今だから振り返れる、正直な気持ち。妊活中に病気で子宮を失った私が、葛藤の果てにアメリカで代理母出産を決意するまで。<前編>

現在、アメリカのオレゴン州で暮らす陽子さん(47歳)が、同じくアメリカで働く日本人の夫と結婚したのは、33歳のときです。子どもが欲しいと願い翌年には妊活を始めるも、非情にも子宮内膜の病気が見つかり、医師から子宮摘出の選択を迫られました。

ここから始まる、陽子さんの長い長い葛藤の日々。結果的に夫婦が選択したのは、当時住んでいたカリフォルニア州で合法的に実施されている代理母出産でした。

病気の発覚から、代理母出産という選択に至るまで、陽子さんの心の内はどのような変遷を遂げたのでしょうか。今だからこそ語れる、当時と今の想いをインタビューします。

 

眞鍋 陽子/Yoko Manabe(写真右) 1976年生まれ、東京育ち。大学卒業後、4年半の会社勤めを経て2004年に渡米。西海岸を拠点とし、アメリカと日本のハザマでがむしゃら過ぎる30代を過ごす。
現在”日本人で良かった、私たちは本来ありのままで素晴らしい”をテーマにpodcast【にっぽんチャチャチャ】にて自身の学びと感動を発信中。


「子どもは自分で産むのが当たり前」と思っていた

 子どもを望む中で、子宮の病気が判明

―陽子さんは妊活を始めてすぐに子宮内膜の病気が分かり、これが代理母出産へと歩みを進めるきっかけと伺いましたが、改めて当時の病気が発覚した経緯と心境についてお聞かせいただけますか。

もともと子どもが欲しいという願望は昔から強くて、結婚した年齢を考えると、すぐに妊活を始めたほうがいいと考えていました。

そんな折、日本に一時帰国した際に受診した産婦人科検診で、子宮内膜にポリープがあることが分かったんです。医師からは「アメリカに戻ったらきちんと担当医に診てもらってください」と言われました。

今思えば、生理が年々重くなってきているなという実感はあったんです。アメリカに戻って産婦人科で調べたら、子宮内膜が過度に増殖して分厚くなる「子宮内膜増殖症」と診断されました。

さらに子宮内膜の細胞の一部を取って詳しい検査をしたところ、異型細胞が存在しているという結果が出て、放置すると高い確率で子宮体がんになるというのです。

細胞診の結果は、また別の婦人科がんの専門医から聞いたのですが、「子宮を取ったほうがいい」とその場で告げられ、そんな心づもりはまったくしていなかったので、ものすごい衝撃でした。

ー子どもが欲しいと、具体的なことを考えはじめた矢先、まさか子宮摘出の話をされるとは、お辛かったと思います。

はい。医師としては「子宮を取ってしまえば完治するから、それ以降はがんの心配をすることはない」という考えだったようです。

でも私は子どもを産みたいと思っていたところだったので、パニック状態というか、その場で泣いてしまって。何とかその場を立ち去りましたが、到底車を運転できる状態ではなく、駐車場で1時間ほど心を落ち着かせて、自宅に戻りました。

―医師からの突然とも思われる提案を、旦那さんはどう受け止められましたか?

まずじっくりと話を聞いて私の感情も含め、すべてを受け止めてくれました。辛かったね、と。それだけで心が軽くなったことを覚えています。

良くも悪くも感情の起伏が激しい私と違って、夫は柔和でニュートラルな性格。細かいことを言わずに「2人のことだから一緒にとにかく思いつくこと、やれることを全部やろう」と、絶望していた私の手を取って一歩前に引っ張ってくれました。

それで、きっと何か他にも方法があるだろうと、セカンド、サードオピニオンを聞いてみようということになりました。

3人ぐらいの医師に必死でアポを取り付けて検査結果を携え受診したのですが、「とりあえず出産して、その後考えましょう」と言う先生もいれば、「なんとも言えません」と言う先生もいて、見解がばらばら。本当にどうしていいか分かりませんでした。

そうしたら、最初に受診した産婦人科の先生が、薬でホルモン治療をして内膜を薄く保ち、異型細胞がなくなったら、妊娠にトライしてはどうかと提案してくれて。

私は、子どもは自分で産みたいと強く思っていたので、「何としてもそれを奪われるわけにはいかない」と、子宮は取らずホルモン治療を選択することにしました。

 命を最優先に、子宮摘出を決断

でも、薬によるホルモン治療も、結果的には奏効しなかったのですね。

1年半ぐらい錠剤を飲んだのですが、薬の影響でものすごく太ってしまい、顔もいわゆる“ムーンフェイス”と呼ばれる状態でぱんぱんになってしまいました。

食欲も止められないし、気分の浮き沈みも激しくて、どうしようもないやるせない気持ちのやり場がなく、とにかく何でも夫にぶつけてしまっていました。

仕事から帰ってくる夫を待ち構えて感情を吐露して泣く、の繰り返し…。副作用に慣れるのも大変でしたし、そもそも、毎日ホルモン剤を飲むという行為が、自分の体の自然な流れを妨げる行為のように思えて、受け入れ難い思いで治療を続けていました。

治療をしていた時期は、ちょうど仕事を辞めたあとでした。治療が仕事を辞める直接の原因となったわけではありませんでしたが、20代から30代にかけて仕事中心の暮らしをしていて、心身に多大な負担をかけた生活に限界を感じ、これ以上この生活は続けられないと思い、仕事を辞めました。

仕事を辞めても、私の代わりはいる。でも、自分の心身の健康を守り、幸せを実現するのは自分しかいないということを、頭では理解できていたつもりでも、当時は本当の意味で分かってはいませんでした。

当時は仕事を辞めて時間があり余る生活のなか、がんリスクの問題に加え、薬の副作用にどっぷり向き合わざるを得ず、どんどん疲れ果てていく自分がいました。

そんな妻の状況を受け止め続けなければならなかった夫も辛かったと思います。子どもを持てるかどうか悩んでいたのは夫も同じなのに、このときは本当に自分本位になっていたなと今では思っています。

自分で産みたいという気持ちがあったために、子宮は取らずホルモン治療を選択しましたが、次第に気持ちは変化していきました。

辛いホルモン治療を続けても、がんにならない保証はないし、そもそも命がなければ子育てはできません。複数回、異型細胞がないかどうかを調べるために内膜をかき出す処置をしたのですが、4回目に至っても、異型細胞が完全になくなることはありませんでした。

さすがにがんのリスクを抱えたまま妊娠を試みることはできず、不妊治療のスタートにも立てない現実を目の当たりにして、精神的にも肉体的にもこれ以上は無理だと判断し、夫婦で話し合った結果、子宮は諦めることにしました。

子宮を摘出しても、卵巣はまだ残ります。とりあえず卵子を採取しておき、受精卵の形で凍結保存しておいたほうがいいと考え、「私たちにできることはこれが最後」という想いで、採卵にも臨みました。

 

手術の前日、家に居られず訪れたカフェ

―心身ともに非常に辛い期間を過ごされたのですね。その流れで、代理母出産という方法を自然と考えるようになったのでしょうか?

いいえ。当時は目の前のことしか判断できない状況で、このときは子宮を摘出する決断をしただけであって、代理母出産を受け入れたわけではありませんでした。それは、もっとずっとあとのことです。

代理母出産については、カリフォルニア州に住んでいたこともあり、そういう方法が選択肢としてあることは最初から知っていたので、「子宮を取ったほうがいい」と宣告されたときから、頭の片隅にはありました。でも、頭の片隅にはあっても、決断までにはとても時間がかかりました。

「できれば自然な形で産みたい」という気持ちが昔から強かったので、「子宮を取っても、代理母出産で子どもを持てるから大丈夫」とは全く思っていませんでした。

自分ではない他の女性に、リスクを負わせて代理で出産してもらっていいものなのか、果たしてその価値観を私は受け入れられるのか。いろいろ考えると「その選択肢を選ぶかどうか、今の自分には判断できない」というのが正直なところでした。

手術後、退院する前に病院にて


代理母出産という選択を受け入れるまで

 納得いく答えを出したいと、一歩踏み出す

代理母出産という選択を受け入れるまでに長い時間が必要だったということですが、どのような気持ちの変化があったのでしょうか?

私たち夫婦の「子どもを持ちたい」という気持ちが消えることはなく、代理母出産という選択肢が頭からは離れないものの、本当にその選択をしてよいのか、葛藤を抱えたまま数年が経過していました。

その具体的なイメージも湧かなかったので、ある時、実際に代理母出産でお子さんを授かった方に話を聞いてみたいと思い、ロサンゼルスで代理母出産のアレンジをされている日本人の方がいると聞きつけ、連絡をしたんです。

その方を通して実際に当事者の方の話を聞く機会をいただいたり、代理母出産を経験した友達に話を聞いたり。あとはネットでとにかく調べながら、何とか手探りで情報収集をしていました。

そうしたなか、夫とも話し合って、「とにかく行動してみないことには分からないから、話を前に進めてみよう」ということになったんです。

ーそうやって最初の一歩を踏み出されたのですね。先ほど、「葛藤を抱えていた」とおっしゃっていましたが、その部分をもう少し詳しくお聞かせいただけますか。

そうですね、代理母出産を具体的に考えるとき、「ああ、大変なことに向き合うことになってしまった」というのが、最初の気持ちでした。

日本では代理母出産に対して否定的なイメージがあることも当然承知していましたし、私自身、代理母出産という選択にポジティブな気持ちををもっていたわけではありませんでした。

ネットで情報収集しても、「代理母の犠牲の上に成り立つ行為」といった専門家による意見も多く目にし、やはりというか、ネガティブな言葉しか出てこない。

一方で、子どもが欲しいという気持ちも、もちろんあります。ただ、子どもが欲しいからといって、代理母出産のネガティブな側面を無視するわけにはいきません。人間の自然の営みに反するものという感覚が当時の私にはありましたし、本当に「できれば選びたくない」、というのが正直な気持ちでした。

こんなふうにも考えました。子どもが持てないと決まったわけではなく、私は自分で産めないだけなんだと。だけど、自分で妊娠するというプロセスを経ないことって、どういうことなのか。

産めない=幸せではない、ということなのか。そもそも、子どもがいないと幸せになれないのか。そんなことを自分にずっと問いかけずにはいられず、葛藤して葛藤して葛藤し尽くして、今振り返ると、心が相当しんどい状況になっていました。

だけど、そうやって葛藤する過程のなかでも、「誰かが言っていることではなく、自分自身がどう感じるか。自分の人生なんだから、自分で納得のいく答えを出さないといけない」という気持ちは、やっぱりどこかにずっとあったんですね。

チャンスや可能性があるなら、とことんやってみて、導かれたところに自分たちの答えがあるかもしれない。代理母出産が合法であり、システムも整っているカリフォルニア州に、たまたま住んでいることにも何か意味があるのかもしれない。最終的に夫婦でそういう考えに至り、とにかく、一度やってみようと決断したんです。

手術後初めて散歩に出た時のアパートの桜

 一度目のトライをするも…

―いよいよ、代理母出産へと歩みを進めるわけですね。

実は最初の代理母出産は、結局途中で断念することになるんです。このときは金銭的にもそんなに余裕があるわけではなかったので、まずは比較的費用が安いところでやってみようということになり、弁護士がエージェントを務めているところに依頼しました。

保険など細かい部分を自分たちでアレンジすることで、その分費用が抑えられるということでした。でも、いざ保険の内容を自分たちで理解していくとなると、これが本当に難しくて。保険の専門家に聞いても何を言っているかよく分からなかったんです。

実際、代理母の候補となる女性にもお会いしたのですが、保険の部分で私たちの作業がなかなか進まず、彼女と契約を結ぶまでに時間がかかってしまいました。

少し話が戻りますが、私は子宮を摘出したのち、念のため卵子を取っておこうと採卵をしたのですが、結果的に、着床する確率の高い受精卵は1つしかできなかったんですね。

しかし、エージェントから「代理母候補の彼女はあなたの1個の受精卵のためにずっと待っている。彼女はあなただけではなく、他の女性の代理母になるチャンスだってあるんだからあまり待たせないで」と、急かすような、私にとってはとても心がえぐられるような言葉を投げかけられてしまって。

このエージェントの言葉を聞いたとき、「自分がやっていることは、誰かに迷惑をかけて、自分のエゴを実現しようとしている行為なのかもしれない」と痛烈に感じてしまったんです。とてもこんなことは続けられないと思いました。もうこれ以上できないと。

このとき、夫は新しいビジネスを立ち上げようと日本にいました。それですぐに夫に電話をかけて、「こういうわけなので、もう前に進めなさそうだ」と伝えたのですが、このときもすべて受け止めてくれて、「妻を傷つけることを言うようなエージェントは許せない」と、電話口で珍しく怒りを露わにしたんです。

―救われますね。

はい。「この人がいてくれて本当によかった」と心から思いました。夫の言葉に、これまで自分のことしか考えていなくて、自分がかわいそうだとばかり思っていて、本当に何も見えていなかったことにハッと気づかされて。

さっきまで傷ついて泣いていたのに、今度は苦悩の日々に常に寄り添ってくれていた夫の存在と、辛い時間を経て、私たち夫婦が絆を深めその信頼関係がより強固なものになっていたことに気づき、気持ちが高まり泣いていた自分がいました。

ないものを欲しがってきたけれど、もうすでに持っているものにやっと気づけた。これ以上私は何を望んでいるんだと。私はこのままでいいと思いました。そしてこれからも大丈夫だと。

この時、私のなかで代理母出産という選択に対して、一旦気持ちの区切りがついたんです。

子宮摘出と採卵を終え不妊治療を忘れて楽しむことにフォーカスしていた頃

 

取材・文/内田 朋子、編集/青木佑、写真/本人提供、協力/中山 萌


<後編>では、一度は代理母出産をあきらめた陽子さんが、改めて代理母出産に挑戦するプロセス、そして実際に代理母出産を経験し、歳月が経過した今だからこそ語れる、当時と今の胸のうちについてインタビューしました。


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