子どもを望む気持ちと、夫婦2人の人生になる覚悟と、共存しながら歩む日々。グラデーションを渡り続ける夫婦が、残しておきたい今現在の心の中。<前編>

ドイツ・ベルリン在住で、夫婦間コミュニケーションコーチとして活躍中の木村グロースようこさん。現在43歳のようこさんは、20代で結婚と離婚を経験。そして30代前半で現在の旦那さんと再婚しました。そこから2回の流産を経験され、子どもは望むけれど、不妊治療はしないことをご夫婦で選択。

今は、このまま子どもをもつことは叶わないかもしれない、というステージにいます。揺れ動く気持ちを伝えることは決して簡単なことではありません。それでも、なぜ今話そうと思ったのか。まっすぐに胸のうちを語ってくださるようこさんの言葉がやさしく響きます。

木村グロース暢子/Yoko Kimura-Gross  夫婦間コミュニケーション・コーチ。1978年 鳥取県生まれ。大学でのロシア語専攻を生かし、ロシアでの日本語教育、帰国後は外資系企業で貿易業務、通訳翻訳にたずさわる。2011年の東日本大震災をきっかけに、ドイツ人の夫の故郷ベルリンに、ドイツ語力ゼロで移住。地元企業で働きながらベルリンでコーチング資格を取得。2021年から、国際結婚でコミュニケーションにつまずく女性、海外暮らしで自信を喪失している女性をサポートするため、コーチング活動を開始。
自身の長年の不妊、二度の流産、国際離婚&再婚、海外暮らしでのアイデンティティ危機、「不妊治療をしない選択」などの経験を経て、音声メディア「Stand FM」にて「今日の1℃を動かすチャンネル」も始動。悩みに向き合う一人の女性として、そして自分と同じような試練に足取りが止まってしまった女性の支えになれればと、聴く人の心に声で寄り添う番組を届けている。UMUコミュニティのメンバー。

 


再婚、そしてドイツへの移住

  人生のパートナーとして歩んでいきたいと、互いに思えた相手

―ようこさんは現在の旦那さんとは再婚ということですが、そこに至るまでのようこさんのヒストリーを教えてください。

最初の結婚は2006年、私が27歳の時でした。私は日本語教師として2004年から2年間ロシアに派遣されていて、現地で出会った7歳年下の彼と結婚。結婚後は日本で生活を始めました。

ただ、まだ20歳だった彼との結婚生活は、経済的にも、双方の精神面においても順調とはいえず、結婚4年目で夫婦関係を解消することに決めたんです。

現在の夫とは友人の紹介で出会いました。お互い再婚同士。それぞれが最初の結婚から学んでいることがありました。

彼と何度もコミュニケーションを重ねていく中で、この人となら、お互いに責任を持ち、理解を深め合っていけると確信するようになったんです。人生のパートナーとして歩んでいきたい、と共に感じ合いました。

―お二人とも前の結婚から学びを得て、次にパートナーとなる人に対して望むものがわかっていたんですね。ドイツへの移住を決めた理由はなんでしたか?

当初、結婚という形式には二人ともこだわりはなく、同棲を始めました。ところが2011年に東日本大震災・福島第一原発事故を目の当たりにし、そこで彼はドイツに帰るタイミングだと感じたようです。

彼は通算で11年近く日本に住んでいたので、彼のご両親が元気なうちに一緒に過ごす時間がほしい、という願いもありました。

そしてもうひとつ、私たちは子どもが欲しかったんです。でも二人とも東京出身ではないのと、彼が最初の結婚で痛感した「外国人配偶者には、離婚に際して、日本国内では親としての権利がほぼ保障されていない」という現実もあり、家族を作る場所として、日本はオプションに入らなかったんですね。

ですから、子どもをつくる、という点でもやっぱりドイツだよね、ということで、3月の震災後、正式に結婚し、同年の終わりにドイツへ移住しました。

2005年 ロシアで

 

  最初の流産―消化されなかった思い

―震災をきっかけにようこさんの環境は大きく動いたんですね。お二人とも子どもを望まれていたということですが、以前からお二人で将来の家族像についても話し合われていたんでしょうか。

はい。二人とも子どもがほしい、という考えは一致していました。実は彼は前妻との間に娘さんが一人いるんです。そしてその子がまだ小さい時に別居を始めたので、夫婦ふたりで子どもを育てたい、という気持ちはより強かったように思います。

私も、彼と子育てをしたいと望んでいたので、ドイツ移住への決心ができました。当時私は33歳、彼は37歳です。

―ドイツ移住後、妊活に取り組んで約1年半後に待望の妊娠をされましたね。しかし残念なことに流産となってしまったとのことで、喜びも大きかったと同時に、失った悲しみも大きかったものと思います。お二人でどのようにその事実を受け止めていかれたのでしょう。

妊娠が判明した直後から、彼は仕事で日本に滞在しており一ヶ月ほど不在でした。そして彼の帰国後すぐに流産してしまったんです。だから、待望の新しい命を授かった、という喜びを二人で噛みしめることもないまま終わってしまいました。

私は初めての妊娠だったし、本当に初期の段階での流産でした。だから妊娠という事実も、流産という事実も、実感が持てないまま時間だけが流れていった感覚です。私も混乱していたし、彼も混乱していたと思います。

そんな状態だったので、実はこの出来事については二人でほとんど話し合わなかったんです。

当時、私はまだ渦中の自分の感情をどう扱っていいかわからず、伝えたい言葉も見つからず、話しようがなかった。何か話そうとしても、ただ泣いてしまって先が続かない。そして彼もまた、このことについて自分の気持ちを伝えてこようとはしていなかったと思います。

すぐに次の妊娠を望み、二人の間でこのことを掘り下げることなく、自然とタイミングをとり始めましたね。だから私の中では、最初の流産を消化するのに何年もかかりました。

 


不妊治療をしない、と決めた理由

  治療よりも大切にしたいもの

―ようこさんと旦那さんの間で、その段階で不妊治療という選択肢は検討されなかったということでしょうか。

一度自然妊娠できたので、その当時は検討しませんでした。でもそこから何年も妊娠しない期間が続き、私の中に、徐々に不妊治療という選択肢が生まれていきました。

ところが彼は絶対に反対でした。理由は、彼の古くからの友人が10年近く不妊治療をして、結果的に子どもは授からず、そして夫婦関係までも破綻してしまったのを目の当たりにしていたからです。

だから彼は、不妊治療というものに恐怖すら感じていた。あくまで彼個人の感じ方ではありますが、夫婦関係が何より大切なのに、治療をすることで最も大切なものがこわれるなんてありえない、と。

さらに、治療をしても授からないことがある、という事実も彼にとっては衝撃的だったようです。そこに払うことになるかもしれない犠牲の大きさに、恐れおののいているのを感じました。

―かたや、ようこさんの中には、治療に挑戦したいという気持ちがあったのではないかと思います。そこに相対する旦那さんの「不妊治療は絶対にしたくない」という意志を、どのように受け止めていかれましたか。あるいは、それでも私はやってみたい、と強い主張を返すようなことはされたのでしょうか。

いやそれが、夫のその言い方があまりにも、100%揺るぎのないものだったんです。私から医学的な実績データをもとに妊娠率を示し、論理的に説得しても無駄だな、と思わされるような……。

それは理屈では説明のつかないもので、本能的に彼が拒否していることが伝わってきたんですね。その時の彼の表情や目の奥にある恐怖感とか口調とか、そういったことから感じ取れるものがありました。だからそれを押しのけてまでするものではないと感じ、不妊治療という選択肢は私たち夫婦のものではない、と私の中でも納得していきました。

またその頃、胚培養士の方が書かれたある書籍を読んだことも気持ちの切り替えに役立ったんです。不妊治療の成功には体質改善が重要であることを説いたもので、医療の力を借りる前に自分ができることがたくさんあるんだな、とも感じていました。当時私は30代、希望は持っていましたね。

 


二度目の妊娠と流産がもたらした人生の転機

  養子縁組という選択肢

―ようこさんとしても無理に希望を抑え込むのではなく、ご自分でポジティブに捉えられることも考えていらしたのですね。不妊治療をしないことが、当時のお二人にとって必然の選択となっていったプロセスが腑に落ちました。そして、最初の妊娠から6年後の2020年、ようこさんが41歳の時に二度目の妊娠をされました。

そうなんです。これは思いがけないことでした。毎月生理が遅れた時は妊娠検査薬を使っていましたが、この時は予想外でしたね。

その頃、私たちは実子を望む気持ちがだんだんとフェードアウトしていくんだろうと思って過ごしていたんです。その希望は別のことへ徐々に移っていくだろう、と。夫は本を執筆していたこともあり、仕事や日々の生活といった、お互いが他のことに集中していた時の、まさに予期しない出来事でした。

そしてもうひとつ。実は妊娠がわかる少し前から、実子を持つことが難しいのならば、という思いから、養子縁組という選択についても、夫と話をしていたんです。2020年の初め頃から、情報を集めるためにベルリン市の担当部署に相談に行き始めて。

でも、わかったことはそのハードルの高さです。ベルリン市は養子縁組を望むカップルの数より、養子縁組に出される子どもの数の方が圧倒的に少なく、5〜8年待つ可能性があるということでした。

その待機期間は現実的ではないと判断した私たちは、次に国際養子縁組(※)について調べ始めました。そしていくつもある斡旋団体の中から候補を決め、そこに申し込むために必要な膨大な資料の準備に取りかかっていたんです。そんな時に妊娠がわかった、という経緯です。

※国際養子縁組とは、国籍の異なる養親と養子の間で行う養子縁組のことをいい、養子縁組成立のために適用される法律は、養親の本国法になります。つまり養子にする子どもの状況や養親それぞれの本国法によって、取得する在留資格も異なり、養子縁組をする国によっても揃えるべき資料が異なってきます。そのため、まずは専門の斡旋団体や行政書士に相談するのが一般的です。

―すごいタイミングでの妊娠判明でしたね。とはいえ養子縁組を検討されていたということは、実子を持つことへのこだわりより、二人で親になることを選ぼうとした、ということですね。

はい、そうです。2歳の子どもを養子に迎えた友人家族の姿を見ていたし、身近に自身が養子として育った人もいて、私たちも、家族の形として自然と受け入れられたんですよね。こういう家族の築き方もあるよね、と。

 

  コロナ禍の妊娠。そして流産。その時夫は。

―そんな最中、二度目の妊娠はお二人にとってどんなに喜ばしいサプライズだったことかと想像します。しかし2020年といえば、新型コロナウイルスの感染拡大が始まった時でしたね。

はい。得体の知れないウイルスに世界が戦々恐々としていましたよね。当時私はベルリンの現地企業に勤めていました。ドイツは母体保護の考え方が定着していて、その補償も手厚く、さらには医師側が出勤停止の指示を出せる仕組みがあるんです。

私が高齢出産のカテゴリーに入っていたことに加え、まだ職場でマスク着用が徹底されていなかったこともあり、担当の産婦人科医から今すぐにでも休むよう指導がありました。妊娠判明からまもない頃でしたが、企業側も理解があり、すぐにお休みに入ったんです。

二度目の妊娠では、私はかなり初期段階から周囲に妊娠を伝えていました。会社の上司、友人、家族など。それは今振り返るとよかったと思っています。というのも、実は結果的に、この妊娠も流産に終わってしまったんです。

そのため、既に妊娠を知っている人たちに、流産してしまった事実を伝えたことで、その苦しさや状況により理解を示してもらえたんですね。当時の私にとっては、一部始終を伝えたことが、周囲との信頼関係の維持にもつながったと感じました。

―待望の6年越し、かつ二度目の妊娠からの流産。今は整理してお話しくださっていますが、とはいえ、とても苦しい経験ですね……。そこから2年経っていない現在、まだまだようこさんの悲しみは深いものがあるのではないかと思います。

そうですね。ただ、一度目の流産の時との大きな違いは、夫の存在です。妊娠がわかった時から、私の体調のことや、子育てをどう協力し合っていくかなどについてしっかりと話ができていたんです。

赤ちゃんの心拍が停止してしまい、掻爬手術を受けるプロセスも、彼はすべて一緒に見て、一緒に体験し、一緒に感じていました。

―それは大きな違いですね。喜びも苦しみも悲しみも隣に分かち合える人がいる、ということは安心にもつながりますね。

はい。共にその悲嘆を共有し、経験したことは大きいです。でも、そのあとの悲しみとの向き合い方のプロセスは、彼と私では違いを感じました。

 

  悲しみと共に生きていくための自分の鍛え方

―具体的にはどういう点で、その違いを実感されたのでしょうか。

私の方はわかりやすく、感情を素直に表に出していました。例えば友人夫婦が子どもを連れて、うちに遊びに来た時。その時はとても楽しいんだけれど、帰ったあとに複雑な気持ちや悲しみが湧いてくることがある。そんな時、私は隠すことなく涙を流しました。

一方彼は、自分の感情に正直になるよりも、しっかりと私を支えなければいけないと思っていたようです。無理をしていた部分もあったのかもしれませんし、私と悲しみを感じるポイントが異なっていたのかもしれません。

そう感じたのは、私には気にならないようなことが、彼にはとても気になっているように見えたこともあったし、ひどく沈んでいることもあったからです。

でも、仕事のことなのか、体調が悪いのか、それとも流産のことなのか、あるいは自分の娘を思い出しているのか……理由はわからなかった。つまり、悲嘆の受け止め方として、私は感情を外へ出し、彼は内へしまう、という対照的な形をとっていたように思います。

そのことに気づいてからわかったことは、 彼の気持ちを一方的に想像しているだけでは、私たちはこの悲しみの前で心の距離が離れたままになってしまう、ということです。同じひとつの喪失体験からも、それぞれが感じる痛みや悲しみが込み上げるタイミングは違うわけです。

だからこそ、相手の表情からこうかもしれない、ああかもしれないとの勝手な想像で、自己完結してはいけないと思いました。直接聞くことこそ、コミュニケーションの第一歩だと思い、彼と話をするようにしました。

―たしかに、ついついその時の相手の表情や雰囲気で気を使いすぎてしまったり、聞きたいことをこらえてしまったりすることはあるかもしれません。直接聞いて話すことで、ようこさんと旦那さんの悲しみへの向き合い方のプロセスの違いを徐々に共有し、理解を深めていったのですね。

そうですね。一つ印象的なことがあったんですが、 ベルリン市に養子縁組の相談に行っていた当時、市の担当者から、私たちが最初の流産の悲嘆をまだ消化できていないことを指摘されたんです。夫はその時、その悲しみに自分が向き合いきれていなかったことに気付かされたようなんですよね。

だから二度目の流産のあと、強がっていてはいけないんだ、自分の中にどういった感情があるのか吐き出さないといけない、と理解したと思うんです。

二度目の流産後は、私はすぐに関連する書籍やポッドキャスト番組を探してみたり、同じ当事者の方に会って話を聞いてもらったり、必死に悲しみと向き合いました。

その姿を彼は見ていて、だから彼自身も、私よりは多くの内にこもる時間を必要としながらも、悲しみと共に生きていくための自分の鍛え方を、彼なりの方法と時間軸で真剣に探していたと思います。

そこに気付けてからは、それぞれのプロセスをお互いに伝え合い、時に第三者や他の当事者と思いを分かち合うことが大きな助けになることも、一緒に学んでいきましたね。

 

  変化していく私・彼・夫婦関係

―お互いがそれぞれの悲しみの向き合い方に共鳴しあって、前に進んでいらっしゃるように感じます。そして、一度は不妊治療はしないと決めていたお二人ですが、この二度目の流産後、治療を検討される局面があったと聞きました。お二人にどういった気持ちの変化があったのでしょうか。

素直な心境として、2回目の妊娠が予想外にできたことで、期待する気持ちが強くなっていたのは確かです。そこで、まずは二人で婦人科クリニックの初期検査を受けることにしたんです。それは不妊治療をする・しない、という判断をするためというよりは、これからの二人の人生の進め方を決めていく検討材料として必要だと考えたからです。

そして同時に、夫の個人としての気持ちにも変化が起きていました。もし治療によって子どもを授かる確率が高いのであれば、不妊治療をしても良い、という考えが彼の中に生まれていたんです。

その背景には、共に長く生活をする中で、不妊治療が二人の関係を壊してしまうかもしれない、という恐怖感が徐々に薄れていったことがあるようなんですよね。

―そうでしたか。つくづく、人の気持ちというのは変化していくものなんだと感じます。旦那さんの気持ちの変化に伴い、ようこさんご自身もより不妊治療に前向きな気持ちになりましたか?

はい。正直、彼の変化は私も少し意外でした。クリニックで初期検査を受けることも、彼の方からの提案でもあったんです。まさか治療を前向きに捉えられるようになるとは。だから、彼が一緒に治療をしようと思うのであれば、私もがんばろうという気持ちになりました。

ただ残念なことに、検査結果は、ふたたび妊娠できる確率は非常に低く、もし妊娠できたとしても流産する可能性が非常に高い、という厳しいものでした。ですから結果的には、改めて私たちは不妊治療をしないことを決めました。その時、私は42歳、夫は47歳です。

取材・文 / タカセニナ、写真 / 本人提供、編集 / 青木 佑、協力 / 高山美穂


再婚をし、人生のパートナーである旦那さんと暮らしているようこさん。ドイツに移住後、二度の流産という辛い経験をされました。この<前編>では、その出来事を通してご夫婦それぞれが悲しみとの向き合い方を模索し、二人のコミュニケーションや関係性に生まれた変化のプロセス、そしてご夫婦の選択について、丁寧に語っていただきました。

続く<後編>では、現在のようこさんのお仕事であるコミュニケーションコーチについて、さらには、子どもを望む気持ちと、それが叶わないかもしれないという現実に、揺れ動いている今のようこさんの胸のうちに迫ります。


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