友人の妊娠出産が喜べなくなったことに自己嫌悪していましたが、今は少し距離を置くのもいいのかな、と思っています。

ころ 田房永子さんのとある記事を読んで知っていた「人生にいわゆるB面がある」ということを、我が身に実感しましたね。
流産経験をするまでの自分は、進学・就職・結婚と20代の間に進めてきて、このまま妊娠・出産・育児・ワーママと、スムーズに人生を歩んでいくものだと思っていたんです。それが流産と実父の死を通じて、人間の弱い部分や、人生は努力だけではどうにもならない部分があることを痛感しました。
現在は、それぞれに事情があるはずで、それを許容しあいたいという発想をするようになり、昔より人や社会に寛容になったと思います。

 

― それぞれに、大小の変化を感じていらっしゃいますね。お一人ごとに今いらっしゃるプロセスが異なるので、「変化」の受け止め方にも違いがあると思います。いずれにしても、経験が進むごとに人は変わり続けるもの。渦中にいるみなさんの人生がより望む方向に変わっていけるよう、願っています。
次は、少し大きな問いになりますが、みなさん自身のものを含めた不育・流産の経験について、社会にもっと広く知らせたい/伝えたいことがもしあれば、この『UMU』を通して届けていければと思います。

さちえ 私自身、大きな病気をしたこともなく、20代で若いし、妊娠したら元気に赤ちゃんが生まれるのが当たり前、と思っていました。でも今は、第一子、第二子以降に関わらず、流産は誰にだって可能性があることだと思っています。
だから社会に対しては、「赤ちゃんはまだ?」とか「2人目は?」とか、軽々しく聞かないでほしいと感じます。表面上は普通に見えても、命を失って傷ついている女性がいることを、心のどこかで覚えていて欲しい、というのが私の思いです。

まぁみ そうですよね。世の中には、流産経験のある人は思ったより多い。その中で、繰り返し流産している人も少なくはないんです。
日本は、これから生まれてくる命に対しての補助が手薄だと私は感じます。検査がより広範囲で保険適用になっていけば、悲しい思いをする人も少しは減るんじゃないかと思っています。

あっこ 検査のことで言えば、これまで私は、不育症の原因項目をすべて検査するために、4つのクリニックで検査をしました。私の印象では、どのクリニックも主張や治療法が微妙に違っており、最終的に患者がそれを判断しないといけない現状があると感じました。同時に、都内の最先端のクリニックで行われている検査は地元クリニックではほとんど受けることができず、医療の地域格差も感じています。
また、1度目の流産の時、少しでも原因を明らかにしたくて病院で絨毛染色体検査を受けたい旨伝えたものの、1回目の流産で行う検査ではない、との理由で実施してもらえなかったことも苦い記憶として残っています。

ころ 本当に、不育症(妊娠=必ずしも出産ではない)啓発の必要性を強く感じます。出来れば学校の保健体育などから、不妊・不育を教えてほしいです。
また、私の思いとしても、少なくとも2度流産したら出来るだけの不育症検査をしてほしい、とも思います。当時、流産処置を行った病院は「たまたま2度流産することもあるから」と、不育症関連の検査を勧めることはしませんでした。また、県の不育症相談室もありましたが、単身赴任地から電車で1時間以上かかる場所にあり、相談時間も限られていたので利用に至りませんでした。今さらながら、2度目の子の流産理由が胎児由来か母体由来かを明らかにしたかったと、後悔しています。流産理由がわかれば、より早い対策がしやすくなると思うからです。
あともう一つ、これも個人的な思いとして、着床前診断の適用対象の拡大を願っています。「しなくて良かったかもしれない流産で、女性の体と心を傷つけないでほしい」というのが私の切実な思いです。

ころさんが4回目の妊娠で初めて受け取った母子手帳。
「受け取ってからも流産の不安を抱えながらの妊婦生活でしたが、それでも、受け取れた時は、不育症治療生活の大きな一区切りの日となりました」ー。

 

― 4人のみなさん、本当にありがとうございました。
今日、これが最後の問いになります。『UMU』の読者には、現在みなさんと同じように不育や流産に直面している/した方や、これから先に経験することになる方たちがいます。その彼女たちに向けて、メッセージをいただければ幸いです。

さちえ はい。お腹に宿ったばかりの小さな命でも、大切な人を失うことは、辛く悲しいですよね。一緒にいられる時間は短かったかもしれないけれど、赤ちゃんがあなたのお腹の中に来てくれたのには、なにか意味があったと私は思います。とても辛いかもしれないけれど、赤ちゃんからのメッセージに耳を傾けてみてほしいです。

まぁみ 以前、医師から、流産を繰り返す人は残念ながら多いと伺いました。
この言葉は人にとって受け止め方が全然違うと思いますが、私はそれを聞いて、「一人じゃないんだ」と思ったんです。
実際、SNSを通じて、同じ経験をした方にたくさん出会いました。流産は1回でも、心身ともにダメージが大きいです。それを何回も繰り返すなんて「なんで?」と思うし、とてもかなしい。
でも、私が諦めずにもう一度がんばろうと思えたのは、同じ経験をした人が今も、頑張っているからです。もうやめようと思うこともたくさんあるし、諦めるタイミングも難しい。けれど、どうか「一人じゃない」ことを、忘れないでほしいです。

あっこ 流産後は、世界がいきなり光から闇に変わると思います。私もまだ闇から完全に抜け出せていません。ですが、こうした情報で救われる方が少しでもいらっしゃれば良いな、と思っています。

ころ 生理が来ると落ち込むし、妊娠が分かると「出血しているんじゃないか」と思い、トイレにいくのも怖くなる。妊婦検診も不安ばかりで、周りの幸せそうな妊婦がうらやましい。
そんな気持ちを抱えながら、不育症とたたかってきました。
医師には、対策をすれば、不育症女性でもその多くは妊娠出産できると言われ、現在は私もその一人になれました。今、流産に悲しんでるあなたがいつか自分の子どもを胸に抱けるよう、応援しています。

 


取材協力:さちえさん、まぁみさんあっこさんころさん
ころさんのブログ career-to-ha.hatenablog.com

 


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