卵子提供を受け、二児を出産。望むのは、「産む」ことだけではなく「育てる」ことにも関心が向けられ、手が差し伸べられる社会。

なかさとみさんは不妊治療の末、第三者から卵子提供を受け、二人のお子さんを出産されました。

日本ではこれまで、卵子提供や精子提供による出産について、オープンに語られることはあまりありませんでした。しかし2020年12月、「第三者から卵子や精子の提供を受けて生まれた子の親子関係」を明確にした民法特例法が成立し、卵子提供や精子提供による出産を日本社会がどう受け入れていくのか、ようやく、実質的な議論が始まろうとしています。

卵子提供については様々な意見がありますが、今回のインタビューでは、実際になかさんが卵子提供にいたった背景や、妊娠・出産・育児を通し何を感じたかに耳を澄ませ、改めて、「親になる」という選択肢について考えてみたいと思います。

なか さとみ/Satomi Naka 19歳より音楽活動を始め、38歳から吉本芸人として活動を開始。43歳から不妊治療をスタートし、体外受精を4回行うもすべて陰性。その後卵子提供を受け、45歳で第一子、48歳で第二子を出産。2019年1月より当事者による自助グループを立ち上げ、活動を開始。

 


結婚・離婚・再婚・病気を経て、40代で不妊治療を開始

  43歳でも、妊娠の最終列車に乗れると思っていた

―なかさんは、40代に入ってから不妊治療に取り組まれたそうですね。不妊治療から卵子提供に至ったいきさつについてお聞かせください。

今の夫と再婚したのが39歳で、不妊治療にトライしたのは43歳になってからでした。妊活に取り組むにはかなり遅い年齢ですよね。子どもを持つことへの意識が低かったのは、父親がいわゆる毒親だったことが影響しています。カッとなるとぶつわ蹴るわ、言葉の暴力は日常茶飯事で、子どものころはずっと押さえつけられながら育ちました。

ところが19歳になって、自分の稼いだお金で音楽活動するようになってから、それまで抑え込んでいた私のアイデンティティが大爆発したんです。その当時の私は、父の影響で男性との適切なかかわり方も、恋愛感情も分からないものだから、肩で風を切って「結婚なんかしないし、子どもなんて絶対産まないから!」って息巻いていましたね。

そこから、20代になって結婚と離婚を経験し、30代はスピリチュアルな世界や哲学にのめりこみ、歌とお芝居に明け暮れるなか39歳で今の夫と出会い、再婚しました。

その後も子どもには縁がなかったのですが、42歳で子宮頸部に子宮頸がんになる一歩手前の病変が見つかり、頸部を一部切除しなくてはなりませんでした。

このときになって初めて、子どもを産まないまま子宮を失うことの怖さを、自分事としてリアルに感じるようになったんです。

―病気をきっかけに、意識が大きく変わったのですね。

はい。もしこのまま放置して浸潤がんに進んでいけば、治療のため子宮を全摘出するしかないし、最悪死ぬかもしれない。そう感じたとき、頭を殴られたような衝撃を受けました。「なんて自分は傲慢だったんだろう」って。タイムマシーンがあったら、「結婚もしないし子どもも産まない!」と言っていた20代の自分を叱ってやりたい。もっとちゃんと、真剣に考えてって。若さゆえに傲慢だった自分を激しく後悔しました。 

それからは何としても子どもが欲しいと思うようになり、夫の後押しもあって、43歳からようやく不妊治療を始めました。実は、不妊治療を始めた当初、「43歳でも治療すればまだ妊娠への最終列車に乗れる」と思っていました。ところが、ネットで調べてみると、43歳の妊娠率のあまりの低さに驚きました。

いざ治療を始めると、良好な卵子が採れないし、採れたとしても受精卵にならない。同じ年齢の平均の治療成績と比べても明らかに成績が悪く、結局4回体外受精して4回とも着床しませんでした。

 


卵子提供を受けることを決断

  着床さえすればいいのか?と自問自答。行きついた答えは、「『産みたい』よりも『子育てがしたい』」

―治療効果が出ないままある程度の年齢に達すると、そのまま不妊治療を続けることを悩み、なかには次第に夫婦二人の生活に意識を向ける方もいらっしゃいます。なかさんは、なぜ卵子提供を受けることを選択されたのでしょう?

そうですね、実は体外受精を繰り返すなかで、自分のなかでいつしか違和感を覚えるようになっていたんです。「自分は着床することがゴールになっていないか? 着床さえすればいいのか?」って。

もちろん、子どもを産みたいという気持ちはずっとありました。でも、それよりも強かったのが「子育てがしたい」という気持ちでした。

不妊治療についてネットや本でいろいろ調べているうち、自然と特別養子縁組や卵子提供についても、選択肢の一つとして考えるようになっていました。

「じゃあ、このまま自分の卵子を使って治療を続けた場合と、卵子提供を選択した場合、どっちがより子どもを持てる可能性が高い?」と考えたとき、おのずと卵子提供を受けようと考えるようになったんです。特別養子縁組は年齢制限が厳しいですし、卵子提供であれば夫の遺伝子は残せます。

そう思ったのが、2015年の7月で、9月ごろから具体的に卵子提供のエージェントを探し始めました。12月には不妊治療の主治医から養子縁組か卵子提供を検討することを勧められたこともあって、翌年1月にはエージェントを決め、そこにお願いすることにしました。運よく、すぐに採卵してもらえる東南アジアのドナーさんにめぐり会えたので、卵子提供を受け、夫の精子と体外受精を行いました。翌年の5月にマレーシアで受精卵の移植をし、17年、私が45歳のときに長男が生まれました。

―卵子提供を決めてからは、展開がとてもスムーズでしたね。実際に、卵子提供を受けると決断したときはどんなお気持ちでしたか?

実際に卵子提供を決断したときは、清水の舞台から飛び降りるような覚悟でした。決めたあとも、とにかく不安で「どんな子が生まれてくるんだろう」、「しっかりした母親になれるだろうか」と葛藤の連続でしたね。いざ妊娠してお腹が大きくなっても、生まれてくる子を愛せるか自信が持てなくて、「こんなママでごめんね」と自己嫌悪に陥ることもしょっちゅうでした。

 

  新しい命の誕生が、一瞬でモヤモヤを吹き飛ばした

―卵子提供を受けたかどうかに関わらず、初めての妊娠だと、多くの妊婦さんが同じように不安な気持ちになるかもしれませんね。

そうですよね。でもなかでも一番きつかったのが、同い年の大親友が妊娠したという報告を聞いたときです。それまで彼女からは不妊治療や卵子提供の相談をたくさん受けていましたが、結局彼女は一切不妊治療することなく、自然妊娠したんです。本来ならすごく喜ばしいことなのに、「自分はこんなに苦労して大金かけて卵子提供を受けて、やっとの思いで妊娠したのに!」と思うと、もう心が真っ黒になってしまって。

だから妊娠中は、彼女から会おうと言われても避けるようになっていました。加えて、つわりはひどいし、妊娠糖尿病で寝たきりになるわで、最悪のマタニティライフでした。

―その後、お気持ちの変化はありましたか?

それが、私は計画無痛分娩だったので38週で入院し、2日目に長男が生まれたのですが、生まれた瞬間、抱えていたモヤモヤがすべて吹き飛んだんです!

私が大親友に抱えた嫉妬心を、新しい命の誕生が一瞬で吹き飛ばしてくれました。「何をいちいち嫉妬していたんだろう」って。もう、生まれてきてくれたことに感謝しかなく、恥ずかしながら大学病院の分娩台で大号泣してしまいました。

「血が繋がっているとかいないとかは問題ではなく、この世の命はすべて愛されるために生まれてくる」、「愛されない命は一つもない」。生まれたばかりの息子にそんなことを教わり、心から子どもを産んでよかったと思いました。

 


コミュニケーションの積み重ねで、自然と親子の姿になっていった

  「真実告知」は2歳から。普段の会話のなかで少しずつ伝えられたら

―待望の赤ちゃんとの生活は、いかがでしたか?

毎日が必死でしたが、今振り返ると、息子が生まれて半年くらいは、卵子を提供してくれたドナーさんのことにとてもこだわっていた気がします。

何かにつけて夫に、「きっとドナーさんがこんな性格だから、この子はこうなのかな」と言っていましたね。夫はまともに受け止めず、「俺はそうは思わないけどな」と、上手に聞き流していましたけど。

ただ半年も過ぎると、ますます育児が大変になって、良くも悪くも物事を深く考える時間がなくなっていきました。息子が1歳になるころには自然にドナーさんのことが頭から抜け落ち、4歳になった今となっては、よほどのことがない限りドナーさんに思いを馳せることはありません。息子もおどけて私の口癖をマネてみたり、毎日「ママ大好き」と言ってくれて。こうしたコミュニケーションが積み重なるうち、自然と親子の姿になっていったように思います。

―その後、なかさんは凍結した余剰胚を移植して、再び同じドナーさんの卵子で二人目をご出産されました。現在、上のお子さんが4歳、下のお子さんが1歳ですが、なかさんは最初からお子さんたちが2歳のときに、子どもたちが生まれた経緯について「真実告知」をすると決めていらっしゃったそうですね。なぜ、2歳から伝えようと?

卵子提供や精子提供が進むアメリカでは、思春期での告知はアイデンティティの崩壊を招くため、2歳からの告知を推奨しています。なるべく小さいうちから真実告知をしたほうが、子どもも自然に状況を受け止められるんですね。ですから、私も2歳から少しずつ伝えていこうと、産む前から決めていました。

では実際に我が家ではどう伝えているかというと、まず誕生日に、絵本を読むようにしています。卵子提供で生まれた子が、自分の出自を理解するために作られた、日本人作家さんによる絵本です。その本には、「パパやママがずっと子どもが欲しくて頑張っていたけど、ある日卵をプレゼントしてくれる人が現れて…」といったことが分かりやすく書かれていて、年に1回、寝る前に家族みんなが揃ったところで読み聞かせをしています。

今上が4歳なので、その内容について質問をしてくることはまだないですが、興味を持つようになったら、その子が理解できる範囲でちゃんと答えようと思っています。ただ、子どもの興味や関心の度合いに応じて伝えていくことが大事だと思っているので、むりに急いで伝えていくことはしないつもりです。

―仮に、ご長男が出自についてそれほど関心を示さなかったとして、何歳ぐらいまでにはきちんと伝えようと考えていらっしゃいますか?

そうですね、小学校高学年ぐらいからでしょうか。小学校で性教育が始まる時期に絡めて、伝えていこうと思っています。中学生にもなればこんな話を母親としたくないでしょうから、まだ性について素直に話し合える10歳、11歳までには伝えようと。

ただ、卵子提供を行っている先生から、「自分の重荷を下ろしたいために、子どもが聞いてもいないのにそういう話をするのはだめだよ」と指摘を受けたことがあって、その辺の兼ね合いが難しいなと思います。

いずれにしても、子どもの興味や理解度はそれぞれですから、話の流れで「今こういうことに疑問をもっているんだ、じゃあ、それに絡めて話してみようかな」と、あまり年齢にはこだわりすぎず、普段の会話のなかで細かく介入していくのが一番いいのかなとも思っています。

 

  親が隠し続けることで、子どもへの接し方が不安定になることも

―今後のドナーさんとの関わりについてですが、例えば将来、子どもとドナーさんの故郷を訪ねる、といったような構想はお持ちですか?

それはまったく考えていません。もちろん、子どもがドナーさんの国に行きたいと言えば連れて行きますし、子どもがドナーさんのことをもっと知りたいと言えば、できる限り協力します。

でもそうではなくて、親の気持ちを落ち着かせるために、あえて親のほうからドナーさんの情報を積極的に子どもに与えるのは、少し違うのかなと思っています。

もちろん、卵子を提供してくださったドナーさんには心から感謝しています。写真からはとても健康ではつらつとして、明るそうな印象を受けました。心根の優しそうなお嬢さんで、とてもいい方を選ばせてもらったと思っています。

ただ、ドナーさんに対する気持ちはそれ以上でもそれ以下でもありません。ドナーさんも、私たちと家族になりたくて提供をしているわけではないですし、ドナーさんにはドナーさんの人生があります。ですから、そこはあえて踏み入るべきではないのかなと、個人的に考えています。

―真実告知も、親が肩の荷を下ろしたいという理由でしてしまうと、子どもやドナーに負担になる可能性もあるということですね。一方で「子どもには一切告知をしない」という方もいらっしゃるのでしょうか?

はい。私は今、卵子提供を検討するご夫婦や、実際に卵子提供で出産された女性たちが相談できる場を作りたいと自助グループを運営しているのですが、そこでいろいろな方の話を聞いていると、なかには「子どもにも周囲にも一切告知しない」という方もいらっしゃるようです。

子どもができないという不安や怒り、焦りのなか勢いで卵子提供を選択し、出産後もその感情が消えないままである場合、「私はドナーさんのことは言わない」という選択をすることが多いように、個人的に感じています。

それが行き詰まると、育児にも影響が出てしまいます。一番よくないのは、「子育てがうまくいかないのは卵子提供で産んだせいかな」と思うことです。「血が繋がっていないことが原因」と考えてしまうんですね。

そうなると、一番犠牲になるのは子どもです。親が隠し続けることで、かえって子どもへの接し方が不安定になり、最終的にアイデンティティクライシスに陥ったお子さんの話も聞きます。

 


「育てる」ことにもっと関心が向き、手を差し伸べられる社会へ

  卵子提供を検討中の人や卵子提供で子を産み育てている人たちの相談窓口として、自助グループを立ち上げる

―正解のない難しいテーマですね。当事者の周囲に前例や相談できる先が少ないだけに、なかさんが立ち上げ、運営されている自助グループの存在意義は大きいですね。ぜひ、具体的な活動内容についてお聞かせください。

自分自身、卵子提供で出産すると決めてから、どんなに不安でもどこにも相談できる場がありませんでした。それならばと、2019年1月に当事者による卵子提供の自助グループ「アン・ネフェ」を作りました。卵子提供を考えていらっしゃる方や、すでに卵子提供でお子さんを産み、育てている方の相談窓口として、開設以来100件以上の相談を引き受けています。卵子提供カウンセリング、告知カウンセリングの分野を、当事者の立場から、正式な形で確立していく一助になれたらと思っています。

また、2月からは専門家の方とオンラインで「不妊治療の終わりと、その他の選択肢を考える会」を開催しています。

以前、「多様性家族」がテーマのセミナーに参加した際、特別養子縁組や里親でも子育てに悩んでいる方がたくさんいらっしゃることや、実の親と里親の両方から虐待を受けたという里子の方の話を聞く機会がありました。

もちろん、血の繋がりがなくても、実の親と同じかそれ以上に愛情を注いでいるご両親はたくさんいらっしゃいます。ですが、なかには少数ではあるけれども、子どもを持つことだけが目標になって、いざ親になってみると育児に困難を抱える家庭もあるのだと、改めて気づかされました。

―育ててみて初めて、自分の描いていた理想とのズレに直面する。子どもを育てる親共通の悩みでもありますね。

そうですね。私自身は卵子提供を受けて二人産んでいますが、必ずしも、日本での卵子提供を増やすことが活動の目的ではありません。「産むこと」だけが目標になってしまうと、産後の育児で壁にぶつかったときに「こんなはずじゃなかった」と思い悩み、結果的に卵子提供が根本的な解決にならなかった、ということもあると思うんです。

ですから、卵子提供や特別養子縁組、里親を希望するにしても、不妊治療の末の決断であるならば一度不妊治療の終わりと向き合い、不安や焦り、怒りの気持ちを落ち着かせたうえで、その他の選択肢を考えてほしい、そんなことをセミナーを通して訴えていければと思っています。

同時に、10代、20代の女性には、40代で不妊治療することの過酷さを伝えていきたいですね。やはり「卵子の老化」は現実として避けられないことですから、自分が経験したことを語り部のように伝えていけたらと思っています。

あともう一つ、若い方でも病気や早期の閉経などで、自分の卵子で妊娠することが難しい女性も少なからずいらっしゃいます。卵子提供というと高齢の女性を思い浮かべがちですが、若い方も対象になることがあるんですね。

本当に、様々な理由で卵子提供を必要とする方がいらっしゃることを広く知ってもらいたいですし、提供を受けた方が「卵子提供で子どもを産んだ」と、後ろ指を指されることのないよう、社会の理解を進めていく啓発活動もしたいと考えています。

 

  子育ての大変さは、自然妊娠でもそうでなくても、血が繋がっていてもいなくても、きっと同じ

―改めて卵子提供による出産、そして育児を通し、なかさんは「血の繋がり」にどのような想いをお持ちですか?

実は長男を出産して間もない頃、よく周りの人から「お子さんハーフ?」と聞かれ、どう答えたらよいものか、かなり困惑したんです。

今となっては、顔からハーフっぽさが抜けて聞かれることもなくなりましたが、やはり私とは顔が似ていないため、幼稚園の先生やママ友からどう思われているか、気になることはあります。今後は、どこまで卵子提供で産んだことを周囲に伝えていくかが、我が家の課題ですね。

それと、「自分の卵子で産めなかった」という思いも依然として、心のどこかにあります。自身も芸能界といわれる世界に長年身を置いている者として、芸能人の40歳を過ぎての妊娠報告に触れるたび、心がざわつくんです。嫉妬心かな。

でも、その気持ちを客観的に見るようにもしているので、すぐに目が覚めて「人は人。自分は自分だからね」って、日常に戻っていけますね。

こんなふうに、ふとしたときにちょっとした心の揺れは今もどうしてもあるんです。でもね、それよりも子どもたちへの愛情がどんどん沸き上がってきて、かわいくてしょうがないですよ。昔から子どもが好きだった夫も、「これまではどんな子でもかわいいと思ってたけど、自分の子どもは特別かわいい」って言っています。

―民法特例法で、卵子提供や精子提供で生まれた子の親の定義が明確になりました。今後は家族の在り方がより多様化していくかもしれませんが、どのような形であれ、育児の楽しさ、大変さに違いはないですね。

そうですね。日本では、子どもが欲しいとなった時、「どうやって授かるか、家族をつくるか」にすごくこだわってきた気がします。「絶対に自然妊娠じゃなきゃだめ」とか、「養子縁組は嫌」とか、「卵子提供を受けてまでは子どもをもちたくない」とか。授かるプロセスにはすごくこだわるけど、その後も地続きで続いていく肝心の「育児」については、今ひとつスポットが当たっていないのではと個人的に思います。

私も育ててみて初めて育児の大変さを思い知り、その大変さって、自然妊娠でもそうでなくても、血が繋がっていてもいなくても、きっと一緒なんですよね。

ですから、もっと社会全体が「産む」ことだけではなく、「育てる」ことに気持ちを向け、そこに手を差し伸べない限り、虐待やネグレクト、産み捨ては減らないんじゃないかなと思っています。

それに「子ども」と一言でいっても、6歳の子もいれば16歳の子もいて、いろんな年齢の子がいますよね。育児というと、どうしても赤ちゃんとの生活を想像しがちですが、そうではなく、いろんな年齢の子との生活の楽しさをもっと知ってもらうことで、不妊で悩んでいる人も、「育児って赤ちゃんだけじゃないんだな」って、広い視野と新たな選択肢が持てるんじゃないか、そんなことも感じています。

―最後に、お子さんとの夢をお聞かせください。

大きな夢ということではないですが、これから息子たちには、いろんな世界を見せたいと思っています。たとえば、いろんな形で結びついた多様性豊かな家族と触れ合ったり、大好きなスポーツがあったら、外国ではそのスポーツがどんなふうに行われているかを観に行ったり。

いろんな世界を小さいうちから見せて、広い視野のなかで、自分の人生を歩んで行ってもらいたいですね。

取材・文 / 内田 朋子、写真 / 本人提供


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