気象予報士・キャスターとして情報番組・報道番組で活躍してきた千種ゆり子さん。26歳のときに「早発卵巣不全」=「早発閉経」と診断され、その後約3年に及ぶ治療を経験しました。
昨年、34歳のときに、結婚と早発閉経であることを公表して以降、ご自身の言葉で、自分の身体に目を向けること、その先にある多様な生き方の選択肢を伝えています。
早発閉経と診断された日、どんなことを感じたのか。治療に終止符を打った日、どんな人生を思い描いたのか。パートナーとの出会いに至るまで、ゆり子さんの物語を辿ります。
聞き手は、18歳のときに生まれつき生理がない原発性無月経の診断を受けたライターの徳が務めました。
千種 ゆり子 / Yuriko Chikusa 埼玉県富士見市出身。2013年に気象予報士資格を取得し、NHK青森を経て、テレビ朝日「スーパーJチャンネル(土日)」や、TBS「THE TIME,」に出演。2021年に東京大学大学院修士課程に在学、気候変動コミュニケーションについて研究中。2022年には、26歳の時に早発閉経と診断されたことを公表。自分の身体に目を向けることの大切さを伝えるため、映画製作にも取り組んでいる。公式ホームページ
20代で向き合った、仕事と通院と早発閉経の治療
生理が来ない、のぼせる。早発閉経と診断されるまで
―2015年、26歳の時に「早発閉経」と診断されたと伺いました。生理が来ないと気づいたのは24歳の頃だったとのことですが、改めて診断までの過程についてお聞かせいただけますか?
24歳から生理が不順になり始めたので、産婦人科を受診するようになりました。そのときは、診断名はつかなくて、「結婚する予定はありますか?」「すぐに子どもがほしいですか?」と聞かれて。
結婚の予定もなかったので、「ホルモンを補充しつつ様子を見ましょう」ということになりました。
当時は東京の企業に勤めていて、東日本大震災もあって、仕事や震災のストレスが原因で生理が来ないのかなと思っていたんです。以降2年くらい、ホルモン剤を飲めば生理は来るけれど、飲まないと来ないので病院を受診する、の繰り返しでした。
―初潮がなかった私も15歳で町の産婦人科を受診して、診断名がつく18歳まで様子見で、ホルモンを補充して生理を起こすことを繰り返していました。ゆり子さんがその後、「早発閉経」と診断された経緯はどのようなものだったのでしょうか?
26歳の頃、ほてりとのぼせ、いわゆるホットフラッシュが出るようになったんです。急にのぼせてカァーッとなって汗が出る。
当時は気象予報士の資格を取って、青森のテレビ局で働き始めたばかりでした。実家を離れて初めての一人暮らしにストレスを感じて、ホルモンバランスが乱れていたのかなって。
仕事をがんばりたい時期だったし、ちゃんと病院も受診しているから大丈夫、と思っていたけれど、いよいよほてりがひどくなって、「おかしいな」と感じるようになったんです。
それで病院を変えてみようと、青森で不妊治療を専門とする病院を受診したら、「早発卵巣不全」、いわゆる「早発閉経」と診断されたんです。もうすぐ27歳になる頃でした。
―「早発閉経」とは、どんな病気なんでしょう?
40歳未満で生理が自然にこなくなって、閉経を迎えること、ですね。女性の卵巣の中には原始卵胞と呼ばれる卵子の卵があって、一般的な数字として、生まれたときに200万個ほどあるものが、初潮を迎える頃に30万個、その後1ヶ月1000個くらいのペースで減っていっているらしいのです。
砂時計が落ちるように時間の経過とともに減っていき、その原始卵胞がなくなると閉経していく。
通常、原始卵胞がなくなって閉経を迎えるのは50歳前後ですが、早発閉経は、その減少スピードが極端にはやく、40歳未満で閉経を迎えてしまうんですね。
今思えば、26歳のときのほてりは、一般的に「更年期症状」と言われているものだったのかなと。
早発閉経になる原因はさまざまなことが考えられますが、私の場合は不明でした。原因がわからないケースは多くあるようです。
―診断を受けたとき、どんなことを感じていましたか?
24歳で病院を受診してから原因がわからないまま2年8ヶ月の月日が経っていたので、診断名がついたことですっきりしたところもありました。
ただやっぱり「妊娠が難しいかもしれない」と言われたことはショックでした。とはいえ、まだ卵胞が残っている可能性もあったので、できることはしたい、早く治療をしたい!という気持ちが強かったです。
受診した青森の病院では早発閉経の治療はできないということだったので、東京の病院に紹介状を書いてもらいました。
気象キャスターとしても、いつか東京でチャレンジしたいと思っていたので、オーディションを受けて。キャリアにおいては、病気をきっかけに、挑戦が早まった感じです。
原始卵胞がない。29歳で終止符を打った早発閉経の治療
─20代で新しいキャリアを歩みながら早発閉経の治療を並行して行うことは、身体的、経済的、精神的な困難さも生じたのではないかと想像します。
そうですね。結婚もしていないのに「不妊治療」をするのもややこしいので周囲の人たちには言えないし、職場でも健康状態を理由に番組を降ろされたらどうしようという不安があったので、伝えることはしなかったです。なんとか仕事の合間を縫って病院に通っていました。
幸か不幸か、私は採卵に至ることができなかったので、不妊治療をしている方がおっしゃるような、急なスケジュール調整の難しさはそこまでなくて。とはいえ、出ない結果に気持ちも浮き沈みしましたし、治療には膨大なお金がかかりました。
自分の心を守るために、治療中から徐々に「子どもがいない人生」を思い描き始めていましたね。
─具体的にどんな治療の過程を辿ったのでしょう?
当時は具体的に結婚や出産の予定がなかったので、私の治療の目標は「卵子凍結」をすることでした。
排卵を誘発するために、毎日同じ時間に自己注射を打って、卵胞が育っているかを確かめるために病院に行く。2年くらい続けたけれど、私の場合、一度も卵胞が育たなかったんです。
病院の先生には「まだ若いから卵子さえ取れれば妊娠できる可能性は高い」と励まされ、原始卵胞を取り出して体外で活性化させて、その活性化した卵胞を再び腹腔鏡で卵管近くに戻す「IVA(原始卵胞体外活性化法)」という治療法があることを教えてもらいました。
結果を急いでしまう私の性格上、早く次のステップにいきたいと思っていたので、IVAをやっている病院で治療をすることにしました。
入院して、お腹に小さな穴を開けて二つあるうちの片方の卵巣を摘出する手術をしたんです。でも、摘出した卵巣から一部の組織片を切り出してチェックしたところ、その中には一つも原始卵胞はありませんでした。
原始卵胞が残っている可能性はかなり低い。ああ、だからいくら刺激しても排卵が起こらなかったんだって、妙に納得した自分もいて。もうこれ以上、わずかな可能性にかけて治療を続けるのはやめようと、29歳のとき治療に終止符を打ちました。
「子どもを持つ人生だけじゃない」多様な生き方に触れて
漠然と思い描いてきた“当たり前”を更新する
―29歳、一般的にちょうど周りで結婚や出産が増えてくる年齢でもありますよね。自分の体の現実にどんなふうに折り合いをつけて、「子どもを産む」ことから気持ちを切り替えていったのでしょう?
私は専業主婦だった母親を身近な女性のロールモデルとして、いつか結婚して自分の子どもを産み育てることを当たり前のように思い描いてきました。
大学を卒業し働くようになってからも、結婚して子どもを産んで、復職して、仕事と育児をやっていくんだろうと漠然と思っていて。自分が子どもを授かることができないなんて、思ってもみなかった。
でも、診断から治療を経て徐々にその現実と向き合っていって、周囲を見渡してみたら、幸いなことにテレビ局の職場には、多様な生き方をするロールモデルがいたんです。
子どもを持たず、長年最前線に立って活躍する憧れの先輩をはじめ、男女問わず、結婚や子育てをせずに働く人たちが、1人ではなく複数人いたので、「子どもを持つ人生だけじゃない」ことがわかってきた。多様なあり方を見せてくれる人がいる職場環境は、かなり支えになりました。
─私は生まれつき生理がなかったので、子どもが産めないかもしれない、あるものがないことへの引け目のようなものが、特に結婚を考えるパートナーに対してはあったように思うのですが、ゆり子さんはどうでしたか?
治療をしている間もお付き合いをしていた人はいたんですが、そのときはやっぱりまだ「私の問題」で、話してはいたけれど、一旦自分の中で整理して結論を出さないと進めないという感覚があって。
治療を終えてすぐは、自己嫌悪に陥って自信を失くしていたので、自分がこの現実を受け入れられないのに、当時の相手に受け入れてもらうことは難しいだろうなと思っていました。
徐々に、子どもに意識が向いていない、私のことを見てくれるパートナーと出会い直したい、という方に気持ちを傾けていった感じです。
少し“人間不信”じゃないですけど、そのときの自分で新たな出会いを求めるのはハードルが高いなとも思っていて。それで、幼い頃からお互いのことを知っていた男性(夫)にFacebook経由で自分から連絡をしたんだと思います。
迷いなく、自分を受け止めてくれた。パートナーの圧倒的な安心感
―パートナーの方は幼稚園からの幼馴染なんですよね。
はい。幼稚園から小学校1年生まで近所に住んでいて、その後は親同士が年賀状のやりとりをしていたので、年に一回近況を知る程度でした。自分ができなかったことを成し遂げてもいたので、どうしているのか気にはなっていたんです。
自分から連絡をしたのに、いざ会おうとすると怖くなって断ってしまったときもあって。それでも誘ってくれたので会ってみたら、古くからの縁があるからか、「圧倒的な安心感」があった。
その後、彼が結婚を前提に交際を申し出てくれて、そのときに、早発閉経のことも伝えました。そしたら「子どもがほしくてゆり子ちゃんと付き合いたいわけじゃないから」と迷いなくはっきりと言ってくれて。
ちゃんと言わなくちゃと思ってはいたけれど受け入れてもらえるか不安もあったので、本当に嬉しかったです。
─子どもの有無にかかわらず、ゆり子さんとの将来を考えてくれる方と出会い直したんですね。ご結婚後、心境に変化はありましたか?
夫が自分を受け入れてくれたことで、大きな安心感がありますね。何事も基本は私の意思を尊重してくれるスタンスの夫は、子どもについてもあれこれ言及することはなくて。
というか、子どもに対する意思があまりなくて、「なんで子どもほしいと思わないの?」と聞いても、「わからない」といった感じ。おかげでプレッシャーや罪悪感を抱くことはないですね。
取材・文 / 徳 瑠里香、写真 / 本人提供、協力 / 中山 萌
結婚と早発閉経であることを公表して以降、SNSやメディアで積極的に自分の体に目を向けることの大切さを発信しているゆり子さん。
現在、ご自身の感じていることを社会により広く伝えるために映画の製作にも取り組んでいます。続く<後編>では、公表を決意した背景にある想い、映画を通じて伝えたいメッセージに迫ります。
\お知らせ/
千種さんが企画・プロデュースする長編映画の製作に向けた、クラウドファンディングがスタート!
26歳の時に早発閉経と診断された経験から、婦人科受診の大切さを伝えるために、千種さんが発起人として製作される長編映画『わたしかもしれない(仮)』。
8月31日〜10月14日までクラウドファンディングが実施されます。クラウドファンディングでは、若者に試写会参加チケットをプレゼントできるリターンの提供も。
camp-fire.jp/projects/view/693334
脚本・監督は野本梢、エグゼクティブプロデューサーに稲村久美子。11月から撮影開始。
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