現在シンガポール在住。イベント司会者として舞台の上に立ち、華やかな印象のボレンズ真由美さん。そんな華やかさの裏で彼女は、実は人知れず8年にも及ぶ不妊治療を経験し、最終的には実子の出産をあきらめるという決断をしました。
治療期間中は誰かにその事実を話したことはなかったという真由美さんが、なぜ自身の写真を載せて、「FLOW 〜産まない産めない女性の幸せな人生計画」というタイトルのポッドキャスト番組を始めようと思ったのか。
<前編>では中国でスタートした新婚生活から、香港、シンガポール、日本で経験した治療について、そして国ごとの治療事情についてお聞きしました。
ボレンズ真由美/Mayumi Boelens バイリンガルMC。Aspect Events代表。
1980年 兵庫県生まれ。10代でカナダ留学、20代でカナダ国籍の夫と結婚。結婚後から中国で過ごし、30代は2012年からシンガポール在住。2014年にイベント会社 Aspect Eventsを起業し、アジアを拠点にバイリンガルMC、ナレーター、通訳/ファシリテーターとして活動中。
2020年、ポッドキャスト番組「FLOW 〜産まない産めない女性の幸せな人生計画」を開始。自らの不妊治療経験についてシェアしたり、同じく子どものいない多くの女性の想いやストーリーを届ける。また同年、国際資格IANLP認定のNLPマスタープラクティショナー&NLPコーチ資格を取得。企業のグローバルコミュニケーションコーチとして、そして子どものいない女性や夫婦のための心と言葉のパーソナルコーチとして、活動の場を広げる。
香港、シンガポール、日本の3カ国で不妊治療を経験
24歳で結婚。29歳で不妊治療開始
―もともと海外経験が豊富で、カナダ人のご主人と現在シンガポールに在住の真由美さんですが、ずいぶん若くしてご結婚を決められ、新婚生活は中国でスタートされたんですね。
はい、そうなんです。私は高校卒業後はカナダに留学し、就職後もカナダと日本を往復する生活を送っていました。夫とは23歳で出会い、翌年に結婚しました。
というのも、もともと夫は中国で事業を興すことを決めており、彼が中国へ行くなら、結婚するか別れるか、という二択になったんです。当時の中国は、婚姻関係にないと同棲が認められていなかったこともあって。だから若い勢いもあって、未知の世界である中国広東省に一緒に行こうと決めました。
―中国へ移住した当時、子どもを持つことについてどのように考えていらっしゃいましたか?
新婚でしたが、中国で子どもを産むことは現実的ではないと思っていました。2005年当時、中国はまさに近代化の過渡期で街中が建設ラッシュ。道路の舗装も追いついていないのでガタガタ。そこでベビーカーを押すということは想像できませんでしたね。まずは、自分たちの生活を安定させることが優先でした。
―確かに不安要素が多い環境下では、なかなか子どもを産みたいとは思えないかもしれません。その後、環境や気持ちはどのように変化していきましたか?
30歳という節目が見えてきた頃、周りも結婚、出産という人が増えてきて、そういう年代になったんだな、と。周囲の変化や、自分たちの生活の安定も見えてきたので、「子どもを持つならこのタイミングかな」と思い、1時間足らずで行ける香港の産婦人科に初めてヘルスチェックに行きました。
検査結果は夫婦共々良好で、自然に任せていれば妊娠するでしょう、という診断。でもなかなかすぐにはできなかったので、以前10年近く飲み続けていた避妊薬(低容量ピル)が原因かな、と思ったりしていました。
―その後、本格的に不妊治療に取り組んでみようという判断は、ご夫婦で話し合ったんですか?
話し合いをしてというよりは、自然の流れで治療が始まりましたね。良いドクターが香港にいるという情報を聞いて、じゃあ行ってみよう、と。
29歳で健康状態のチェックをして、30歳でタイミング法からスタート。そして香港の病院で、タイミング法を2回、人工授精を2回しました。その後、夫の仕事でシンガポールに移住することになり、シンガポールで治療を継続しました。
―シンガポールでは、どのように治療を進めていかれたんですか?
シンガポールでの治療から、体外受精へステップアップしました。2013年に採卵をして同周期で移植をしましたがうまくいかず、数ヶ月あけて、また凍結してあった受精卵を2個同時に移植しました。
でもうまくいきませんでした。つまり採卵は1回で、戻したのは3個です。シンガポールでは、トータル150~160万円ほど使いました。
一回の採卵で胚盤胞になったものが6〜7個ありましたが、当時の現地の解凍技術の問題で、移植で戻せた3個以外の胚盤胞はもう使えなくなってしまったんです。
そしてその時に、培養や凍結胚を管理する技術は、日本の方がはるかに進んでいると聞きました。治療の質という点で言うと、例えばシンガポールでは、胚盤胞のグレードは日本ほど精緻に示されず、シンプルに「すごく良いです」とか「あまり良くない」というドクターの言葉だけでした。
私はドクターから「まあこればかりは運だからね。あまりストレスためないようにね!」と言われ、複雑な気持ちになりました。
そうした背景もあり、高度な技術のある日本で治療をしたい、気持ちもリセットさせたいと考えるようになったんです。
医療技術の高さを求め、国をまたいで日本へ通院
―そこから、日本に戻っての治療を決断されたんですね。
そうです。日本の不妊治療事情などを十分に調べた上で、日本での治療を決めました。初回は健康状態の検診のために単身で帰国、顕微授精をしたのは2016年でした。
結局、シンガポールとの往復は合計4回で、1回目は検査、2回目は採卵、3回目は移植、4回目は2回目の移植、でした。私はシンガポールでの治療実績があったので、日本でもゼロからのスタートとはならず、かつ国外から往復していることも鑑み短期決戦のつもりで、最初の移植で2個の胚盤胞を戻しました。
でも、着床しなかったんです。血液検査で妊娠反応が出なかった時、頭が真っ白になりました。「え? 2個も戻したのに? まだ30代半ばなのに?」って。卵のグレードは良いと言われていたし、年齢は若いし、体調は万全だったし、何度も振り返っては「原因はなに?」という疑問に苛まれました。
―妊娠反応がでなかったときの、ご主人の反応はいかがでしたか?
シンガポールで行った初めての移植がうまくいかなかった時は、「よし、次いこう!」と、特に落ち込んだりはしていませんでしたが、準備万端で臨んだつもりの日本でうまくいかなかったことは、打撃が大きかったようです。
海外での治療体制と、社会的背景
―「3カ国で不妊治療」されたことは本当に貴重なご経験だと思いますが、真由美さんが経験された国ごとの、不妊治療の状況をもう少し詳しく聞かせていただけますか。
まず香港ですが、当時(2010年)はまだ不妊治療専門クリニックというものを聞いたことがなく、Women’s Clinicと呼ばれる婦人科系クリニックに行きました。そこには当然妊婦さんもいますし、来る患者さんの年齢層や抱える病気も様々です。
私が香港で治療していたのは2010年〜2012年なので、時代も社会的背景も今とは異なりますが、「不妊治療」というトピックが、一般的には日本ほどセンシティブではなかったと思います。
中国は家族のつながりが深くて、旧正月で親族が集まる時にはわりとズバズバお互いのことを聞いています。結婚はまだか、とか子どもはまだか、とか。後継ぎを残すのは義務のような感覚もあって、なかなか子どもができない夫婦はプレッシャーを感じるケースもある、と聞きました。
だから、不妊治療も積極的なのかもしれません。さらに長男社会なので、男の子を産まなければいけない、というプレッシャーもあるようです。
―シンガポールでの治療はいかがでしたか?
シンガポールでは、不妊治療で有名なドクターがいるという国立病院に通いました。そこもやはり不妊治療専門クリニックではないので、当然待合室には様々な患者さんがいます。妊婦さんや新生児を抱えたお母さんも。
クリニック自体は香港とシンガポールでの大きな違いは感じませんでしたが、シンガポールも中華系の社会なので、やはり親族で集まる風習や家族からのプレッシャーを抱えているようでした。
いずれにしても、専門の医療機関がメジャーではない治療環境からスタートして、いざ日本での治療となり最も驚いたのは、「不妊治療専門クリニック」の存在だったんです。
専門クリニックの待合室では子どもを見ないし、妊婦さんもいない。名前も呼ばれず携帯に呼び出し案内が届く、というように患者さんへの心理面でのケア、プライバシーへの配慮が徹底していたことには、感動を覚えましたね。
―「不妊治療と仕事との両立」という観点で見ると、香港やシンガポールでは、企業側の理解や支援体制はどこまで成熟していた印象ですか?
その当時の状況と今とは変わってきていて、今はかなり不妊治療への理解というのは進んできていると思います。当時の私の場合は、クライアント企業へ通っている時は、不妊治療が理由であることはふせて休暇申請をしていました。関係者は日本人男性だったこともあり、うまくコミュニケーションを取りながらスケジュール管理できたとは思います。
ただフルタイムで働く社員であれば、簡単ではないでしょうね。企業側に理解を求めないと、突発的な休暇申請が重なれば、立場も厳しくなるかもしれません。
変わってきたとはいえ、まだまだ社会全体として、不妊治療への理解は十分とはいえない印象です。「あなたがやりたくてやる、あなたの選択でしょ」という捉え方をされる可能性は高いかもしれません。
もちろん選択は選択ですが、もし、子育て中の女性が、子どもの具合が悪くなったから急に帰る場合、周囲は理解します。でも、子どもが欲しい人が治療のために仕事に穴をあける場合は、それは個人の選択だ、という解釈になってしまうこともあるように思います。
取材・文 / タカセニナ、写真 / 本人提供
20代で不妊治療を開始し、治療とともに30代を駆け抜けた真由美さん。<前編>では、香港、シンガポール、日本で経験した治療について、そして国ごとの治療事情についてお聞きしました。続く<後編>では、8年間の不妊治療に終止符を打つ決断の背景と、治療後に起きた心境の変遷を辿ります。ご自身の内面と向き合い、導き出された答えが真由美さんの人生の新しい扉を開く。治療終結後に、彼女が見出した世界とはー。
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