夫の病気、不妊治療、母の死。悲しみと向き合い道を切り開く中で、自分が捉われていた価値観を定義しなおすー「もっと、自由であっていい」。<後編>

ご主人の病気による波乱の結婚生活、そして大好きな仕事を手放し取り組んだ、不妊治療。<前編>では、治療の終結を決意するまでの苦しかった胸の内を、語っていただきました。この<後編>では、迷いながらもひたむきに新たな扉を探し得たもの、変化する夫婦関係について、そして、突然の母の死がもたらしたものなど、30代後半から現在に至るまでの心境や環境の変化を、お聞きしています。深い悲しみを乗り越えた彼女が今、見ているものとは。そして紆余曲折の夫婦関係を経て、ご主人が、彼女に伝えた言葉とはー。

大城 京子 / Kyoko Oshiro  株式会社ベターパートナーシップ 代表取締役
1964年生まれ。新卒で大手航空会社の客室乗務員として入社。人材育成や組織マネジメントにも携わる。11年勤めるも、不妊治療のために退社。その後30代後半で研修講師/キャリアアドバイザーとして独立。米国CTI認定のコーチ資格を取得し、パーソナルコーチとしての活動や、組織やカップルへのコーチングを始める。これまでに女性社員向け研修10,000人以上実施。また、母の急逝に伴い、遺族の心のケアの重要性を痛感し、グリーフ(悲嘆)ケアの学習を開始。自身の不妊治療の経験から、治療後の心のケア活動も模索中。
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30代後半、新しい扉が開きだす

  もう一度、自分にできることを見つけたい

― 「不妊治療の終結」を決めたあと、大城さんの生活はどのように変化しましたか?

知り合いが仕事を紹介してくれて、まずは郵便局でアルバイトを始めました。その経験もまたCA時代とは全く違う出会いや発見があって、貴重な経験でした。

やはり、なにかしら「働く」ということはしたかったんですよね。アルバイトを続けながら、これから一体自分に何ができるのだろう、こんな私にできることはあるのだろうか、と問い続けていました。
いつ扉は開くんだろう、どこに扉はあるんだろう、って。モヤモヤしたものを抱えながら、壁の前でウロウロしていました。

不妊治療が叶わず、私のアイデンティティは崩壊していましたから、一体私は何がしたいのか?何ができるというのか?ということに対峙し、もがき苦しんだ時間でした。暗黒の時代と呼んでます(笑)。

そんな時に夫がキャリアアドバイザーの方を紹介してくれて、それがご縁で現在の仕事をするきっかけになりました。37〜8歳の時です。

そして、コーチングの勉強の延長で、リーダーシッププログラムを受講。
そこから人生が大きく、彩りを持って動き出しました。仕事や出会いが広がり、やっと扉が開いたな、と実感できた時です。

 

  夫婦関係の変化

そんな流れもあり、忙しく働く中で40代になり、私が経済的にも自立し始め、新たな挑戦を続けることで夫婦関係も変化しました。
同時に、夫に対して今まで伝えられていなかった色々な思いが募っていき、この先も一緒にいるためには、夫にももっと私の気持ちをわかって欲しい、と願う気持ちが強くなっていきました。

そして、私としては、独りぽっちで背負っていたと思っていた不妊治療の苦しみを、本当は夫にわかってもらいたかったんだ、と感じるようになります。数年を経て、めぐりめぐって、自分の中に小さいけど固い悲しみが残っていることに、気づいたんですね。

この頃には、夫婦関係の再構築が必要だと思い、夫婦のワークショップに参加したり、夫にもコミュニケーションのセミナーに行くよう働きかけるようになります。

 

  子どもがいないことで感じた「分断」

― 不妊治療の終結から、新たなキャリアを積み始める中で、夫婦関係にも新しい扉が開き始めたんですね。ちなみに、一度終結を選んだとはいえ、もし授かれていたらとか、まだ間に合うんじゃないかといった、心の揺れ・揺り戻しなどはありませんでしたか?

子どもを授からなかった事実に対して、もちろん痛みはありました。
でも同時に、心理学の勉強などを通して、渦中の自分が苦しみや悲しみをもっと理解して欲しかったんだということが、パートナーとの関係性の不満として残っていたことも、理解できました。

時間はかかりましたが、それを夫にもきちんと伝え、「大変だったよね」と夫が言ってくれたことで、そのしこりが成仏した気がします。そこが、自分にとってのこのテーマの大きな区切りとなりましたね。

でも、仕事の方では、子どもがいないことが罪悪感のように感じることがありました。
女性社員向けのキャリア研修でクローズアップされるのは、どうしても仕事と育児の両立に励む女性がメインになりがちです。

その属性には入っていない私は、そういう女性を支援する資格がないのではないか、と苦悩しました。研修の参加者の方々は、きっと仕事と育児の両立支援を聞きたいのであって、子どものいない私が何を言っても、「どうせわかってもらえませんよね」と分断されてしまうのではないか、という恐れがあったんでしょうね。

それは刷り込まれた世間の価値観のようにも思えて、かたや、私自身もそれに縛られていて、とても不自由でした。本当は、みんな違って、みんないい。はずだよねって。

でも今、そこからも経験を重ねて、さらにいろいろな勉強を通して、ようやく自分自身がもっと自由になっていいと思えていることが嬉しいです。
この「自由になりつつある」という感覚が、これからも続いていくんだと思います。

 


「グリーフケア」という活動

  抱えきれなかった、母の死

― 大城さんの人生における「産む・産まない、子どもがいる・いない」にまつわる物語が、十数年をへて、一つの結末を迎えた感覚でしょうか。さてここからは、少し視点を変えて、大城さんのもうひとつの活動である「グリーフケア」についても聞かせてください。

わかりました。グリーフケアは、グリーフ(悲嘆・喪失)のさなかにある方を支え、寄り添い癒すことですが、それを学び始めた理由は、母の孤立死です。

母は静岡で一人暮らしをしていたのですが、突然亡くなってしまいました。2017年のことです。
前日までとても元気で、留守電にメッセージも入っていたのに、お風呂場でヒートショックで亡くなっていました。

もう二度と永遠に会えないのかと思うと、母にもっと優しくすればよかった、ありがとうもさよならも言えなかった、という大きな後悔の波に飲み込まれてしまい、胸が締め付けられて、どうしようもないくらい苦しくて苦しくて。
一人で抱えられないものってこういうものか、って。

亡くなって最初の半年が本当に苦しかったですね。私おかしくなっちゃったかな、というくらい、家で声をあげて泣いていました。「おかあちゃん、おかあちゃん」って…。

なぜか、お母さんではなくて、おかあちゃん、なんです。本当に幼児になったような感じです。
夫や周囲の人たちにたくさん話を聞いてもらいながら、悲嘆にくれていました。

その時に、助けになる本(*注1)に出会えたことも大きな救いでした。
悲しみには段階があって、私は今このプロセスにいるんだな、と悲しみを客観的に知ることができたことで、段々と立て直しができたように思います。

この経験から、親が子より先に亡くなるのは自然の摂理なのに、こんなに辛く悲しい、じゃあ、ましてや伴侶や子どもを亡くした方、事件や事故、災害で亡くされた方の苦しみはいかばかりのものだろう、と思いました。
そして、その悲しみを少しでも分かち持たせてもらえないだろうか、と思いグリーフケアを学び始めたんです。

この流れは全部、母が連れてきてくれた気がします。親は亡くなってもなお、身をもって、子どもに教えてくれるものがあるんですね。

(*注1) 「家族を亡くしたあなたに 死別の悲しみを癒すアドバイスブック/キャサリン・M・サンダーズ」「永遠の別れ―悲しみを癒す智恵の書/エリザベス・キューブラー・ロス」

 

  「自立」の本当の意味を知る

母は70歳まで働いて、女性の自立を背中で見せてくれた人でした。だから私は、経済的にも精神的にも自分で立てている人が「自立」している人だと思っていました。

でも母の死を抱え切れない時、私は実にいろんな人に話を聴いてもらいました。コーチングの仲間や、時には初めて会った人にも。
そうやって苦しみや悲しみを人に分かち持ってもらいながら自分で立てていることが、本当の「自立」なのだということを、頭ではなく、お腹のあたりで実感することができたのです。

だって生きている以上、グリーフはあるんです。「グリーフのない人生とは、それは誰も愛さない、誰からも愛されない人生」だと、グリーフケアの先生から教えていただきました。

 

  不妊治療は「曖昧な喪失」

― 大城さんの人生に、新たな学びをもたらしてくれた存在でもあるんですね。そんなグリーフケアという方法で、不妊治療中や治療終結後の当事者に対しても、なんらかのサポートができると思いますか?

グリーフケアの観点から見ると、不妊治療は「曖昧な喪失」と言われるもので、授かるかどうかわからない中での喪失体験です。

それまでは、頑張れば結果が出るという世界で生きてきたのに、不妊治療の結果は自分の力の及ばないところにあります。
そしてそれを受け入れるしかない。受け入れて、どう生きていくか。

個々のグリーフに大小はなくて、グリーフのマウンティングもしなくてもいい。私の悲しみなんて、他の人に比べたら小さいんだから、我慢しなきゃいけない、言ってはいけない、ではなくて、自分のグリーフをちゃんと悲しんでいいのだ、と思うようになりました。

その逆もしかりです。「あなたはまだ幸せよ、他にもっと辛い思いをしている人がいるんだから」などと悲しみ比べをして、人を傷つけない。
自分のグリーフを、言い方はすこし変かもしれませんが、もっと大事にしていいんじゃないかと思うんです。

この観点において、これからは、不妊治療をがんばったけど授からなかった人達へのケアにも、関われたらと思っています。

私自身がまさに経験したように、心の奥底に埋められている思いがちゃんと成仏できるような、抑えないでいられる場を作れたらな、と思います。

 


子どもがいてもいなくても、道は自分で作っていける

  後悔のない生き方をしたい

― ありがとうございました。最後に、不妊治療中の苦しかった時期の自分に今、なにか声をかけるとしたら、なんと言ってあげたいですか?

今となって思えば、私の不妊治療は、ワンオペ育児ならぬ、ワンオペ不妊治療だった気がしていて。私自身が、私たち夫婦の治療ではなく、私の治療、と捉えていました。

それが”私たち夫婦”の経験になるには、その後、長い年月が必要でした。
だから、当時の自分には、こんな言葉をかけてあげたいです。

「その時は、ひとりぽっちでがんばった、辛くて、ざらざらした、不毛にも思える不妊治療も、その後の人生を豊かにしてくれる経験になるからね。だから、心配しないでいいよ、絶望はやってこないよ。必ずちゃんと自分らしい幸せを作っていくよ」、と。

子どもが授からなかったことを悔やむ気持ちは、今はもうないです。といいますか、どんな道を歩むにしろ、それぞれに悩みはあるし、時に「あの時、会社を辞めなければどうなっていたかな」といったタラレバを妄想するわけです。

でも、人はやっぱり自分の選んだ道を、自分で作っていくんだと思うんです。私は、そうやって創ってきたのだと思えます。

私、後悔するのが一番いやなんです。だったら、今、この状況で自分に何ができるかを考えたい。だから母の死で感じた後悔は、本当に本当に辛かった。永遠に取り返しがつかないから。

でも生きている間は、取り返しがつく。可能性があるから。
人生はまだ続きますからね、これからの集大成に向かって歩き緩やかに下っていけたらな、って。

実は、このインタビューを受ける当日、夫からこんなLINEが来ました。

「様々な選択肢がある中で、本当に不妊治療してくれてありがとう。その時の気持ちに感謝しております。それを当時、本当に表現できていたかどうか。もし、戻れるならば、しっかりと表現したいと思っています。ありがとう。京子。」

これを読んで、本当に私が望む形で彼と心が通じ合ったんだな、報われたんだなと、泣きました。

そして、今回のインタビューをもって、私の“心の不妊治療”は、本当に終結を迎えたんだということも感じました。

一連の経験を経た私は今、これからの人生の方がもっと気楽に楽しめるんだろうな、と予感しています。
亡き母も、先日夢に出てきて「京子ちゃん、もっと自由になっていいのよ」と、背中を押してくれましたしね。

取材・文 / タカセ ニナ、写真 / 内田 英恵

 


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