夫の病気、不妊治療、母の死。悲しみと向き合い道を切り開く中で、自分が捉われていた価値観を定義しなおすー「もっと、自由であっていい」。<前編>

55歳になって、自分を縛っていた価値観からようやく本当に解放されて自由になりつつある、と語る大城京子さん。現在は研修講師やコーチとして活躍中ですが、20代から人生の局面に出会うたび、自分自身が捉われていた“世間の常識”の価値観に葛藤し、模索し、自分なりの答えを見つけてこられました。決して目をそらさずにその都度ご自身と向き合う姿勢に、女性として、人として、本当の強さと優しさの意味が見えてきます。

大城 京子 / Kyoko Oshiro  株式会社ベターパートナーシップ 代表取締役
1964年生まれ。新卒で大手航空会社の客室乗務員として入社。人材育成や組織マネジメントにも携わる。11年勤めるも、不妊治療のために退社。その後30代後半で研修講師/キャリアアドバイザーとして独立。米国CTI認定のコーチ資格を取得し、パーソナルコーチとしての活動や、組織やカップルへのコーチングを始める。これまでに女性社員向け研修10,000人以上実施。また、母の急逝に伴い、遺族の心のケアの重要性を痛感し、グリーフ(悲嘆)ケアの学習を開始。自身の不妊治療の経験から、治療後の心のケア活動も模索中。
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結婚直前、夫が闘病生活に

  一歩ずつキャリアを積み上げた20代

― キャビンアテンダント(以下CA)としてキャリアのスタートを切られましたね。まずは、そのあたりのお話からお聞かせください。新卒でのCA採用は当時、女性には憧れですよね?

私は静岡県出身で、大学は東京でした。卒業後も東京で自立して暮らしていくために、当時倍率の高かったCAに挑戦しました。採用されるためにやれるべきことはやったつもりだったので、決まった時は嬉しかったですね。

でも1年目は失敗の連続で、本当に逃げ出したくなりました。それでも3年目になるとようやく慣れてきて、やればやるだけ返ってくる手ごたえも感じられるようになり、5年目には新人教育も任されるようになりました。

その後グループスーパーバイザーに就き、人を育てる側として多くの研修も担当しました。

― 女性が多い職場だったと思いますが、結婚出産をしてCAを続ける人はいましたか?

いえ、当時は、結婚退職または、妊娠退職が多かったですね。毎月毎月退職者が発表されて、退職者がゼロの月はなかったと思います。
たまに産休を取って復帰する人がいましたが、そういう場合は周囲のサポートが必須のようでした。泊まりの仕事もありますからね。

私自身は仕事を全うすることに集中していたので、結婚や家族像をまだ具体的に描いてはいませんでした。

 

  夫との出会い、そしてまさかの展開

仕事を始めて数年した26歳の時、夫とは合コンで出会いました(笑)。そして私が28歳、彼が29歳の時に結婚を決めます。

でも実は、式場を予約した後、彼にある病気が発覚し、彼は3ヶ月間入院闘病生活をすることになったんです。

友人から結婚をやめた方がいいのでは?という声もありましたが、当時の私は「病人を見捨てるような冷たい人にはなりたくない!」という思いで彼に寄り添いました。この時まだ未熟だった私は、彼のため、というよりは自分のためにその決断をしていたように思います。

そして彼が治療を終え、私が29歳の時に結婚しました。

― でもその後、ご主人の病気が再発したんですね?

はい。結婚後3年経ち、私が31歳で彼が33歳、そろそろ子どもを産んで仕事も両立しながら続けていきたい、と考えていた矢先のことでした。

それまでは夫の体調の経過観察期間でもありましたし、夫も仕事が認められた頃にと思っていたようで、子作りについては時機を待っていて、さあそろそろ、と話していた時です。

 


仕事と両立できなかった、不妊治療

  妊娠することが私の「仕事」に感じる日々

― 新婚早々、なかなかヘビーな出来事ですね…。そこから、不妊治療を始めることになるプロセスはどういったものでしたか?

はい。夫の病気の治療により彼の肉体が受ける影響を踏まえると、治療開始前に精子凍結が必要だということがわかりました。そして治療開始までの期間にまずは自然に妊娠できるよう、私のコンディションを整えるための婦人科通院も始まりました。

正直なところ、夫の手術までの期限がある中での妊活は、やはり良い思い出とは言えませんでしたし、結果も伴いませんでした。

そして夫の手術後は、不妊治療は私一人の仕事となりました。凍結してある精子を使った体外受精が始まったのです。

― なるほど。当時、お二人とも「子どもが欲しい」という明確な意思をお持ちでしたか?

夫は自分の病気によって、子作りへの焦りが強くなっていったという印象でした。

なので、焦りからくる彼の苛立ちがプレッシャーとして私にのしかかり、妊娠することは私が成し得なければならない仕事のようで、夫婦関係も重くなっていきました。夫も自分の病気のことで、精一杯だったと思います。

そして「本当に私は子どもが欲しいのか、結婚したら子どもを産み育てるものだ、という世間の価値観が自分に植え付けられているだけなんじゃないか」と、葛藤するようになりました。

 

  不妊治療と仕事の狭間で下した、決断

― その葛藤の中で目の前の治療に向き合うことは、お辛かったですよね…。当時も、スーパーバイザー職のCAとしてフルタイムで働いておられたかと思いますが、不妊治療と仕事はどのように両立していましたか?

実は、会社に不妊治療をするので休みを取らせて欲しいと願い出ました。ですが当時、その理由で休みを取った事例はなく、会社側も最初は対応に困ったようでした(現在は、とても理解が進んでいるようです)。

不妊治療のために事前に休暇申請をするのですが、治療スケジュールはホルモン状態によって変動します。なので、申請した日程と、必ずしもタイミングがばっちりと合うわけではなく、多少のズレは出てきてしまうのです。こればかりは自分でコントロールすることはできません。

だから業務のスケジュール調整に関してはかなり迷惑をかけることになりました。CAのスケジュールは、1か月毎にきっちり人員計画され管理されているので、急な休みは、多くの人に影響を与えてしまうのです。

その結果、自分が必要とされる人材ではないと感じることが増え、深く傷つくこともありました。

当時の私は、それまで会社に貢献している自負も仕事への自信もあったので、休むことで必要とされない存在になってしまうのなら辞める!、とやや短気を起こし、11年勤めた会社を辞めることを決意してしまいました。
33歳の時でした。

― なるほど…。ご自身の中で、辞めざるを得ないと思ったのですね。

周囲から「彼女は本当に子どもが欲しいの?」という声が耳に入ってきて。それは、当時の私には、本当に欲しいなら仕事を辞めて治療に専念するべきだ、という意味に聞こえてしまったのです。

「仕事も子どもも、両方望んではいけないのだろうか?」と一抹の疑問も湧きましたが、相談できる相手はいませんでした。

というか、当時は誰かに相談するということさえ、頭に浮かびませんでした。これは“私の問題”なのだから、私だけで考えること、と独りで背負ってしまったのだと思います。

 

  当時の治療環境が、心を追い詰める

― 会社を辞め治療に専念することになり、その時の生活、ご夫婦の関係、ご自身の心境の変化などはありましたか?

正直、この時期も、私は独りで不妊治療と戦っていた気がします。当時の病院は一日がかりだから大変でした。それに不妊治療患者への配慮もまだ整っていませんでした。

ある時、散々待ってやっと診察台の上で待っていると、カーテンの向こうで若い医師と看護師さんが、楽しそうに飲み会の話をしているのが聞こえてきたことがあります。
その時は、私の尊厳は深く傷つき、とても惨めな気持ちになったことを覚えていますね。

またある時の採卵では、突然採卵室に医学生が5、6人入ってきた時もありました。事前に知らされていなかったので、麻酔で薄れていく意識の中で、なんとも言えない恥ずかしさと屈辱感を覚えたことを思い出します。

診察はたまに、産科に行くこともありました。周りにはお腹の大きな妊婦さんばかり。それに比べて私は…、って。
その頃は、いつまでたっても合格通知がもらえない受験生みたいな気持ちでした。みんな合格してここにいるのに、なんで私はもらえないんだろう。何も悪いことはしてないのに…、こんなにがんばっているのにって。

あの時、病室から見えた空の色は今でも覚えています。なんとも言葉にし難い気持ちで、胸がいっぱいになりました。砂を噛むような悲しさ、わびしさ、みじめさ、そういう気持ちで青い空を見つめていました。

治療に専念しているつもりでも結果が伴わない。ましてやいつ結果が出るのかも見えない。強すぎる表現かもしれませんが、あの時私は自分のことを、“浪費する粗大ごみ”のように思っていました。

ちょっとノイローゼ気味だったとも思います。TVから聞こえる子どもの声を聞くのもつらかったし、子どものいる友達と話すこともつらかった。

どんなに頑張っても手に入らないものがあるんだと、感じ始めていました。とても孤独で、いつの間にか、本当に疲れ果てていたのだと思います。

 

  不妊治療の終結

― 本当にお辛かったですね…。そこまで心身が疲弊してしまった不妊治療のその後と、終結を決意するまでのことをお聞かせください。

はい。会社を辞めて治療に専念したのは33歳から35歳の3年間でしたが、徐々に、体も心も限界がきているのを感じていました。もういい、もうこれ以上続けられない、となってしまった。

実は最初の治療周期の時に腹水がたまって、卵を子宮に戻す当日に激痛で入院したことがありました。その後の治療では、採卵の時の麻酔のかかり具合によっては、強い痛みを感じた時もありましたし、腕やお尻に打つ筋肉注射の痛みもあり、そのつらい記憶が残っていて段々ともう限界、という心境になったんです。

だから、何度目かの移植を控えたある日、次がうまくいかなかったら終わりにしたい、と夫に伝え、納得してもらいました。

実際、やめることを決めたら、どこかホッとした自分がいました。ああもう、あんな辛い思いをしなくていいんだ、と。

多分、全てが中途半端で、出口も灯もないトンネルを歩き続けるのに、疲れてしまったのだと思います。もう白黒つけたい、って。

取材・文 / タカセ ニナ、写真 / 内田 英恵

 


楽しいはずの新婚生活に降りかかった、ご主人の病気。そこから、やむを得ず始めた不妊治療。大好きなCAの仕事を手放し、精神的・肉体的に限界を迎えつつあった不妊治療にも「終結」の決断をした大城京子さん。その前半生は、過酷と言っても過言ではない出来事に翻弄されましたが、続く<後編>では、彼女がその後見つけた「新しい扉」と、導かれるように取り組むことになる「新たな活動」について語っていただきます。経験と年月を経てたどりついた心境、そして、そんな彼女にご主人がかけた「労いの言葉」、とはー。

<後編>はこちら

 


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