数多くの企業の「働き方改革」を成功に導いてきたコンサルティング会社で働く新井セラさん。2023年に2人目のお子さんを出産し、育休中のタイミングでお話をうかがいました。
セラさんが、自分が働くイメージを思い描き始めた頃から決めていたのは、生涯働き続けること。自身は「子どもを持たない」と決意し、一方では子育てをしながら働くことが不自由な社会を変えたい、と思い続けてきました。
そんな念願叶って始めた仕事で、仲間とともに世の中に働きかけるうち、セラさんは、自らも子どもを望むように。その心の変化や出産までの道のりを振り返ってくださいました。
新井 セラ/Sarah Arai
株式会社ワーク・ライフバランス コンサルタント
労働時間を削減して業績をあげる働き方改革コンサルティングの仕事をする一方、二度の流産と不妊治療を経て二児の母に。結婚当初は夫婦とも子どものいない人生を予定していたが、働き方の社会課題解決の仕事をする中で「子どものいる人生」へのイメージががらりと変わり、夫は第一子の際には1ヶ月、第二子の際には3ヶ月の育児休業を取得。現在は夫婦で育児と仕事の両立に日々奮闘している。
プロフィール詳細はこちら
思い描いていたのは、子どもは持たない人生
目に映る「子育ての大変さ」
ー現在では2人の子どもを産み育てていますが、「元々は子どもを持たないつもりだった」のだそうですね。それはなぜですか。
私の母が、「女性であっても自分の食い扶持を自分で稼ぎ続けられるのってとても大切よ」とよく話してくれる人でした。なので、自然と働き続ける人生を思い描いていました。一方で、この日本で子育てをするのは大変すぎるということも感じていました。
なぜそう感じていたのかを思い返してみると、私は、両親に人生相談をしにくる人が多い家で育ったのですが、子どもを連れて悩みを抱えて訪ねて来る女性が多く、そこにパートナーは不在。私には、父親が母親に負担を押し付け、家族を苦しめているように見えていました。
でも大学生の頃に、ふとした出会いで今勤めている会社の社長・小室の「結果を出して定時に帰る時間術」という本を読んで、実は母親だけでなく父親も苦しんでいたこと、みんなが「働き方」という社会課題の被害者だったのだと気づきました。
だから、働き方さえ変われば、大人も子どもも、みんなハッピーな社会にできるはず。そのために「日本の働き方を変える人になりたい」と思うようになりました。
とはいえ、そう思うようになってからも、やはり「子育ては大変すぎる、自分には無理」と感じていました。
子育てには「大変」と「幸せ」の両方があるはずと想像はできても、自分の場合は「大変」というイメージばかりが先行していましたし、周囲から時折じわりと感じる圧力のような、「女性は子どもを産むもの、あなたもいずれは子どもを産む人生を歩むのだ」という価値観に反発する気持ちもありました。
夫と結婚の話になったときにも、「子どものいない人生の予定でもいい?」と確認した上で、同じ気持ちで結婚したほどでした。
私は「日本の働き方を変える人」になる
ー大学生の頃に、現在の勤務先の社長の書籍を読み、その考え方に出会ったということは、新卒からそちらで働いてきたのですか。
実は3社目なんです。 大学生の時に社長の本を読んだ瞬間に「雇ってください!」と直談判をしたのですが、当時も今も新卒採用をしていないので、その時にはチャンスは得られませんでした。
また、当時は病気だった母の看病で地元の群馬県に戻り、勉強しながらアルバイトをしていたタイミングだったので、「日本の働き方を変える人になるためには?」と模索をしながら、アルバイト先のビジネスホテルに最初は就職しました。
まずは今いる自分の職場で取り組んでみようと、ホテルの働き方を変えることにチャレンジしたんです。
みんなに話を聞くと「有給を取れる職場にしたい」と。「なぜ今は有給を取れないのか?」を話し合い、3交代のシフト同士で助け合い、業務をカバーし合えるようにマニュアル化を進め、有給が取れる職場に変えていくことができました。
そんな中でも友達や会う人みんなに「働き方を変えたら日本は絶対良くなるから、私は日本の働き方を変える人になる」と言い続けていたら、次の職場から声がかかりました。
次の職場はサプライチェーン監査の仕事で、日本全国の工場、時には他の国も回って、労働時間・給与・安全などに関して法律や国際基準に抵触していないかの確認をする、という仕事でした。
働き方に関わるとはいえ、やっていることはいわば健康診断。日本企業の課題を毎日目にするうちに、私は健康診断だけじゃなく、働き方の治療がしたいのだ!という気持ちが強くなり、30歳の時に現職であるワーク・ライフバランス社に入社しました。
子どもを授かるまでの紆余曲折
「子どもは持たない宣言」からの気持ちの変化
ー現在の勤務先に入社した時には、すでに結婚していたのですか。
はい。結婚から3年経っていました。当時は、「私は出張も制約無しに行けるし、みんなの子育てのサポートをする側になるのだ」という思いを持って入社し、周りにも、気にせずに仕事を振ってほしいという気持ちで「私は子どもを持たない予定です」と伝えていました。
ー女性の転職には、子を持つ可能性があるかどうか、ということが良くも悪くもついてまわりますよね。「産休育休の可能性がある?」「あるならいつなんだ?」とお互いに気にしてしまうような……。
そうですよね。別に聞かれてないのに「気にされているんじゃないか」とこちらが心配したりもしちゃいますよね。今思うとそんな会社じゃないのに、それまでの経験から勝手に予防線を張っていたのを思い出します。
ー気合い十分で入社したと思いますが、憧れの会社に実際に入ってみてどうでしたか。
仕事面で生産性の高さや進め方は嬉しい想定通りでした。ただ、自分自身がそれまで時間に頼った働き方のくせがついてしまっていたので、全員残業ゼロ、有給休暇も全員100%取得、という環境で自分も成果を出せるようになるまでにはとても苦労しました。
子育てへの気持ちの変化という意味では、コロナ禍前には、社員の家族に接する機会もあり、子どもたちと触れ合っているうちに、自然と「そっちの人生もいいな」と感じるようになりました。
「子育てにおける大変さと幸せの天秤」があるとすると、もしかしたら少し「幸せ」の方が大きいんじゃないか、もちろん大変なんだろうけど、きっとそれをちょっと上回るぐらいにかわいい瞬間や嬉しい瞬間がたくさんあるのだろうな、と思うようになりました。
それまでは、大変さの情報ばかり入ってきていたのが、子育てにおける「幸せ」の情報も入ってくるようになったことが大きな変化でした。
他にも、子どもがいてもいなくても関係無く活躍している先輩たちを目にしていて、「働き方」において子育てをすることが何も不利になったりしない、何も諦めたりしなくて良いという安心感も大きかったと思います。
ー入社してから数年経って気持ちに変化が生じたのですね。子どもを持つ人生も選択肢に入ってから、パートナーにはどのように共有したのですか。
実は、最初は思いがけない妊娠と流産が先でした。妊娠がわかり、「うちに来てくれる運命なんだね」と夫婦で言っている間に、流産してしまったことが、自分でも驚くほど悲しくて。
お腹にいてくれたのは短い期間でしたが、子どもがいる生活を想像させてくれて、「我が子がいる人生にしたい」と夫婦共に覚悟を決めさせてくれ、子どもを望む気持ちにさせてくれました。
妊娠も出産も十人十色。「情報戦」だと思っていろいろ調べた
ー子どもが欲しいと思ってから、授かって出産するまでのことを教えてください。
その後、子どもを授かるまでには、1年かかりました。
妊娠してからは、眠気が強かったのですが、吐き気などはひどくなく、それまでと変わらずに出張にも行っていました。当時の私は、「妊婦でも普通に仕事をしたい」というのは、周りに気を使わせすぎてしまうのではないか、私のわがままなのではないかと悩むこともありました。
出産に向けては、夫には「絶対に育休を取ってね」と伝えていました。出産とその後の育児と仕事の両立に向けて、「これは情報戦なのでは?!」と感じて、徹底的に調べて外部のサポートも手配しましたし、義母にも頼らせてもらうつもりではいました。
でも、仕事柄、男女の家事育児時間の偏りが長期的に見て夫婦仲に影響することなどの情報も持っていたので、長期的な夫婦仲のためにも、一緒に家事育児ができる体制を作りたいと考えていました。
ー情報をしっかり集めて準備されたのですね。いよいよお子さんが産まれた時のことは、振り返っていかがですか。
こんなにも事前情報を大事にしておきたいタイプなのに、実は急遽帝王切開になって動揺した思い出が大きいです。
自分の中に帝王切開の情報が足りなくて、その前段階に試みた陣痛の誘発や促進の情報も持ち合わせていなかったので、今が順調なのかどうなのか、安心していいのか不安になった方がいいのかわからず……そのわからない状態が不安だったことを覚えています。
父親の育休の実体験。新生児期、1ヶ月を共にして
ー緊急の帝王切開を経ての出産は大変だったと思います。父親も1ヶ月育休をとるところから、子どものいる生活が始まったんですね。
はい。夫にはたくさん頼って大活躍してもらいましたが、それでも初めての新生児相手に夫婦だけでは人手は全然足りなくて、市のサポートや民間の産後ドゥーラ※さんもお願いしていました。おかずの作り置きや掃除や洗濯をしてもらったり、赤ちゃんのお世話をお任せして仮眠をとれたり、ありがたかったです。
夫の育休に本当に助かっていたので、夫が仕事に戻り、いざ毎日子どもと2人きりになってみると辛かったです。
ある日、 夕方4時から夜10時過ぎまで、何をやっても子どもが泣き止まない時があって。夫が帰宅するなり抱っこを代わって寝かしつけまでしてくれたときには、この人がいてくれて本当によかったと心底思ったし、育休のおかげで育児スキルを身につけてくれていた価値を感じました。
※産後ドゥーラ…産後の母親に寄り添い、乳児の世話、家事だけでなく、産褥期の母の心と体に寄り添うサポートを行う人。
ーセラさん自身は、どれくらい経ってから仕事復帰されたんですか。
当初は、産後9ヶ月になる頃に復帰の予定でした。でも、産後4ヶ月の頃に、「働きたい!」という気持ちが大きくなり、耐えられなくなってしまいました。
夫は帰りが遅く、子どもがかわいいとはいえ日々ワンオペ育児の負担が大きく、夫を怨めばいいのか、夫の会社を怨めばいいのか、誰を怨めばいいのか?!と苦しんでいました。
そこですぐに会社に相談し、最短で子どもを預けられた産後6ヶ月から、子育てには保育園の手を借りて少しずつ働き始めました。本格的に復帰ができたのは、産後11ヶ月の頃でした。
取材・文/小野 民、編集/青木 佑、写真/本人提供、協力/中山 萌
働き続けるという芯を持ちながら、社会や自分の心にしなやかに向き合い、自身の「子どもを持たない選択」が緩やかに変化していった過程を話してくれたセラさん。続く<後編>では、働きながらの不妊治療や、実際に子育てがスタートしてから現在に至る道のりをお話ししてくれます。
\あなたのSTORYを募集!/
UMU編集部では、不妊、産む、産まないにまつわるSTORYをシェアしてくれる方を募集しています。「お名前」と「ご自身のSTORYアウトライン」を添えてメールにてご連絡ください。編集部が個別取材させていただき、あなたのSTORYを紹介させていただくかもしれません!
メールを送る