不妊治療を中断して約4年。でも、子どもを望む気持ちも確かにここにある。揺れる思いを抱えながらわたしと夫婦の幸せを探る、37歳の現在地<前編>

いつか自分も母親になる未来を、自然と思い描いていた。しかし、原因不明の不妊でなかなか授かれず、不妊治療を始めるも、病院から治療方針の提案がなくなったことを機に中断ー。

この一連の経験を糧に、過去の自分に伝えたいメッセージを込め、夫婦関係のモヤモヤを本音でシェアして助け合うことを目指すメディアコミュニティ「フタリノ」を運営する清水愛さん。

今のところ治療を再開する気持ちはないけれど、子どもを持たないと決めているわけでもない。不妊、産む、産まないに向き合い、家族・夫婦のカタチを探りながら、揺れ動くリアルな気持ちを、前後編にわたりお伝えします。

清水 愛/Ai Shimizu  フタリノ株式会社代表。1984年生まれ。2019年、不妊治療の挫折を機に子どもの有無に関わらず夫婦が自分たちらしく生きるための支援を志し、メディアコミュニティ「フタリノ」 を立ち上げる。夫婦の問題を”ふたりのこと”で済まさずシェアして助け合える社会の実現を目指し、イベント開催やコミュニティ運営など様々な活動を行う。 2021年、ソーシャルビジネスを通じて社会課題の解決に取り組むボーダレス・グループにジョイン。ふたりのことを本音でシェアして助け合うコミュニティサービスをリリース。
プライベートは、転勤族の夫と愛犬のフレンチブルドックと3人暮らし。引越しは通算12回。現在は大阪で暮らしています。趣味は散歩と物件探し(間取りフェチ)。

 


「いつかは自分も母親になる」と信じていた

  充実した社会人生活、そして結婚。自然な流れで妊活を始めたけれど……

ーまず始めに、清水さんご自身について教えてください。大学卒業後、どのように働かれてきたのでしょうか。

起業する前に、2回転職して3社で働きました。

まず、新卒で内装関係の会社に就職し、百貨店の改装などを担当。その後、不動産業界に転職して、商業施設のテナントリーシングや出店交渉をしたり、フロアの構成を決めたりしていました。

出店交渉の際に、各企業の担当者の方が揃って人材不足に悩みを抱えていることを知り、それをきっかけに人材業界に転職。企業の採用コンサルタントや中途採用の支援、転職サイトの運営などに携わりました。

上司や仲間に恵まれ、仕事も楽しかったので、まさか自分が独立するなんて当時は全く想像していなかったですね。

ー充実した会社員人生を歩んでいらしたんですね。では、旦那さんとの出会いから、ご結婚までについて教えてください。

出会ったのは社会人1年目なので、もう長い付き合いになります。

私は就職で東京に行くことになったのですが、大学までずっと関西にいたので、東京に来て孤立した気持ちになってしまって。会社の同期に「関西人を紹介して」とお願いして出会ったのが今の夫です。関西ロスだった当時の私には、5割増しにかっこよく見えましたね(笑)。

その後、約6年交際して結婚しました。

ーもともと清水さんは、どのような家族像・ライフプランを描いていましたか?また旦那さんはどのように考えていたのでしょうか。

私には妹が二人いるんですが、一番下は12歳下で、私が小学6年生の時に生まれました。幼い頃から間近で赤ちゃんを見て育ったこともあり、「赤ちゃんってかわいいなぁ」「私もいつかお母さんになるんだ」と、自然に思っていました。

あとは、私より早くに結婚したもう一人の妹の子ども(姪)が、もうかわいくてかわいくて仕方がなくて。

そういう環境だったので、私にとっては結婚したら子どもを持つのは当たり前のこと。結婚後すぐに妊活をスタートしたのも、ごく自然な流れでした。自分もいつか母親になるということに、何の疑いもなかったですね。

ただ、今思い返すと、夫は結婚当初から、子どもを持つことに対して、私ほど執着していなかった気がします。「いたら嬉しいし、いなかったらいないで夫婦二人の人生がある」という考え方をしていました。

姪っ子と

 


仕事との両立に苦労した不妊治療。退職・引越を経て、治療中心の生活へシフト

  私にとって、仕事も同じくらいとても大事なものだった

ー結婚後すぐに妊活を始めたのは、清水さんにとって自然なことだったんですね。妊活そして不妊治療は、どのように進めていったのでしょうか?

まずは自己流で、約1年半の間、体温を測ったり、タイミングをとったりしていましたが、「全然できないな」と急に不安になったんです。

思い返してみると、私はもともと生理痛が重く、また、20歳の頃に卵巣嚢腫になったこともありました。治療を経て治ったと認識していたので気にしていなかったのですが、もしかして影響があるのかもしれないと心配になって……。

それから、すぐに病院を探して一通り検査を受けたのですが、問題は見当たりませんでした。この時から不妊治療の専門病院に通院し、タイミング指導から始めて、人工授精、体外受精と進めてみることにしたんです。

その当時、ネット上で「人工授精3回で授かりました」というような情報を目にしていたので、「きっと数回したらできるんだろうな」と思い、職場から通いやすい病院を選んで始めましたね。

ー仕事と治療を両立するには、通いやすさは重要ですよね。

そうですね。当時、責任ある仕事を任されていたこともあり、不妊治療を最優先というよりは、「仕事と両立したい」という気持ちが強かったように思います。子どもは欲しかったのですが、仕事もとても大事で……。

もしかしたら、まだ覚悟が完全にはできていなかったのかもしれません。仕事と両立するために、コントロールのしやすさで病院を選びました。

ー実際に通院し始めてから、仕事との両立はいかがでしたか?

スケジュール的に難しかったのは確かです。ただ、心の面では、仕事というよりどころがあることで、それを通して得られる達成感や社会との接点に救われていたと思います。

かたや、これは高度治療にステップアップしてからの話ですが、抜けられない会議が入っている日に「採卵に来てください」と言われたことが一度ありました。どうしても休めなかったので、注射で採卵日を遅らせ対応したのですが、結局その周期はうまくいかず後悔した経験もあります。

その時は、「私が仕事を優先したからこういう結果になってしまったんだ」と自分を責めました。仕事も治療も中途半端な気がして、とても辛かったです。

また、治療を始めた当初は、上司にも周りのメンバーにも治療のことを伝えずに、うまくやりくりしようと思っていました。ただ、なかなか難しかったので途中で打ち明けたのですが、それからの方が両立しやすくなりましたね。

フタリノの事業で初めて賞を取った時の写真

 

  治療に専念したけれど……。親子連れを見て涙が止まらず

ー仕事と治療の両立に苦労されたものの、仕事に救われた部分もあるんですね。その後、治療の経過はいかがでしたか?

話が少し遡りますが、人工授精の段階で授かると思っていた当初の期待に反し、全部で3回行ったものの結果につながらず、医師からは体外受精へのステップアップを打診されました。ちょうどそのタイミングで、夫の転勤が決まり、引っ越すことになったんです。

そして悩んだ末に、私は会社を退職しました。当時は個人情報を取り扱う仕事をしていましたし、今ほどリモートワークが浸透していなかったのが主な理由です。

なにより、人工授精がうまくいかなかったので、「これは仕事を一旦ストップして、治療に専念するきっかけなのかな」と。今やっておいた方が、後悔しないんじゃないかと思ったので、 夫の転勤先に一緒に引っ越すと同時に体外受精へステップアップして、不妊治療中心の生活にシフトすることに決めました。

ー治療への専念を決心したんですね。引越先では、どのように病院を探して、治療を進めたのか教えてください。

まず、新居の近くにある病院へ行ったのですが、淡々とした医師の雰囲気と相性が合わず、別の病院を紹介してもらったんです。

その紹介先の病院では、夫の精子の運動率の問題やこれまでの治療経過などから、顕微授精をすることになりました。

私はもともと多嚢胞性卵巣とも言われていて大量に採卵でき、2回の採卵でそれぞれ16個ほど採ることができました。その合間、1回目の採卵後に3個の受精卵を戻しましたが、いずれも着床せず。2回目の採卵では、それだけ採れているにも関わらず、1つも受精卵ができませんでした。

卵子は条件をクリアしたグレードでしたし、着床率の向上を図るアシストハッチングもしたり、培養液も最良なものを選択したりと、できることは何でもしたのですが、なぜか結果にはつながりませんでした。

医師からは、「受精しない原因が分からないので、症例として学会で話します」と言われてしまいました。それまでは都度、次の治療に関してさまざまな提案がありましたが、その時には何も提案をもらえなかったので、「今の私にできることはもうないのかも」と落ち込みましたね。

それに加えて、またここから新たに検査をして、卵子と精子のどちらに問題があるのかなど、原因を突き詰めていく作業ばかりになるのは本当にしんどいなって。もうそこで、気持ちが折れてしまいました。

病院からの帰り道、親子連れを見るだけで涙が止まらず、いよいよ限界を感じました。自分が自分でなくなっていくような感覚で……。人混みで涙を我慢できないくらいしんどいんだなと、その時にやっと自分の状態に気付いたんです。それから、治療と距離を置くようになりました。

ー本当に辛かったですね…。ご両親や義両親には、治療について伝えていましたか?また、そこまでご自身を追い込んでしまったのは、周りからの妊娠に関するプレッシャーもあったのでしょうか?

両親、義母にも治療のことは伝えていました。

義理のお母さんは、とても親身になってくださる方です。私たちに何か一方的に伝えてくることはなく、私たちが聞いて欲しい時に話を聞いてもらっていました。優しい方なので、もしかしたら、何か思うことがあっても伝えにくかったのかなとは思いますね。

両親も、心配してくれていました。ただ、当時の私は、逆に心配をかけたくないという気持ちと、ここで弱音を吐いたら、私自身が折れてしまうかもしれないという怖さもありました。なので周りからのプレッシャーよりも、無理にでも前を向くように、自分にプレッシャーをかけていたんだと思います。

また、祖父母も、きっと私たちに子どもが出来ることを楽しみにしているだろうと思っていたので、その期待に応えられない無力感を抱えていました。実際のところは分からないのに、自分で勝手に背負ってしまっていたのかもしれません。

 


34歳で治療を中断。努力が実を結ばないことがショックだった

  もう病院に行けない。心の糸が切れた時

ーそうした自身へのプレッシャーもある中で、心の悲鳴に気づき治療を中断することにしたのですね。

そうですね。治療を中断しようと決めたというよりは、病院に行けなくなってしまったんです。張りつめていた糸がプツンと切れたように、無気力になってしまいました。

診断を受けたわけではないのですが、それからしばらくは、鬱状態だったのかもしれません。公園やスーパーなど、子どもがいる場所には行きたくありませんでした。友人との約束も、最近子どもが生まれた子が居ると聞くと、行きにくかったり。「自分はどんな顔してるんやろ?」と考えてしまって、怖くて会えなかったですね。

でも、そんな自分自身も嫌で、しばらく子どものことは、考えないようにしていた時期がありました。

時間の経過とともに、少しずつ気持ちは落ち着いてきたのですが、またあの頃の状況に戻ることへの恐怖心が拭えず、病院へ行くタイミングを失ってしまい今に至ります。

病院側からも、「学会に報告してなにか分かったら連絡します」と言われていたのですが、未だに連絡はありません。

ー治療を中断されてからしばらく時間が経ちましたが、当時ご自身が仕事を辞めて、治療に専念する選択をしたことについて、今どうお考えになっていますか?

私の場合は、仕事を理由に中途半端な状態で治療を続けるのは嫌だったので、今もこの決断が間違いだったとは思っていません。

当時は、鍼に行ったり、漢方を飲んだり、有酸素運動に通ったり、良いと言われることは全部チャレンジして、友人との約束も大事な時期は断り、とにかく治療に全力投球することはできましたね。

ただ同時に、そのように治療にフルコミットすることで、体のコントロールはしやすくなっていた一方、心の面では逃げ場を無くしてしまいました。

今思えば、心のバランスを保つためには、それが必ずしも仕事ではなくとも治療以外に夢中になれるものや、家庭以外に自分の居場所を持っておくことはとても大切ですね。

ー当時は、とてもストイックに治療に取り組まれていたという印象です。

そうですね。もともとのストイックな性格もあると思います。

例えば、1年間で偏差値を40上げて、国立大学に入学したという経験は、私の過去の成功体験の1つです。高校時代は偏差値が30くらいだったんですが、その件で父とケンカをして(笑)。そこから親を見返すつもりで必死に勉強して、直前の模試で判定不能の状態から合格しました。

頑張った分だけ努力は報われる、と信じて生きてきたんです。そのマインドで不妊治療にも挑んでいたので、どれだけ努力しても結果につながらないことが、正直衝撃でしたね。

我が家に来たばかりの頃の愛犬オジー

 

  早々に選んだ「最後の砦」。もうどこにも行く場所はない……

ー報われない気持ちを抱え辛い状況だったと思うのですが、その後、新たに病院を探したり、別の治療を検討するなど、再開に向けて前向きな気持ちは芽生えたのでしょうか?

いいえ、今も新しい病院を探すことはしていません。

というのも、治療中断の前に通院していたのは、別の病院で結果が出なかった人が、最終的に門を叩くような病院で、権威ある医師に診てもらっていたんです。当時は、「とにかく早く妊娠して治療を卒業したい」という気持ちでした。

通い始める時に「もしここで授からなければ、できないかもしれない」とも思っていたので、その時点で「私にはもうどこにも行く場所がない」と感じていました。

ーご年齢を考えても、随分早い段階で「最後の砦」を選んだように感じましたが、そういうお気持ちだったんですね。

そうですね。それに、引っ越して最初に行った近所の病院は、先生との相性が合わなかったことに加え、設備の面などにも正直なところ不安がありました。そういった点を解消してくれる病院でもあったので、再転院して他の病院で治療することは考えられませんでした。

信頼できる病院、安心できる病院はどこなんだろうと考え、自分なりに辿り着いたところでもあって。ここでダメなら、もう他でもダメかなという気持ちでしたし、その後もその心境が大きく変わることはありませんでした。

とはいえ、今となっても病院選びは難しかったと痛感しています。

取材・文 / 中山萌、写真 / 本人提供


「いつかは自分も母親になる」と幼い頃から信じていたけれど、現実は思い描いていた通りにはいかず、不妊治療を中断した清水さん。通院できなくなるほど自分自身を追い込んでしまった当時を振り返り、苦悩や葛藤をお話いただきました。

続く<後編>では、治療を中断したのちに見つけた「残りの人生をかけて取り組みたいこと」、その思いにたどり着くまでのさまざまな取り組み、治療を経て変化した夫婦間のコミュニケーションの在り方などに迫ります。


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